慶一爺ちゃんに懐かしむような声でお願いされると、梶之助はさっそく千代古齢糖のスマホに連絡する。
『慶一お爺様が来てるの! すぐに行くよっ!』
 千代古齢糖はかなり興奮気味な様子だった。
 電話を切ってから、二〇秒くらいで鬼柳宅茶の間にやって来た。
「慶一お爺様ぁ! お久し振りです。お正月の時以来ですね」
 千代古齢糖は甘えるような声を出し、慶一爺ちゃんにガバッと抱きつく。
「おう、女子高生になった千代古齢糖ちゃん。前に会うた時と比べてあんまり大きくはなっておらんが、この間の女相撲大会で準優勝して、相撲は一段と強くなったようじゃのう。千代古齢糖ちゃんが鬼柳家の男子でないことは非常ぉに惜しまれるべ」
 慶一爺ちゃんは千代古齢糖のお尻をさすりながら褒める。そのスキンシップのやり方は五郎次爺ちゃんにそっくりだ。
「もう、慶一お爺様ったら。五郎次お爺様なら投げ飛ばすところですが、慶一お爺様は無理ですね。全く動きません」
 千代古齢糖は幸せそうににっこり微笑む。六時頃まで三人といっしょに大相撲夏場所観戦を楽しんだ後、自宅へ帰っていった。
 六時半頃、寿美さんが帰ってくると夕食の準備が始まる。
 権太左衛門は、今日は職員会議で遅くなるから夕飯はいらないということであった。
 七時頃から慶一爺ちゃんを交えての賑やかな夕食会が始まる。
 その最中に、ピンポーンと玄関チャイム音。
「梶之助殿ぉー」
 それと共に、光洋の声が聞えて来た。
「俺が出るよ」
 梶之助が玄関先へ。
「これ、おいらの父ちゃんから」
 光洋は枇杷を届けに訪れて来たのだ。
「もうそんな季節か、サンキュ。ありがたく頂くよ。それよりどうした光洋、今にも死にそうな声を出して、顔色も悪いぞ」
 梶之助は心配そうに問いかけた。
「おいら、中間で一科目でも赤点があったら、相撲部屋に強制入門させられるんだ。おいら、母ちゃんと父ちゃんからそれ聞かされた瞬間、顔が真っ青になりそうになってんって」
「……そうなのか。そりゃ災難だな。高校辞めさせられて相撲界に入れられるって可哀想過ぎる。いまどき力士になるにしたって大卒だろ」
 光洋からされた突然の報告に、梶之助はかなり同情出来た。
 じつは光洋は、中学を出たら角界に入ることを両親から強く薦められていた。彼が今、淳甲台高校に通えているのは中三の時の担任が高校には絶対進学させた方がいいと両親を説得した経緯があったからなのだ。光洋の父は、今は果物屋さんの店主だがかつては大相撲の力士だった。現役時代の最高位は三段目とあまりパッとしなかったこともあり、息子の光洋には自分よりも上の番付まで上がって欲しいと願っているそうである。
「おいら、力士なんて全くなる気ないって」
「ようするに、赤点が一つも無けりゃ大丈夫ってことだろ」
 梶之助は慰めの言葉を掛けてあげた。
「そうやけど、おいら、化学と古典と数学と英語がかなりやばそうやねん」
「まあ、悲観的にならずに結果が出てから考えろ」
 梶之助は優しくこうアドバイスしていると、
「光洋君が角界入りするだとっ!」
 五郎次爺ちゃんが茶の間から廊下に出て、すごい勢いで玄関先へ駆け寄って来た。
「きみが光洋君か。話は五郎次と梶之助君から聞いておったぞ。本当に立派な体格だなぁ。これは良い逸材だ。声も力士っぽいしのう。テストで赤点取ったらご両親の意向で角界へ放り込まれるんだってな。そんなの関係なく入門しろ。このまま平凡な高校生にしておくのは非常ぉに勿体無いぞ。きみは第六七代横綱武蔵丸と同じ名なのだから、きっと横綱になれる! さっそくワシの知り合いの親方を紹介してやろう」
 慶一爺ちゃんものっしのっしと歩み寄ってくる。
「うわぁぁぁっ、でけえええええぇぇっ!」
 光洋は思わず仰け反った。大柄な光洋ですら見上げるほどなのだ。
「こちらは、体格が全然違うけど五郎次爺ちゃんのお兄さんなんだ。慶一爺ちゃん」
 梶之助は慌てて紹介する。
「ワシは光洋君の角界入りを全力で応援するぞ!」
「待て、慶一爺ちゃん。どう考えたって光洋が角界でやっていけるわけないだろ。光洋は遊園地のお化け屋敷にも入れないほど臆病なやつなんだ」
「いやいやー、角界に入れば光洋君の臆病な性格も絶対直るはずじゃ」
 梶之助の必死の訴えを、慶一爺ちゃんはほんわかとした表情で反論する。
「僕も同意じゃ。さっそく今からテストの点に関係なく光洋君を入門させるよう、ご両親を説得しに行かねば」
 五郎次爺ちゃんは強く賛同した。
「おいおい、味方になってやれよ」
「梶之助よ、僕に意見するのは僕に相撲で勝ってからじゃな。今から僕と相撲を取ろう。それで僕が勝ったら即、光洋君のご両親を説得しに行く!」
 五郎次爺ちゃんは機嫌良さそうに言う。
「さすが五郎次、ナイス提案じゃ! いざこざは相撲で決着をつけるのが鬼柳家流の解決方法じゃからのう」
 慶一爺ちゃんはパチパチと拍手し、褒め称えた。
「かっ、梶之助殿ぉぉぉぉぉ。お願いだぁぁぁ。絶対、勝ってくれぇぇぇー」
 光洋に青ざめた表情で頼まれる。
「大丈夫だよ光洋、五郎次爺ちゃんには勝てるさ」
 梶之助は自信満々な様子だった。
「前に対戦した時は、負けたではないか」
 五郎次爺ちゃんは大きく笑う。
「まだ俺が一三〇センチくらいしかなかった小六の時の話だろ。俺はその時より体はずっと大きくなってるし、五郎次爺ちゃんは年食ってるし」
「梶之助、四の五の言う前にさっそく勝負じゃ! 僕は本気じゃぞ」
 こうして梶之助、五郎次爺ちゃん、そして慶一爺ちゃん、寿美さん、光洋の五人が離れの相撲道場へ。
「五郎次お爺様と梶之助くんが相撲を取ると聞いて、飛んで来ちゃった♪」
 千代古齢糖も観戦しに来た。あのやり取りのあと寿美さんが彼女のスマホに連絡したのだ。
 今回は寿美さんが呼出。千代古齢糖が行司をすることに。
 慶一爺ちゃんと光洋は座敷で見物。
「ひがあああしいいいいい、あやあああがわあああああ、あやあああがあああわあああああ。にいいいしいいいいい、たにいいいかぜえええええ、たあああにいいいかあああぜえええええ」
 寿美さんは相変わらずの美声を発しながら、独特の節回しで四股名を呼び上げた。
 梶之助と五郎次爺ちゃんはそれを合図に土俵へと足を踏み入れる。
 五郎次爺ちゃんの四股名は、二代横綱そのままの『綾川』だ。
 梶之助は以前千代古齢糖と対戦した時と同じくトランクス一丁。五郎次爺ちゃんは本気モードなようで、黄金色のマワシを締めていた。
 仕切りを五度繰り返したところで、寿美さんから制限時間いっぱいであることが告げられた。
「五秒で片付ける!」
 梶之助は強く宣言する。
「相撲歴八〇年以上、双葉山をリアルタイムで知っている僕の実力を舐めたらいかんぞ、梶之助」
 五郎次爺ちゃんも勝つ気満々だ。
 土俵中央に二本、白く引かれた仕切り線の前へ。両者向かい合う。
「お互い待ったなしだよ。手を下ろして」
 千代古齢糖から命令されると、両者腰を下ろし、仕切り線手前に両こぶしを付けた。
「見合って、見合って。はっけよぉーい、のこった!」
 いよいよ軍配返される。
「うわっ!」
 約二秒後、梶之助は、ばったりと前に落ちていた。