ヤロウ軟膏を作った次の日。
 ミオの朝はいつも通りに忙しい。顔色の悪いおじさんにハーブティーを出し、その傍らで明日の朝の仕込みもこなす。
 ランチタイムも無事終わり、パンを捏ねると二階に上がり手早く用意をした。

(魔物……)

 そいつの存在はどうやっても気になる。野放しの肉食獣に会いに行くよりたちが悪いのではと思う。

(いざとなったら逃げれるように)

 ジーパンはそのままに、汗をかいたTシャツを脱ぎ襟のついたストライプシャツに着替える。仕事として伺うにはラフすぎる格好だけれど、ジャケットは不似合いな気がしてやめておいた。

 一階に降りると、スープを水筒に入れパンを片手に店先に出る。通勤ラッシュ時はともかく、この時間の辻馬車は御者の気分次第か、と突っ込みたくなるぐらい時間にルーズだ。

 馬止めの杭に腰掛け食事をしながら待つこと十五分、やってきた辻馬車に手を上げ乗り込む。先客は老夫婦一組だけ、やはり昼間は客が少ないようだ。

 辻馬車はポクポクと長閑な音を立て、しかし、その音に似合わぬ速さで進む。すぐに左側に緑の屋根の平屋が見えた、リズの家だ。家の横の小屋の中では大きな鶏が羽をばたつかせていた。

 馬車は進み続け、緑のトンネルを抜けると村に辿り着く。畑の中にポツポツと家があるそこは、庭と畑の境界線が曖昧。よく熟れたトマトやナス、木には蜜柑やリンゴがなっていて、軒下には野菜らしきものが吊り下げられていた。
 時々聞きこえる家畜の声は、牛や豚ということにしておこう。

 村の外れで夫婦は降り、小川を越えると今度は森に入った。鬱蒼と木が生い茂り、葉がトンネルのように伸びるそこは少し薄暗い。
 でも、だからといってミオが見間違えるはずがない。

「えっっ!!」

 思わず立ち上がり、窓を開け上半身を乗り出す。
 少し冷んやりした風と、森特有の濃い緑の匂いが鼻をくすぐる。

「あれは……リンデン?」

 道から少し奥に入ったところにある背の高い木。クリーム色の花はハーブティーでもよく使われるリンデンの花のように見えた。

「この国にもハーブはある?」

 ミオはそのままじっと森を見続ける。窓枠を握る手にぎゅっと力が入った。

 でも、あたりに民家がないせいか馬車は急にスピードを上げた。次から次へと目の前を流れる緑、この状況で草とハーブを見極めるのは至難の業。
 それでもと、必死で目を凝らしていたけれど、ハーブを見つける前に森を抜け出てしまった。

 森を抜けると草原が広がり、道のずっと先に石を積み重ねた壁が見えてきた。五メートルほどの高さでぐるりと周りを囲っている。国境だ。
 馬車はその手前でぐっと右に曲がり小高い丘を登り始めた。進むにつれ丘の天辺にある茶色い屋根が見えてくる、騎士が暮らす寄宿舎だ。その横には平屋建ての建物、厩舎と続く。

 馬車が寄宿舎の少し手前にある木製の小屋の前で止まったので、降りて御者に大銅貨ニ枚を渡す。
 やけにじろじろ見られている気がしないでもないけれど、そこは気づかない振りで礼を言った。
 この後、御者は「神の気まぐれ」を乗せたと同僚や家族に自慢するのだが、それはミオが預かり知らぬこと。

 馬車が立ち去ると、ミオは小屋へと向かった。騎士団への面会の受付はここですると事前に聞いている。

「すみません、ドイル隊長に会いに来たのですが」
「はい、お伺いしております。あなたが『神のきまぐれ』ですか」

 途端、キラキラした目を向けられミオは数歩後ずさる。受付の老騎士は何やら期待をこめて見てくるけれど、そんな目で見ないで欲しい。

(前回、前々回の『神のきまぐれ』が凄すぎて、申し訳なくなってくる)

 食糧難を救い、生活様式を劇的に変えた先代達の偉業を有難く教授しつつも、プレッシャーが凄い。

 老騎士は先に立ち、「ささ、こっちです」と案内してくれた。背中がウキウキしている。騎士寮の外廊下を歩き、渡り廊下の向こうにある平屋の真ん中ほどにある扉の前で立ち止まりノックした。

「ドイル隊長、『神の気まぐれ』様をお連れ致しました」

 様までつけられ、ミオは下を向く。実に居た堪れない。扉が開かれ出向かえてくれたのは意外なことにジークだった。

「いらっしゃい。一人で辻馬車に乗れたみたいだね」
「ええ。それよりどうしてジークがここに?」
「ドイル隊長に呼ばれたんだ。ヤロウ軟膏を作るのを手伝っているし、その効き目を唯一知っている騎士だからだそうだ」

 ジークに案内され中に入ると、正面の執務机に座っていたドイルが立ち上がり、傍にあるソファーに腰掛けるよう勧めてきた。缶が入ったカバンを膝に乗せ座ると、向かい側にドイルが座りその後ろにジークが立つ。

「わざわざよく来てくれた。不躾な注文に応じてくれたこと改めて感謝する」
「いえいえ、そんな。国境も一度見てみたかったのでいい機会です」

 ミオはさっそく鞄から缶を取り出しテーブルに置く。そのうちの一つを手に取り、蓋を開けるとドイルに手渡した。

「これがヤロウ軟膏です。十個作ってまいりました」
「うむ」

 ドイルは受け取ると鼻先につけ匂いを嗅ぐ。それから指先で軟膏を掬うと、感触を確かめるように指を擦り合わせる。

「これを患部に塗ればよいのか」
「はい。それから軟膏をたっぷり塗った布を当てて固定するのも良いかもしれません」

 迷子になったベニーを思い出しながら提案する。根拠はないけれど、ただ塗るより効果がありそうな気がした。
 ドイルはしばらくそれを見ると、おもむろに腰から短剣を抜く。ミオが「あっ」とデジャブを感じる間もなく、短剣を口で咥え自分の手の甲をきる。赤い筋が手の甲を流れた。

(どうしてこの世界の人は簡単に刃物で自分を傷つけられるの?)

 やはり痛覚が違うのだろうか。ドイルは平然として眉一つ動かすことなく、ジークに傷口を見せ軟膏を塗るように命じる。傷が深さ数ミリ程度だったこともあり、塗った瞬間に傷は跡形もなく癒えた。

「これはすごい! まさかここまで即効性があるとは思わなかった」
「今のは浅い傷だったからだと思います。でも、軟膏にしても効き目が変わらずほっとしました」
 
 寧ろ効き目は良くなっていると言える。とりあえず良かったと肩の荷が降りる思いで背もたれにもたれれば、期待の込められ眼差しをドイルが向けてきた。お前もか。