次の日の二時、ランチ最後の客を見送ると明日のパン生地を捏ね下準備を手早く終える。

(洗い物は帰ってからにしよう)

 パンは発酵時間がかかるからこの時間にはしなきゃいけないけれど、洗い物はシンクに水を溜めつけておくだけに。壁の時計を見れば、もうすぐジークが来る時間だ。ミオは手早くエプロンを外すとタッタッタッと二階に駆け上がる。
 
 すっきりと片付いた部屋のクローゼットをあければ、季節ごとに服が整理されている。以前のようにセーターの下から半袖が出てくることはもうない。ジークに感謝だ。
  
「ちょっと暑くなってきたし、シャツ一枚でいいかな」

 リズに聞けばこの世界にも四季はあって、これから夏になるらしい。水色のストライプのシャツと膝下丈のカーキのスカートを選ぶと、着ていた仕事用のTシャツとGパンを脱ぐ。

 結んでいた髪は解いてハーフアップにし、軽く化粧をしてからハッと気がついた。

「これじゃまるで浮かれているみたいじゃない」

 アラサーが十代相手に恥ずかしい。下手すりゃ犯罪者だと慌てて髪を解く。うっかり髪飾りまで付けるところだった。軽くブラシを通して鞄を持ったところで下から声が聞こえた。

「ミオ! 用意はできた?」

 覗けばジークがこちらを見上げている。当然ながらいつもの騎士服ではなく、洗いざらした白いシャツにちょっと色あせた紺色のズボンを履いていた。爽やかだ。

「すぐに行くわ」

 返事をして窓を閉めると、もう一度鏡を見て気合いを入れすぎていないか確認する。
 スカートを履くのは異世界に来てから初めてだけれど、初の町デビューなのでそこはいいとしよう。
 階段を降り扉を開けると、ジークは店のわきにリズが作った馬止めの杭に紐を縛っていた。馬の前には藁と水がすでに置かれている。

「お待たせ。休日なのにごめんね」
「いいよ、俺も久々に出かけたか……」

 答えながら顔を上げたところで言葉が止まる。どうしたのかと首を傾げれば、ジークはぽかんと口を開けミオを見ていた。

「どうしたの?」
「あっ、いや、なんでもない。いつもと雰囲気が違うかからびっくりしただけで」
「髪を降ろしたからかしら。あっ、ちょうど辻馬車が来たわ」

 ポクリポクリという蹄の音とガラガラと回る車両の音が聞こえてきた。ミオは異世界に来るまで馬車を見たことがなかったからその違いに気づいていないけれど、この世界の馬車のスピードは元いた世界の三倍ほど。長閑な音は存外早く近づき、そして手を上げたジークの前で止まった。

「乗ろう」

 ジークは年季の入った馬車の扉を開ける。飾り彫りが施されているけれど、擦れたり傷があったりで何が描かれているのかは分からなかった。
 荷馬車の中は二人掛けの椅子が左右に五列ずつ、合計二十人を乗せ引っ張る馬の数が二頭。この時点で見た目は馬だけれどミオの知る馬でない。

「ねえ、この荷馬車を引っ張っている動物は何?」
「? 馬だよ」

 名前は同じらしい。
 座った座席は狭く肩がくっつくほど。それに固くて、座り心地は決して良くないけれど長距離馬車ではないのでこんなものか、と思う。

 この時間の馬車は空いていてミオ達以外に乗客は三人。ミオが流れる景色に目を向けると、木々の合間に畑が現れ長閑な田舎の風景が続く。暫く進んだところで道の両脇に小さな門のようなものが見えてきたのでジークに聞けば、町への入り口だと教えてくれた。
 
 木製の門を潜ってすぐの場所にある停留所で馬車は止まりジークが立ちあがる。二人は馬車を降りてから御者席に向かい声をかけた。

「二人分」

 大銅貨四枚をチャリンと渡す。これが辻馬車の代金の支払い方で、国境から町までの間は大銅貨ニ枚均一だ。
 お金をぴったり払ったはずなのに辻馬車は動かない。どうしたのか思っていると御者がじっとミオを見て、遠慮がちに声をかけてきた。

「あなたが『神の気まぐれ』ですか?」
「……はい」

 曖昧に微笑むと御者はパッと顔を輝かせる。その反応にミオはひっと後退りをした。

「やっぱりそうでしたか。いつか辻馬車に乗ってくれるんじゃないかと仲間と話していたんですよ。いやぁ、初めて乗った辻馬車が儂のだなんて、これは末代まで自慢できるなぁ!」

 白髪まじの赤髭を撫で嬉しそうにそう語る御者に、ミオはプルプルと首をふる。

(いえいえ、私なんて。先代、先先代に比べればそれはもう落ちこぼれのようなもので……)

 そんな大した者ではないのですぅ、と消え入りそうな声で呟くも御者には聞こえない。
 にこにこと笑う御者に曖昧な笑顔で答えているとジークが助け船を出してくれた。

「じゃ、オレ達はこれで。ミオ、行こう」
「うん、ありがとうございます」
「お気をつけて。では「神のきまぐれ」様また儂の馬車にのってください」

「様」は心底やめて欲しいとミオは思った。