森に入ると気温が数度下がったように感じた。
 幾重にも重なり伸びた枝に生い茂る葉。川から吹く風で室内よりさらに涼しく感じる。
 それでも歩いていれば額に汗はにじむもので、それを手の甲で拭いながらミオはラズベリーの木が密集している場所で足を止めた。

「うわ、沢山のラズベリー。僕、木になっているの初めて見たよ。ねぇ、サザリン、食べてもいい」

 返事を聞くより早くベニーは真っ赤に輝く宝石のような実に手を伸ばす。
 サザリンも子供らしい顔になって、二粒採りハンカチで丁寧に拭くとベニーに一つ手渡した。

「美味しい。でも、ちょっと酸っぱい」
「家ではシロップ煮を食べることが多いものね。でもこの酸味がさっぱりして、私はこのまま食べる方が好きかも」

 そう言いながらサザリンはさらにラズベリーに手を伸ばす。
 店にいた時は「神の気まぐれ」を前にして彼女なりに緊張していたのだろう。今はすっかりリラックスしてラズベリー狩りを楽しんでいる。

「ミオさん、私、随分食べているけれどいいのかしら」
「もちろん。ここは領主様の土地と聞いていますし、この奥にもラズベリーの木はあります。そもそも、サザリン様達が召し上がったぐらいでジャム作りに差し支えはありません」
「そう、じゃ、遠慮なく。私、こんな風に木から摘んで食べたことがないから楽しくて」

 まるで姉弟のように仲の良い二人を横目で見ながら、ミオは良く熟したラズベリーとその葉をカゴに入れていく。手早く取ってもカゴいっぱいにするにはそれなりの時間がかかるので、今日はほどほどで切り上げ、足りない分は明日採りにこようかなと考えた。

 そのうちベニーが暑い暑いと言うので、ラズベリー狩りを中断して川に行くことに。
 川岸にある大きな石に腰掛け、靴を脱ぎ川の中に足を入れる。水はひんやりと冷たく、持っていたタオルも濡らし首筋に当てた。

 ベニーに至ってはじゃぶじゃぶと川の浅瀬に入っていき、何やら小さな魚と格闘を始めた。
 川の流れは緩やかで、サザリンとミオは足首より深い場所に行かないよう声をかけながら見守ることに。

(あー、なんか長閑だな。このままごろりと横になりたい)

 心配事が消えたわけではないけれど、悩んだからと言って解決するわけではない。
 サザリンに年を聞けば十六歳、ジークと同じ年齢だった。

(ジークにしてもサザリンにしても年齢差があるのに話が意外と合うのよね)

 自分の異世界年齢を知らないミオはそう思う。
 流行の食べ物や店の話で盛り上がっていると、少し向こうの低木ががさりと揺れた。風かと思ったけれど、どうやら揺れ方が違う。ガサガサと左右に小刻みに揺れる様は、そこに何かが隠れているような。

(そういえばこの森で動物を見たことはなかったわ)

 沢山の実がなり、水があり、枯れ葉が重なってできた柔らかな土や大木は動物達の寝ぐらにピッタリな気がする。

 ガサガサ、ガサガサ。
 次第に大きくなるその揺れに、本能的に足を川から出して立ち上がった。ミオのその反応に水と戯れていたベニーも低木を見る。
 一拍、サザリンの顔色がさっと変わった。

「ベニー、こっちへ!!」

 駆け寄ってきたベニーを抱き上げ、濡れた足のまま靴を履く。顔は青ざめそれでも低木から目を離さない。

「ミオさん、ゆっくり後退りをして」

 震える声。それと同時に、まるで言葉を理解し逃さんとばかりに大きな茶色い毛の塊が低木の向こうから飛び出てきた。

 長い耳、短い手足、丸い体。
 普通なら可愛いと表現されるであろうそれは、しかしミオが両手を広げるほどの大きさがある。丸くつぶらなはずの赤い瞳は猛々しく、口元からはグルル呻き声とともに唾液か垂れる。そして頭には大きな角。

「……もしかして一角兎?」

 かつて食べた真っ赤な肉が脳裏によぎる。生々しい、血のような赤。ぞくりと身体中が泡立つ。

「背中を向けないで、ゆっくりと遠ざかりましょう」

 サザリンが震える手で、ミオの袖を引っ張る。ベニーに至っては今にも泣きそうな顔でサザリンにしがみ付く。
 サザリンとて一角兎と対峙するなど初めて。ただ、数年前まで魔物の恐怖と背中合わせに生きてきたので、ミオより知識はある。しかし当然ながらやりあう方法など知らない。

 ゆっくり石から下りる。少し間合いが取れたと思ったのに、一角兎は短い足であっという間に詰め寄ってきた。目の前に迫る初めての死の恐怖。

 一角兎が僅かに態勢を低くした。また、飛び跳ねようとしている、そう思った時にはすでに宙にいた。太陽を背に黒いシルエットが頭上から降ってくる。

(二人を助けなきゃ)

 この場にいる大人は自分だけ。
 しかも森に誘ったのはミオなのだ。
 ミオはサザリンの肩を力いっぱい押し飛ばし一角兎の軌道の外へ。次いで自分も走り逃げようとするも、それより早く目の前に一角兎の顔が現れた。着地の振動で地面が跳ねる。

 鼻先三寸、とはこのことか。
 自分の顔の何倍もある頭部。
 濡れた鼻先からは荒々しい息が漏れ、獣特融の生臭い匂いが鼻をつく。
 大きな口から覗くのは、鋭い二本の前歯。斧のように鋭く分厚いそれに血の気が一気に失せた。

(もう無理!)

 丸い瞳は真っ赤な血に濡れたようで、その視線から逃れたく両手で頭を覆いしゃがみこむ。同時に頭上を一角兎の前足がかすめた。偶然にして危機一髪。あんなの喰らっていたら即死だ。

 腰が抜けた態勢で見上げると、一角兎はさらに大きく感じる。もう立つこともできず、しりもちをついたままずりずりと後退するも、今度は伸びた蔦が足に絡まってしまう。

「サザリン様、ベニーを連れて早く逃げて!!」

 視界の端に移った二人にありったけの声で叫んだ瞬間。
 大きく口を開けた一角兎の喉の奥が見えた。
 もはや、ここまで、そう思い目を瞑った刹那、様々な光景が頭をよぎった。

 居場所のない生活。
 預けられた施設。
 いじめられ帰ってきたミオに施設長が入れてくれたあったかいハーブティー。
 ミオの頭を撫でた皺くちゃの手。

 すっかり忘れていたあの日の温もり。
 ハーブティーを初めて飲んだ時に感じた優しさ。

(これが走馬灯か……)
 
 ミオは覚悟を決めた。せめて二人が逃げのびてくれることを願う。

 それなのに、いつまでたっても痛みは来ない。

 どうしたのだろう、と恐る恐る目を開けたその先。
 見慣れた背中が剣を手にし目の前にあった。

「ジーク!!」
「もう大丈夫だ。そのままそこにいて」

 ミオを背に庇い両手で剣を構え、しかし視線は一角兎から外すことはない。

 ジークは、ザッと地面を蹴ると次の瞬間にはトップスピードに達し、一角兎の懐へと飛びかかる。いや違う。突進するように見せかけ敵が身構えたのを確認すると、数歩手前で横に飛んだ。
 喉から肩、腰へと斜めに剣を振り落とし、完全に背後に回ったところで手首を捻り腰の辺りに拳を深く差し込む。

 ギャッ――!!

 耳を切りさくような悲鳴がこだまし、二メートルの巨体がドサリとその場に倒れ伏した。
 それは一瞬のことだった。