「どうじゃ梶之助!」
 五郎次爺ちゃんは得意顔。
「そっ、そんな……」
 梶之助はあまりに一瞬の出来事に唖然とする。
「うっ、嘘、だろ……」
 光洋の顔が一気に青ざめた。
「五郎次お爺様、変化するとは思わなかったよ」
 千代古齢糖も信じられないといった面持ちで、軍配団扇を東方に指した。
「ただいまの決まり手は、叩き込み、叩き込みで綾川の勝ち。梶之助、残念だったわね。でも、五郎次さんに変化されたってことは成長の証よ。真っ向勝負じゃ勝てないって思われたんだから」
 寿美さんは優しく言う。
「僕の究極奥義じゃ。思いっきり突っ込んでくる梶之助は甘いのう。僕は小学校時代から変化の名人と言われておったんじゃ」
「五郎次爺ちゃん、それってつまり、逃げてるってことだろ」
「いやいや梶之助、変化も立派な技の一つじゃよ。引っかかる方が悪い。それじゃ、約束どおり光洋君を相撲部屋に」
 五郎次爺ちゃんはにこにこ顔で、光洋の方へにじり寄る。
「いっ、嫌だ、嫌だぁ」
 光洋は泣き喚きながら首をぶんぶん激しく振る。
 その時、
「待てぇ、五郎次ぃ! 変化で勝つとは何事じゃっ。真っ向勝負で挑め!」
 慶一爺ちゃんの雷鳴のような、大きな声が轟いた。
「びっくりしたぁ。すごい迫力」
 千代古齢糖は目を丸くする。
「俺、慶一爺ちゃんの怒鳴り声、初めて聞いたよ」
 梶之助もかなり驚いていた。
「……」
 光洋はあまりの恐怖からか、ぴたりと泣き止んだ。
「恵まれた体格の慶一兄さんとは違うのだよ、僕は。小兵には小兵の取り方というのがあるのじゃ。慶一兄さんは大相撲の決まり手がいくつあるのか知っておるのか? 八二手じゃぞ。慶一兄さんの相撲は突き押し投げだけじゃから見ていてつまらん。そんなこだわりで取り続けるから慶一兄さんは関取になれず幕下止まりだったんじゃよ」
 五郎次爺ちゃんは全く怯まず、奈良東大寺金剛力士像のような形相をしていた慶一爺ちゃんを見上げながら堂々とこう意見する。
「なにをぉ。兵助から言われたことを覚えておらんのか? 五郎次は。先人の教えは守らなきゃいかんぞ」
 両者、激しい睨み合い。両者の間には目には見えない火花がバチバチ飛び交っていた。
 今にも相撲を取り始めようとしているようだった。
「五郎次お爺様、変化とかの奇襲戦法は相手との体格差がとても大きい時に使うものです。五郎次お爺様と梶之助くんの体格はほぼ同じですから、真っ向勝負で挑まなきゃ卑怯です。私、真っ向勝負での相撲が見たいです!」
 千代古齢糖は強くお願いした。
 すると、
「……千代古齢糖ちゃんがそういうなら、仕方ないのう」
 さっきまでと打って変わって、五郎次爺ちゃんはほんわかとした表情になり再取組をする気になった。
「ありがとうございます、五郎次お爺様」
 千代古齢糖からの感謝の一声。
「単純だな。でもよかったぁ」
 梶之助は呆れ顔で突っ込むも、ホッとする。
「うおおおおおおおおおおおおおおおっ! 梶之助殿ぉ、次こそは頼んだぞ」
 光洋も大喜びした。
「すまんのう、千代古齢糖ちゃん。大人げないところを見せてしもうて」
 慶一爺ちゃんも照れ笑いしながらぺこんと頭を下げて謝る。
 そういうわけで、取り直しとなった。
「梶之助、光洋ちゃん、よかったね」
 寿美さんは、今度は四股名の呼出を省略。五郎次爺ちゃんと梶之助はすぐさま土俵に上がる。
 先ほどと同じく仕切りを五度繰り返したところで、寿美さんから制限時間いっぱいであることが告げられた。
「待ったなしだよ。見合って、見合って。はっけよーい、のこった!」
 千代古齢糖から軍配返された瞬間、
「やった!」
 梶之助は快哉を叫ぶ。五郎次爺ちゃんの両マワシをがっちり掴むことが出来たのだ。
「しまった!」
 五郎次爺ちゃんは思わず声を上げる。
「これで勝てるっ!」
 梶之助は確信した。
「おう! さすが梶之助殿」
 光洋の顔に笑みが浮かぶ。
「梶之助よ、マワシが取れたら勝てるというのは、甘ぁい考えじゃぞ。相撲は奥が深いのじゃ」
 しかし、五郎次爺ちゃんも梶之助のトランクスの裾を両手でがっちり掴んだ。
 両者、がっぷり四つに組み合う。
「こうなったら」
 梶之助、五郎次爺ちゃんに攻められる前にとすぐさま上手投げを打ってみた。
「ありゃ?」
 すると、五郎次爺ちゃんはあっさり土俵にごろりんと転がってしまったのだ。
「えっ! 決まっちゃった?」
 予想以上の脆さに、梶之助は少し驚く。
 千代古齢糖は軍配団扇をサッと西方に指した。
「ただいまの決まり手は、上手投げ、上手投げで、谷風の勝ち」
 寿美さんが決まり手を告げると、
「うおおおおおおおおおおおおおおおおっ! 梶之助殿ぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ」
 光洋が雄叫びを上げながらガバッと立ち上がり、涙をぽろぽろ流しながら梶之助にぎゅっと抱きついて来た。
「こっ、光洋。苦しい、苦しいって」
「梶之助くん、おめでとう! 力技で勝てたね」
 千代古齢糖は軍配団扇を地面に置き、パチパチ大きく拍手をする。
「強くなったんじゃのう、梶之助」
 五郎次爺ちゃんは立ち上がり体にべっとり付いた土を叩くと、苦笑い浮かべた。けれども嬉しさも感じていた。
「梶之助君、ようやったな。約束通り、ワシからはもう光洋君を角界に勧誘せん!」
 慶一爺ちゃんはきっぱりと言う。
「僕からもじゃ。男同士の約束じゃからのう。本当は梶之助と共に角界入りし、大鵬‐柏戸のようなライバル関係で一時代を築いて欲しかったのじゃが」
 五郎次爺ちゃんも残念そうにしながらも納得出来たようだ。
「あっ、ありがとう、ございまするぅぅぅ」
 光洋は涙をぽろぽろ流したまま深々と一礼して感謝の言葉を述べた。
 光洋と千代古齢糖が道場をあとにすると、鬼柳家の夕食再開。
 
「ただいまー。ん? この異様に大きい靴は、慶一伯父さんの靴か」
 権太左衛門は夜九時頃に帰宅した。
「その通りじゃ。権太左衛門君、久し振りじゃのう」
「お久し振りです慶一伯父さん、相変わらず異様にお元気そうでなりよりです」
「ハハハッ。ワシはまだ十代の若者の気分でおるからのう。では、また会おう」
 慶一爺ちゃんは彼に久闊を叙するとすぐに鬼柳宅をあとにし、乗って来た自家用車で故郷へ帰っていったのであった。着いたらそのまま休まず漁に出ると言い張っていた。

 最終話 答案返却 光洋、相撲部屋強制収監回避なるか?
 
 翌日、木曜日から中間テストの答案が続々と返却されていく。
「あっぶねえーっ!」
 最初に返却された数学Ⅰ、光洋は三一点だった。
「本当にギリギリだな、光洋」
「さっきおいら、リアルに心臓止まりそうになったぜ。全部返却されるまで、眠れない日々が続くな」
「俺は八八点だった。九〇点いけると思ったけど」
 梶之助はここで一喜一憂せず、次に向けて頑張ろうと感じていた。
 秀平は見事一〇〇点満点。
 男子の分を配り終えると、続いて女子の分が返却される。
「利乃ちゃん、私、谷風と白鵬の連勝記録と同じ六三点も取れたよ。めっちゃ嬉しい♪」
 千代古齢糖は返却されたあと、すぐに報告しにいった。