騎士団に軟膏薬を届けてから約一週間。

 ランチの時間も終わり店を閉めようとした頃、店の前で蹄と車両の音がした。ミオは時計を見るも、辻馬車が通る時間ではない。はて、と首を傾げたところにカラリ、とドアベルがなった。

「いらっしゃいませ」
「あの、こちらに『神の気まぐれ』様がいらっしゃると聞いたのですが……」

 その呼び方に怯みつつ見れば、見たことがある侍女服姿の女性が立っている。町で見つけた迷子を届けた詰所にいたマーラだ。
 マーラもミオの顔を覚えていたようで、近くまでくると頭を下げた。

「あの時はお世話になりありがとうございます。衛兵からベニー坊ちゃまを助けて下さったのは『神の気まぐれ』様と聞き、改めてお礼をお伝えしに参りました」
「それはわざわざありがとうございます」

 ミオははどうして私だと分かったのだろうと、不思議に思うも、それにはちゃんと理由がある。
 一週間前、ミオを送り届けたジークがその足で町の詰所に行くと、そこにいたのは迷子騒ぎの時にいた衛兵。彼に「あの時一緒にいた女性は誰だ、傷が塞がったのはどういうことか」と聞かれ、素直なジークはやはり素直に答えた。

 衛兵の雇い主は領主。その話が領主の妻の耳に届き、こうしてマーラがやってきたのだ。

「それで、もし宜しければ今から屋敷に来ていただけませんでしょうか。奥様が直接坊ちゃまを助けて頂いたお礼をしたいと申しております。それから、ハーブティーの話を耳にされ、是非飲んでみたいと仰っておりまして」

 今から領主様のお屋敷。ミオとしては心の準備も何もあったものではない。

(でも、騎士団の近くにある森は領主様のもの、うまく頼めば少しぐらい森でハーブを摂るのを許して貰えるかも知れない)

 今日はリズのお店は定休日、ジークも昨日来たからもう誰も訪ねてこないはず。ここは思い切って行ってみよう、そう決めた。

 ハーブを飲みたいということなので、ティポットと飲みやすいハーブをいくつかバスケットに詰める。カップや砂糖は領主のお屋敷にあるのでそれを借りることに。
 他所行きの紺色のワンピースを久々に引っ張り出し、パンプスを履き、ミオはマーラと一緒に領主の家へと向かった。

 馬車はまっすぐ町へと向かい、見覚えのある大きな噴水の前で曲がると、緩やかな坂を登り始めた。坂の両橋にはオイルランプがあり、門構えの大きな店が軒を連ねる。

 目の前に現れたのは石を綺麗に積み上げアーチ状にした門。馬車はそこを潜ると、多彩な花々が咲き誇る庭を進み、大きな屋敷の前で止まった。赤銅色の煉瓦で造られた三階建ての大きな屋敷。それでも重苦しい雰囲気がしないのは開け放たれた出窓に揺れる白いレースのカーテンのせいだろう。屋敷の中まで日差しや風が届いていそうだ。

「こちらでございます」
 
 マーラが扉を開けると小さな男の子が走り寄ってきた。ニコニコ笑顔でミオを見上げるとペコリと頭を下げる。

「『神の気まぐれ』この前は助けてくれてありがとう」
「いいえ、私は大したことはしていません。それからベニー坊ちゃん、私はミオと言います。良ければ名前で呼んでください、マーラさんもお願いします」
「分かった! ミオだね」

 無邪気な笑顔にミオの頬も緩む。ついでにあの二つ名で呼ばれないことにほっとする。 
 ベニーはミオの手を引き、玄関ホールの正面に伸びる階段を登っていく。階段は大理石だろうか、白く光沢がある四角い石が整然と並んでいた。

 二階に着くと、ずんずんと廊下を進み茶色の扉の前で止まると勢いよく開けた。

「お母様、お連れしたよ!」
「あらあら、ノックもしないで。申し訳ありません」

 ソファから立ち上がったのは明るい茶色の髪をゆったりと纏めた女性。明らかにミオより年下に見える。

「初めまして、ミオと申します。町から少し離れた場所でハーブティーのカフェをしています」
「わざわざ来て頂き申し訳ありません。こちらからお礼に伺いたかったのですが、最近馬車酔いが酷くご足労願いました」

 そう言ってふっくらとしたお腹に手を当てた。臨月とまではいかないけれど、充分目立つ大きさ。悪阻の時期は過ぎたけれど、お腹が大きくなって胃を圧迫するから乗り物酔いが酷くなった、と仕事仲間が言っていたことを思い出す。

(そうなると、この人にいいハーブティーは……)

 持ってきたハーブのうちいくつかは除外し、残りのものから何が良いかと考える。事前に教えてくれていれば、選ぶハーブも違っていたのに、と思わなくもない。

「先日は息子がお世話になりありがとうございます。わたくし、ベニーの母親のマーガレットと申します。どうぞソファにお掛けになって」
「ありがとうございます」

 ミオは勧められるまま、マーガレットの前に腰を降ろす。ベニーはソファに膝を乗せよじ登るようにして母の隣に座った。

「マーラ、あれをミオさんに」
「はい、畏まりました」

 マーラは窓際のチェストに置かれている小さな白い布袋を手にすると、それをミオの前にあるローテーブルに置いた。小さくカチャカチャ音がするので中身はおおよそ想像がつく。手のひらサイズだけれどずしりと重そうだ。
 ミオは慌て胸の前で手を振る。

「私は大したことをしていません。それに詰所までベニー坊ちゃんを連れて行ったのはジークという騎士です」
「ええ、それは聞いています。彼にもお礼をとお手紙を書いたのですが、騎士として当たり前のことをしただけなので謝礼は受け取らないと言われました」
「それなら、私も」
「あら、あなたは騎士ではないわ。民を守る義務はございません」

 それはそうだけれど、迷子を助けるのは大人として当たり前なわけで。
 困った顔で白い袋を見るミオに、マーガレットは

「では、それはハーブティーの出張代として受け取ってください」

 と言って小袋をミオの前にずずっと勧めた。引っ込めるつもりはないらしい。
 袋の中に詰められた硬貨の種類は分からないけれど、枚数的には五、六枚。まさか金貨ではないと思うけれど、銀貨であっても出張代には充分多すぎる。

(でも、ここで押し問答するのもおかしいのかも知れない)

 異世界の常識は分からないし、貴族の懐具合はもっと分からない。ただ、お屋敷を見る限り平民の何十倍、いや、何百倍も資産はありそうだ。それなら、これ以上断り続けるのも無粋だと、ミオは小袋を受け取ることに。

「ありがとうございます。ですがやはり頂き過ぎです。数種類のハーブを持って来ましたから、もしお気に召したハーブがあればお譲りします、仰ってください」
「それは楽しみだわ。譲って頂けるなら淹れ方も教えてくださらない?」
「もちろんです。あとで詳しくご説明します」

 ミオは小袋をバスケットに仕舞うと、変わりにハーブを取り出した。