摩耶山賊は足を泳がされたものの、俵まであと一歩のところでくるりと一回転した。体勢を立て直される前に千代古齢糖は一気に突き出そうと試みたが、今度は摩耶山賊に変化され、かわされてしまった。
 千代古齢糖、摩耶山賊に背を向けてしまう。けれども一瞬でくるっと振り返り、向かい合う形へと戻った。同じ過ちは繰り返さない。千代古齢糖は強い意志を持っていた。
 摩耶山賊、千代古齢糖の顔面にパチンッと突きを食らわす。けれども千代古齢糖、それに怯まず摩耶山賊の両マワシを狙いに行った。
(やったぁ!)
 見事掴むことが出来た。千代古齢糖、若干有利な体勢へ。
 だが、摩耶山賊も千代古齢糖の両マワシを掴んできた。
 千代古齢糖、攻められる前に勝負を決めようと力を振り絞り、寄り切ろうと試みる。
 しかし摩耶山賊、大会の時より若干体重を増やしたのか全く動かせず。
 逆に、千代古齢糖の方が摩耶山賊に一気に押し込まれてしまった。俵の上に足がかかってしまい、もうあとがない。千代古齢糖非常に苦しい表情。必死に堪える。
「「「「「「うおおおおおおおおおおおっ!」」」」」」
 観客からも激しい歓声が絶え間なく響く。
「のこった、のこった!」
 五郎次爺ちゃんもしきりに掛け声。かなり気合が入っていた。
 容赦なく体を預けてくる摩耶山賊、
(これはまた千代古齢糖ちゃんの負け確実だな)
 この時、梶之助は悟った。
 だがその時、
「とりゃあああああああああああああああああああああああああーっ!」
 と、千代古齢糖が大きな掛け声をあげた。
 そして、

「ただいまの決まり手は、うっちゃり、うっちゃりで、千代古齢糖風の勝ち。相撲大会での雪辱を果たすことが出来て良かったわね」
 寿美さんは爽やかな表情で告げた。
「千代古齢糖ちゃん、お見事じゃっ! 双葉山が得意にしとった技じゃぞ」
 五郎次爺ちゃんも軍配団扇を西方に指していた。
 千代古齢糖は土俵際ギリギリの所、体を捻りながら捨て身の投げ技を打ち、奇跡的に勝つことが出来たのだ。
「ショコラちゃん、おめでとうううううぅぅ!」
「千代古齢糖さん、強靭な足腰ね」
「俺、まさかあの体勢から勝てるとは正直思わなかったよ」
 秋穂、利乃、梶之助はパチパチと大きな拍手を送る。
「「「「「「「おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!」」」」」」」
 他の観客からも、当然のように大きな拍手喝采が巻き起こった。
「あらぁ、負けたのね、あっし」
 摩耶山賊はてへりと笑いながら呟いて、自力で起き上がる。
「いたたたぁっ」
 千代古齢糖自身も、勢い余って体勢が崩れてしまった。すぐに自力で起き上がる。
「ショコラちゃん、肘から血がいっぱい出てるよ。あと、鼻血も」 
 秋穂は心配そうに伝えた。
「あっ、本当だ。めっちゃ出てる」
 千代古齢糖は目を腕に向け、傷口を眺めてみた。
「ごめんなさい、千代古齢糖風、また怪我を負わせてしまって」
 摩耶山賊は千代古齢糖の側に寄り、大変申し訳なさそうに深々と頭を下げて謝罪した。
「いえいえ摩耶山賊さん、気にしないで下さい。お相撲に怪我は付き物ですから。それに、こんなのたいした怪我ではありませんから」
 千代古齢糖はにこやかな笑顔できっぱりと言う。
「でも、あっし、罪悪感に駆られます。あの、千代古齢糖風、これ使って下さい」
 摩耶山賊はポケットティッシュを手渡す。
「ご親切に、ありがとうございます」
 千代古齢糖はぺこんと一礼してから受け取ると、すぐに自分の鼻に詰めた。
「ショコラちゃん、肘は、保健室で手当てした方がいいよ。保健室まで運んであげるね」
 秋穂はそう言うと、千代古齢糖の背中と太ももの内側を抱え、お姫様抱っこした。
「あっ、秋穂ちゃん、なんか、恥ずかしいよぅ」
 照れくさがる千代古齢糖に、
「この間、ワタシが貧血で倒れた時に運んでくれたお礼だよ」
 秋穂はにこにこ微笑みかけながら伝える。保健室手前の手洗い場まで辿り着くと、千代古齢糖をそーっと下ろしてあげた。
「ありがとう、秋穂ちゃん」
 千代古齢糖は照れ笑いする。
「どういたしまして」
 秋穂はにこっと微笑みかけた。
「うー、しみるぅ」
 千代古齢糖は水道の蛇口を捻り、肘の傷口を丁寧に洗ってから、保健室へ入ろうとしたが鍵がかかっていた。
「やっぱりお休みかぁ」
 千代古齢糖は苦笑顔で呟く。木村先生は、今日は不在。
「どうしよう。ワタシ、絆創膏持ってないよ」
「私も持ってないや」
「大丈夫よ千代古齢糖さん。わたし、お料理してる時に怪我するかと思って、これ持って来てたの。傷口が乾かないように、この絆創膏を貼るね」
 利乃も駆け寄ってくる。鞄の中から液体絆創膏を取り出した。
「あのう、あっしが貼ります。千代古齢糖風に、さっきのお詫びをしたいので」
 摩耶山賊も駆け寄って来た。
「摩耶山賊さん、心優しいおばさんだなぁ」
 千代古齢糖は頬をちょっぴり赤らめる。
「マヤちゃん、強さのみならず人格も備わってるね」
「マヤ先生はまさに女相撲界の横綱の器ですね」
 秋穂と利乃は尊敬の念を抱く。料理教室の時も丁寧に指導してもらったのだ。
「いえいえ、あっし、それほどでもございません」
 摩耶山賊は謙遜する。
「そんな仕草も素晴らしいです。マヤ先生、これ、どうぞ」
「グラシアス」
 摩耶山賊は利乃から絆創膏を受け取ると、
「はーい、貼ったよ千代古齢糖風。早く治してね」
 千代古齢糖の肘の傷口にぴたっと貼ってあげた。
「ありがとうございます、スペイン語だとグラシアスだね」
 千代古齢糖は照れくささのあまり、摩耶山賊と目を合わせられなかった。
「De nada.千代古齢糖風、今回の取組、あっしの力負けだよ。あれから一月も経ってないのに、すごい進歩だね。若さだね」
 摩耶山賊は褒め称えてくれる。
「いやいや、実力的にはまだまだ摩耶山賊さんの方が遥かに上ですよ。私が勝てたのはタコスパワーの奇跡ですよ。翔天狼が初顔で全盛期の白鵬に勝っちゃったようなものです。私、さらに精進して来年の相撲大会に挑みます!」
 千代古齢糖は謙遜気味に伝え、強く宣言した。
「あっしも負けないよ!」
 二人はがっちり握手を交わす。
 初夏の眩い日差しが美しく二人を照らし出していた。
「名勝負じゃったぞ。来年の女相撲大会もとっても楽しみじゃわい」
 五郎次爺ちゃんはそう告げて、摩耶山賊に背後から近寄る。
「ヒャッン!」
 腰から尻にかけてなでられた摩耶山賊は、頬をポッと赤らめた。
「摩耶ちゃんよ、今度僕にマンツーマンでスペイン語を教えてくれんかのう。今や使用人口は英語を超え、中国語に次いで世界第二位になっておるようじゃし、これからの時代、フランス語と共にますます必要になってくると思うんじゃ」
「あんっ、くすぐたーいですよぅ」
 嫌がっている摩耶山賊のお尻を尚もなで続ける五郎次爺ちゃんに、
「五郎次お爺様ぁ。そういういたずらが許されるのは小学生までですよ」
 千代古齢糖はニカッと微笑みかけた。
 そして、五郎次爺ちゃんの身に着けていた行司装束の帯を、怪我をしてない左腕でむんずとつかみ、ポイ捨てるかのように豪快な投げ技を食らわす。