君が滲んでみえない
 夏の匂いがする。いつも予選の一回戦で負けるのにやたら熱心な野球部が校庭に水を撒いている。ホースの先から飛び出す水は白かった土を茶色に染上げる。教室にいてもグラウンドの土が水を含んでいく匂いがした。教室中の窓は開け放たれているが、風は僕の前髪を少し動かす程度しか入ってこない。窓際の席だからまだ風を感じられるが、中央付近に座っていようものなら気が狂っていただろう。さらに汗で体に張り付いたシャツが不快度を上げる。窓から流れ込んでくる油蝉の声に負けないように、まだ若い担任が教卓の前で声を張り上げる。

「誰か、入院中の月浜さんに夏休みの宿題を届けてもらえませんか?」

 教室の誰も手を挙げない。誰か仲のいい奴はいないのかと思ったが、月浜、確か、月浜リコは、高校の入学式から一度も学校に来ていない。そこからずっと入院したまま1学期は終わろうとしている。そんな奴に友達ができるわけもないかと思っていると、僕の前に座っている赤園アンナが手を挙げる。

「あら、赤園さん、今日は部活ないの?」

「いえ、フウタ君が持っていきます!」

 僕は思わず声を上げる。

「なん言っちょっとよ」

 アンナがポニーテルを揺らして振り返る。

「いいがね、家近いんやから」

「そんなの理屈になっちょらんよ」

「このクラス帰宅部なのあんたくらいやとよ」

「毎朝、サーフィン行っとるがね」

「いいやろ、朝なんやから。昼は行かんとやろ?」

「そうやけどさ」

「男のくせに小さかね」

 担任を見ると不安そうな顔でこちらを見ている。クラスの奴らは頑なに僕の視線を避ける。

「……分かりました」

「ありがとう!ホームルーム終わったら職員室に来てくれるね?」

 その後、1学期最後のホームルームは何事も無く終わり、クラスの奴らは各々部活へと向かっていった。



 職員室に向かうと良く効いた冷房が僕を出迎えてくれた。担任の水木サヨコのところへ向かうと大量のプリントを紙袋に詰めていた。

「助かったわ、岡吹君」

 サヨコ先生は大きな紙袋をこちらに渡す。受け取ると想像よりも重たく僕は重心を崩す。

「あら、重いね?」

「いえ、大丈夫です」

「自分の分もあるかいねぇ」

 ならお前が持ってってくれと思ったが心に留めて応える。

「あの、大学病院だと家とは反対方向なんですよね」

「あー、大丈夫よ。月浜さんは大学病院に入院している訳やないから」

「この町の病院ってあそこしかないですよね?」

「水化病専用病棟って知らんね?」

「水化病専用病棟?あそこって廃墟なんや?」

「なん言っちょとね。ちゃんとやっちょるよ。確かに今時水化病って珍しいけんどね」

 サヨコ先生は、机にあったうちわで首元をパタパタとあおいだ。

「あの」

「ん?」

「月浜さんの病気って」

「そりゃ水化病よ」

「そうですよね」

「うつらないように気をつけときないね」

 僕は軽く一礼して職員室を出た。扉を開けると、夏の暑い風にぶつかる。



 太陽は僕の真上にある。太陽の刺すような日差しは容赦なく照り付け、アスファルトからは陽炎が立ち上がっている。すぐ脇の国道は車がビュンビュンと勢いよく通っている。僕は重たい紙袋を抱えて一人歩道を歩く。この苦行を30分続けると水化病専用病棟につながる道に出る。水化病専用病棟へは、国道の下を潜る通路を通らなければならなかった。国道の下を潜るこの通路は湿気が多く陰気臭かったが、日差しのない分ひんやりとしていた。少し歩いて通路を出ると心地の良い風がふいた。通路を出るとすぐ高いフェンスが目についた。このフェンスは水化病専用病棟を囲んでいるもののはずだからこれに沿って歩いていればどこかで出入り口にあたるはずだった。この目論見は当たって、すぐに出入り口を見つけた。木の看板に大きく“第46号水化病専用病棟”と書かれている。出入り口は両脇にソテツの木が植わっており車2台分は余裕を持ってすれ違えそうな大きさである。出入り口は開け放れており、入ったすぐ横には守衛のいるコンクリートでできた小屋があった。うつらうつらと船を漕いでいる守衛は20代くらいに見えた。

「あの、すみません」

 守衛に窓越しに話かけるが、守衛は起きない。

「すみません」

 窓をノックしながら話かけるとようやく守衛は目を覚ます。守衛がガバッと起きて窓を開けると冷たい風が洩れ出してくる。

「はいはい、何かね」

「すみません、月浜リコさんに届けものなんですが」

「月浜さん?職員の方やろか?」

「いえ、多分患者さんやと思うんですけど」

「患者さん?珍しかねぇ。どれ渡すとね?」

 僕は紙袋を掲げる。

「これです」

「私が渡しとこうか?」

「いいんですか?」

「ええよ、ええよ」

「ありがとうございます」

 僕は少し拍子抜けしながら紙袋を渡す。一度もクラスに顔を出していない同級生の顔を見たくなかったかと言えば、嘘になる。

「よろしくお願いします」

「ええよ、名前だけ教えてくれるね?」

「岡吹フウタです」

「岡吹フウタ君ね。はい、確かに預かりました」

「じゃあ、これで」

「うつされたらたまったもんやないからね」

 守衛はゼハゼハと下品に笑った。僕は軽く会釈をしてそこを後にする。やたらと高いフェンスの横を歩いていると、どこからと水の跳ねる音が聞こえてきた。ふと顔をフェンスの方へ向けると、水面から顔を出している水泳帽にゴーグルをつけた水着姿の女の子と目があった。ゴーグル越しだったのではっきり目があったと言えるわけではないがなぜか目があったような気がした。女の子はプールから上がるとこちらへ向かって歩いてくる。彼女がゴーグルを外すとアーモンド型の人好きしそうな目が見えた。続いて、彼女は水泳帽を外した。少し遅れて肩の上までで切りそろえられた少し茶色がかった髪が水滴を垂らしながら露わになる。彼女の肌はとても白かった。それ以上に目を引いたのは、彼女の首から左肩に掛けて透けていたことである。彼女の左肩は水槽のように光の一部ををキラキラと反射させて、ほとんどの光は透過させていた。プールは高くなっていて、今の僕の目線は彼女の小さなくるぶしにあった。彼女はどんどん僕の方へ近づいて来て、フェンスを挟んですぐ向こう側でしゃがみこんだ。少し見上げた僕の目の前にはちょうど彼女の膝が来ている。彼女の膝から水滴が滴り落ちる。

「その制服!私の高校と一緒!」

「月浜さん?」

 彼女は少し驚いた後に、整った顔をくしゃくしゃにして笑う。

「そう!なんで知ってるの?」

「さっき夏休みの宿題を持ってきたとよ」

「ほんとに!ありがとう!誰かが来てくれるなんて初めて!」

「守衛さんに渡しといたから」

「うん!楽しみ!」

「夏休みの宿題が楽しみな奴がおるとね?」

 月浜さんはコロコロと笑う。

「ほんとだね!けど、私、勉強好きよ?」

「変わっとるが」

「うーん、そうかな」

「そうよ、……僕、そろそろ行かんと」

 月浜さんの表情があからさまに曇る。

「暑いもんね」

「そうやね、月浜さんも裸足やと熱いやろうし」

「私は大丈夫!あの、お名前聞いてもいい?」

「岡吹フウタって言うとよ」

「フウタくんね!」

「そう、じゃあ、そろそろ行くわ」

「ね!フウタくん!明日も来てくれる?」

「来るって?」

「……ここに」

「なんでね?」

「学校の話とか聞かせてほしいの」

「あー、……うん、気が向いたら来るがね」

「ほんとに!ありがとう!私、いつも2時から3時の間、ここで泳いでるの!絶対来てね、約束よ」

 月浜さんの目は何だかとてもキラキラしているような気がした。

「来れたら来るがね」

「約束よ」

 月浜さんは嬉しそうにそう言うと、またプールへとパタパタと小走りで戻っていた。



 次の日は朝から蛇口を思い切り開けたような雨だった。僕は少し安心した。この雨なら月浜さんはさすがに外で泳いではいないだろう。

 あの日帰ってきた後月浜さんがかかっているという水化病についてネットで調べていた。水化病というのはどんどん体が液体になってしまう病気だ。どんどん透明になっていって最後には水になってしまう。この死んだ後の水に触ってしまうとその人も水化病になってしまう。今では、この死んだ後の水を浄化する装置が開発されており新たに感染する人はいないらしい。何よりも普通の生活をしていて他人にうつすことは絶対にないということであった。先生もあの守衛も何も知らずにあんなことを言っていたことに少し腹がたった。

 お昼には、この夏、何度食べることになるのか分からないそうめんの第1号を食して、宿題に手を付けているともう時計は3時を回っていた。雨は依然として降り続いている。なんだが僕はそわそわしていた。月浜さんの“約束よ”といった顔が何度も浮かんだ。まさかとは、思ったが僕は念のために様子を見に行くことにした。

 外はまだ結構な勢いで雨が降っていた。傘をさしてはいるが、少し歩いただけでスニーカーはぐちょぐちょになった。あの通路を抜けると高いフェンスが見える。僕はプールの方へと向かう。フェンスに小さく寄り掛かる人影が見え僕は走り出した。

「なんしよっとね!」

 体育座りでフェンスにもたれていた月浜さんは力なく振り返ると、これまた力なくほほ笑んだ。

「あ、フウタ君。来てくれたんだね。うれしい」

 月浜さんは小刻みに震えていた。

「いくら夏の雨やからって、風邪ひいてまうよ」

「いいの、どうせ私、もうすぐ死んじゃうんだから」

「そんな理屈通らんよ。はよ、中に入らんね」

「ありがとう、けどもっと話したいの」

「わかったから、明日も来るかい」

「ほんと?約束よ?」

「約束や」

 月浜さんはフェンスの網目の間から白く細長い小指を出した。僕は右手の小指を彼女の小指に絡ませる。

「約束ね」

「分かったかい、はよ、入らんね」

 月浜さんの小指が僕の小指からするりと離れて行く。

「待ってるから」

 月浜さんはそう言うと、力ない足取りで帰って行く。雨が傘を打つ音が強くなる。僕の小指には、月浜さんの小指の感触がいつまでも残ったままだった。