「義姉様の今後の人生が幸多からんことを、心よりお祈り申し上げます」



 しん、とその場が静まり返りました。
 いえ、グチャグチャと、傭兵達の成れの果てが前大臣を貪っている音だけは響いておりますが、ドリーも、ジゼルも、物陰に隠れたままのグライスとパルスも、そして義姉も誰も口を開きません。
 重苦しい沈黙が、永遠に続くかと思われた──その時でした。


 ぽたりっ、と一滴。


 何かが足下に滴り落ちる気配がありました。
 そういえば、男に頬をぶたれてからずっと鼻の奥がムズムズしていて、こんなどシリアスな場面で鼻水を垂らしてはさすがに沽券にかかわると危ぶんでいたのです。
 やがてグリュン国王となるエミールの許嫁として、清く正しく慎ましく生きてきた私は、これまで鼻水を垂れるに任せたことなどありませんでした。
 ですから、いよいよ垂らしてしまったと思った瞬間は焦りましたが、しかしよくよく考えれば、もはや王太子妃にも王妃にもなれない私が少々鼻水を垂らしたところで、誰に迷惑をかけることもないでしょう。私一人が恥をかくだけです。
 そう開き直った私は、記念すべきハナタレ第一号の軌跡をこの目に焼き付けてやろうと、床に視線を落とし……

「あら……」

 そこに、ぽつり、と赤い点を見つけて瞠目します。
 驚きました。
 どうやら垂らしたのは鼻水ではなく……

「もしかして、鼻血……?」

 そう呟いた時でした。


 ──カツン


 ふいに、靴音が響きます。
 次いで、床をまじまじと眺めていた私の視界に、黒い靴の先が割り込んできたのでした。
 とたん、ひゅっと息を呑む声が聞こえましたが、ドリーでしょうか。
 しかし靴は、彼女のものでも、双子のものでも、ましてや義姉のものでもありません。ジゼルなんてコウモリ姿ですから論外です。
 そもそもそれは、どう見ても男物の靴でした。
 一体誰が、と思った刹那のこと。
 さらに視界に割り込んできた手のひらに顎を掴まれ、私は顔を上げさせられます。
 その手の形にも、大きさにも、感触にも、ぬくもりにも、そして優しさにも馴染みがあったものですから、抗おうなんて気持ちは少しも覚えません。
 はたして、床から移った私の視界に現れたのは、思った通りの相手でした。