◯広い屋敷の一室
椿は、簡易的な装いをして、窓の外を眺めていた。
真っ暗な夜の空に、唯一、月明かりだけがポツンと浮かんでいる。
椿(毎日毎日、愛想笑いばかり。本当につまらない)
はぁ、と大きなため息をついて窓辺に頬杖をつく。
椿(誰か、私のことを攫ってくれないかしら……)
そんなことを考えた次の瞬間。
フッ……と月明かりが消えた。どうやら、月に雲がかかってしまったらしい。
月明かりがなくなってしまって、部屋が暗くなる。
椿(あぁ、もうこんな時間。明日は朝から縁談があるのだった……)
寝なければ、と思い、窓から背を向け、ベッドに戻ろうとすると、雲が月を通過したのか、再び月明かりが、窓枠の形になって床に映った。
椿「っ……!」
その瞬間、椿はハッとしたように床にできた影を見つめる。
その場に立っている椿自身の影、そして、窓辺に立つもう一人の人影を___。
虎之介「おっとっと……」
くるりと振り向けば、その人影は、音もなく椿の部屋に降り立つ。
椿「……あなたは誰?」
不思議と怖くはなかった。
豪商の娘である私を攫いに来たのかもしれないし、殺しに来たのかもしれない。
顔も、正体も、目的も……。
何もわからないのに、不思議と私の心臓は、夜の静寂のように平静を保っていた。
虎之介「どーも、あなたの心を盗みに参りました」
彼は、微かにフッと笑ったかと思えば、私の前に片膝をついた。
◯和室
男「〜〜〜そこで私が言ってやったのです!」
椿「……あはは……」
男「その後、そやつはそれはもう大慌てで逃げて行き〜〜〜」
椿(早く終わってくれないかしら……!?)
◯回想 廊下を歩いている時
要「……この部屋です」
椿「ええ」
付き人でもあり、実質友人のような存在である要が、私をある和室に案内する。
その部屋には、2人分の食事が並んでいる。
椿(あれ……この感じ……嫌な予感が……)
そそくさと出て行こうとした要の袖を勢いよく引っ張り戻して、グッと顔を近づける。
椿「ねぇ、お見合いならしないと言ったわよね?」
冷や汗を大量に流しながら目を泳がせる要。
要「これはですね、椿様のお父様が……」
ごにょごにょとくちごもる要。背の高い要だけど、椿に怒られている時だけは、まるで子犬のように縮こまってしまうのだ。
見えないはずの耳が、シュンと垂れ下がっているよう。
椿「私は結婚をする気がないの。それも、誰かに選ばれた相手なら、なおさらよ!」
まあまあ、と宥めようとする要を突き返して部屋を出て行こうとする。
要「ちょ、おい、待てって椿!」
トッ……と、椿の肩を掴んで、椿を引き留めようとする要。
要(まずいぞ、あの父さんに怒られちまう)
椿「主人に軽率な言葉遣いよ、改めなさい」
すると椿は、くるりと振り向いたかと思うと、パシリと要の手を払いのけて、キッと睨みつけた。
要「……へーい」
少しの沈黙の後、少々不機嫌そうに唇を尖らせた要。
要(主人と付き人、ねぇ……)
椿「とにかく、自分の相手は自分で決めると心に決めているの」
そこまで言って、椿の脳裏に昨夜のことがよぎる。
◯回想の中の回想 昨夜の場面
虎之介「あなたの心を盗みに来ました」
椿「……私の心を……?」
虎之介「もちろんですよ、椿お嬢様」
椿「っ……どうして……」
虎之助「また、ここへ来てもよいですか?」
椿は、ほとんど無意識にこくりと頷く。
彼から醸し出される吸い込まれるような雰囲気に呑まれてしまいそうだ。
そこで、ハッとして「お待ちください!」と声を発する。
椿(まだ、名前……聞いてない……)
虎之介は人差し指を静かに口元へ持っていき、首を傾げる。
虎之介「虎之介、だ」
次の瞬間には、窓辺に立っていたはずの彼の姿は見当たらず。
さっきと何も変わらない丸くて大きな月が映るだけだった。
◯回想に戻る
要「椿様?いかがなさいましたか」
少し頬を赤くした椿の顔を覗き込むように、要が顔を寄せてくる。
椿「っ、いいえ。なんでも」
パッと顔を背ける椿に、要は「……?」と首を傾げた。
要(コイツ、顔赤……)
要「ほんとにー?」
椿は、ジロジロと怪しげな視線を向けてくる要の頭を軽くはたくと、再び和室に入った。
椿(今ここで帰ろうとすれば、要に変だと思われる。昨夜のことで頭がいっぱいだということを)
平常心、平常心。
そうよ、最終的にお断りすればいいのだから。それまではお話をして、美味しいご飯をたべるだけよ。
そう思い直した椿は、くるりと要を振り向いて言った。
椿「話だけでもすればいいのでしょう」
そう言えば、安心したように腰に手を当てる要。
要「ふぅー、よかったぁ……」
要(これであの父さんに怒られることはねーな……)
椿「まったく……」
ため息を着きたいのはこっちよ、とでも言いたげな視線を要に送るけれど、要は気まずそうに口笛を吹きながらいそいそと部屋を出て行った。
◯お見合い中
こうして、今に至る。
男「どういたしましたか?椿さん?もしかして、私の話がつまらなかったでしょうか?」
心配そうに首を傾げ、私の顔を覗き込んでくる男に、椿は慌てて笑みを作った。
椿「あぁ、いえ。とても面白い話ばかりで、思わず聞き入ってしまいました」
椿(気が抜けないわ……)
男「それはよかった!」
「それで〜」と話を続ける男に、げっそりとして笑みを浮かべ続ける椿。
椿(あぁ、彼と話している時は、こんな気持ちにはならなかったのに)
そう思う椿の頭の中は「虎之介」と名乗った彼のことで頭がいっぱいだった。
椿(今夜も、来てくださるのかしら……)
そのままぽーっと時間が過ぎるのをただ待っていると、いつのまにか時間は経っていたようで。
男「それでは、今日はこの辺で……」
そう言ってスッと立ち上がった男。
椿「短い間でしたが、とても良い時間をありがとうございました」(やっと終わった……)
ニコニコの笑顔で軽く頭を下げる椿。
男「あの、この件、真剣に考えてくださいますよね?」
ほおを染めてそう言う男が、一歩、椿に近づいてくる。
椿「え、えぇ。前向きに考え、後日また……」
男「今!結婚いたしましょう」
男が素早く椿の手首を掴む。
椿「えっ……」
その瞬間、ぐるりと反転する椿の視界。
そして、目を開けると、視界には天井ではなく男の顔。
ふー、ふーっ……と、荒い鼻息を立てながら、椿のことを押し倒していたのだ。
椿「ちょ、やめてくださ……っ」
あまりの恐怖で、思うように声が出ない。
あ、やばい……そう感じるとともに、するりと着物の隙間から男の手が入ってくる。
椿(何……!?どうして急に……)
「ずっと考えていたんだ。この小さな体を愛でたいと……」
ニヤニヤと笑って、椿の体を舐め回すかのように見る男。
恐怖で椿の体が震えて、涙がポロポロと溢れてくる。
それに、男にしっかりと手首を押さえつけられていて身動きもとれない状況。
椿(誰か……)
ギュッと目を瞑ったその時だった。
ヒュッ……!と、空気をさくかのような鋭い音がすぐそばを掠める気配がするとともに、男の「なっ、なんだ……!」という焦ったような声。
そして、もう一度、今度ははっきりと目に見えた。
手のひらサイズほどの黒いものが、目の前を勢いよく通り過ぎて、障子を突き破ったのだ。
そして、すぐそばの畳には……。
男「チッ、忍びか……!」
男は、悔しそうにそんなことを呟くと、バタバタと慌ただしく逃げて行った。
それと入れちがうように、要が部屋に入ってきて、私の姿を一目見て目を丸くする。
要「椿……っ」
ボロボロと涙で頬を濡らす私に駆け寄って、悔しそうな表情をする要。
そして、抱きしめようとしたのを堪えるかのように、要はギュッと手のひらを固く握りしめた。
そんな要の脳裏には先ほどの、椿との会話___椿と要は主人と付き人であると思い知らされた場面がよぎっていた。
要「つばき、様___」
椿「要……っ」
要「っ、」
あまりの怖さに、要に抱きつく椿。
要は、椿の背中に手を回すか一瞬迷った素振りを見せたものの、やがて控えめに、椿の腰に手を回した。
そして、要の視界に、あるものが入る。
要(___手裏剣)
まさか、と目を見開くと、キョロキョロとあたりを見回す要。
要(もしかして、あいつが?)
要(いや、まさかな。そんなはずは___)
要は再び、畳に突き刺さる黒塗りの手裏剣を睨むように見据えた。
要(アイツがいるのだとしたら……)
物陰では、虎之介は、椿と要が合流して抱き合っているのを確認すると、静かに姿を消した___。
◯自室
あれから、数日が経った。
椿は、窓の柵に手をかけ、ぼー……っと外の様子を眺めていた。
椿(今日も、来て下さらないのかしら……)
虎之介さんはあれ以来、姿を見せていない。
虎之介『また、ここへ来てもよいですか?』
そう言っていた彼の姿が頭をよぎる。彼にとっての「また」がいつなのか、私にはわからない。
ただ……。
椿(あの瞬間、あなたが私の手を取ったその瞬間に)
椿は少しほおを染めて、手のひらをきゅっと握りしめ、胸の前に置いた。
椿(私の心は、すでに盗まれそうになっていた……)
椿「……虎之介、さん」
ぽつりと、そう名前を呼んでみる。
初めて口にする名前。
椿(今から、誰も見ていないし聞いてもいないはず)
椿「虎之介さん、もう一度お会いしたいわ___」
虎之介「お呼びのようで」
椿「っ……!」
まるで祈るかのようにそう呟くと、耳元で聞こえたあの声。
見れば、虎之介は窓枠にしゃがみ込んでいた。
虎之介「椿お嬢様、夜の旅へ行こう」
椿「へ……?」
虎之介は立ち上がり、手を差し伸べる。
虎之介「俺しか知らない、いい場所に連れて行ってやる」
あの時と同じ……。
まるで吸い込まれるように、無意識に。
彼の言葉を、否定することができない……。
虎之介を手を控えめに握る椿。
すると、虎之介は、フッと笑ってから一気に椿を姫抱きにした。
椿「ひゃっ……」
虎之介「ちゃんと俺に、捕まってて」
彼の言う通り、椿は彼の腰に手を回すと、虎之介は、勢いよく地面をけった。
それとともに、ふわっと空を飛ぶ感覚。
そして、少し歪な形の月をバックに、まるで空を飛ぶ鳥のように影がうつった。
椿「飛んで……!?」
虎之介「俺は忍びだから、空くらいとべるさ」
椿(忍び……?)
椿の頭に、先日男に襲われそうになった時の状況が蘇る。
男『チッ、忍びか……!』
そう言って逃げて行った男。
そして、畳に突き刺さっていた手裏剣。
椿(もしかして……)
椿は驚いたように顔を上げると、虎之介は目を細めて、人差し指を唇に当てた。
虎之介「ここから先は、男のプライドというものがあるのでね。肯定も否定もしないさ」
椿(やっぱり)
(あの時、男に襲われそうになった時に助けてくださったのは、虎之介さんだったのね……)
椿「ありがとう……」
虎之介「いーえ」
虎之介は、椿に気づかれない程度の微かな笑みを浮かべた。
◯森の中の、開けたスペース
椿「わぁ……っ」
うっとりとした表情を浮かべ、上を見上げる椿。
そんな椿の視線の先には、紺碧色の空に散りばめられた無数の星があった。
キラキラと輝いていて、天の川までもが見えた。
虎之助は、そんな椿を見て微笑む。
虎之介「絶景だろう」
虎之助がそう聞くと、勢いよく頷く椿。
椿「はいっ……とっても……!」
そんな椿のキラキラとした表情に、少しほおを染めて視線を逸らす虎之介。
虎之介(思わず抱きしめてしまいそうだ)
(閉じ込めてしまいたいほどの輝く笑顔___)
(華奢な体___
(声すらも)
虎之介「綺麗だ」
虎之介がそう言うと、何を勘違いしているのやら、椿は勢いよく頷いた。
椿「本当に綺麗です……。ずぅーっと見ていたいくらい……」
虎之介は、目を潤ませる椿の手を静かにとって、口を開いた。
虎之介「俺は、あなたのことをずっと見ていたい」
チュ……と、椿の手の甲に口付けをする虎之助。
椿は、頬を赤く染めて、虎之介のことを見つめている。
虎之介「あなたの心を盗みたい」
月夜に照らされた地面に映る影には、虎之介と椿、2人の影が、くっきりと映っていた___。
◯その頃、椿の部屋
コンコン、と、扉をノックする音。
しかし、シーン……としていて、なんの応答もない。
要「椿様ー?入ってもいいですかー?」
もう一度、コンコン……と扉をノックする。
やはり応答はない。
要(寝てるのか……?)
椿「入りますよー?」
カチャリと静かにドアノブを回し、部屋に入る虎之介。
要「……は?」
要が、あっけに取られたように声を出す。
その視線の先には、空っぽの椿の部屋。寝ていると思った椿はおらず、ベッドは綺麗なまま。
そして極め付けに、全開にされた窓と、夜風に揺られるカーテン。
要「椿……?」
(どういうことだ……)
(なんでいない?)
要は、しばらく考えた後、ハッとしたようにポツリと呟いた。
要「……虎之介、なのか……?」
◯要の回想、燃え盛る炎の中
虎之介「自分の身は自分で守れ。男の体は、女を守るためにある」
姫抱きにされた状態で、そう言う虎之介。要は、ギュッと拳を握りしめた。
◯回想おわり
要は、あの時と同じように、ギュッと拳を握りしめた。
◯開けた森の中のスペース
あれから、数十分がたった。
虎之介「そろそろ帰ろう」
椿「えっ」
虎之介がそう言うと、とても残念そうにシュンとする椿。
椿(あっという間だった……。もう帰らなければいけないの……?)
椿は、チラリと虎之介を上目遣いで見上げる。
椿「もう少しだけ、一緒にいたい……です……」
自分で言っておきながら、カァァ……と赤く染まっていく椿の頬。
虎之介「……あぁ、俺も一緒だ。しかし、もうすぐ君の付き人が大慌てで君を探しに外へ出ようとしているんじゃあないか?」
椿「はっ」
椿(本当だ……要の存在をすっかり忘れていたわ……!要、私がいないことに気づいているかもしれない)
椿「そう、ですね……。帰らなければ」
寂しげな笑顔を浮かべて、虎之介に頷きかける。
そんな椿を、虎之介はジッと見ていたかと思えば、突然目を塞がれる。
真っ暗になる視界。
そして、その瞬間。
チュ……と、頬に柔らかいものが当たる感覚。
椿(なにが起きて……)
明るくなった視界に目を細めると、そこは、すでに自分の部屋だった。
まるで何もなかったかのように、静まり返っている。
キョロキョロとあたりを見回すけれど、虎之介の姿はない。
その瞬間。
虎之介「女性の唇は盗まない、そう決めてるんでね」
耳元で、そうささやく虎之介の声が聞こえた。
パッと振り向くけれど、やはり虎之介はいなくて。
椿(あぁ、行ってしまったんだ……)
椿は、虎之介にキスされた頬にそっと触れる。
椿(あなたになら、盗まれてもよかったのに)
そんなことを思っている自分がいた___。
◯椿の部屋の扉の前
要「ふぅー……」
8月となった。外はすっかりと暑くなり、セミが鳴いていた。
そんな中、冷や汗をダラダラと流しながら椿の部屋の前に立ち尽くす要。
要(落ち着け、俺。がんばれ、俺)
要は、胸に手を当てて何度も何度も深呼吸を繰り返す。
要(今年こそは誘うんだ……)
ゆっくりと目を開けた要の目的、それは___。
祭り……!
要(一昨年も、去年も全てタイミングを逃し、一度もアイツと行けなかったんだ。今年こそ……!)
よし……そう決心した要が、椿の部屋の扉のドアノブをガチャリと回す。
要(平常心だ、俺。なんとも思っていないように、サラリと誘うんだ!)
要「なあ、1週間後のさ___」
椿「ひゃっ……」
椿の部屋に踏み入れた途端、椿の短い悲鳴が部屋に響いた。
なんだなんだ、と思い視線を椿の方へ移すと、そこには着替え途中なのだろうか、着物を脱ぎかけている椿の姿があった。
要(え)
椿「でっ、出て行って!んもう!バカ!」
顔を真っ赤に染めて枕や帯などを投げつける椿。
要「っ、ば、バカバーカ!別にお前の着替え途中なんて誰が見てえんだよ!」
照れ隠しのつもりでそう叫んだ要は、勢いよく扉を閉めて廊下に出る。
要(あれはアウトだろ〜〜〜……)
その瞬間、せきを切ったかのように、タラタラタラ……っと勢いよくしたたる鼻血。
そして、へなへなとその場にしゃがみ込んだ。
真っ赤な顔をして口元を抑える要。
要(やべ、頭から離れねぇ……)
要の頭の中には、先ほどの椿の姿。
白くて華奢な肩に、綺麗な鎖骨。そして、解けたサラサラの髪の毛。
極めつけには、チラリと見えてしまった胸元。
要(何年も一緒に過ごしてきただろうが……。このくらい平気なはずなのに)
要は、バチン!と自分の頬を両手で挟んで立ち上がる。
要「もう入っていー?」
椿「ま、まだ!入ったら引っ叩くから!」
要「んなもん別に気にしてねーっつーの」
めんどくせーやつだな、なんて言いながらひとりで照れている要。
やがて、ガチャリと扉が開く音がした。
壁にもたれかかっていた要が見れば、椿は少し気まずそうな顔をして、
椿「入って」
そう促した。
◯椿の部屋
椿「で、急にどうしたの?珍しい」
椿がベッドサイドに腰掛け、首を傾げる。
要「あー、まあもしよかったらなんだけどさ」
ドクン、ドクン、とうるさくなる要の心臓。
要(ああ、落ち着け!俺!祭りに誘うなんて簡単なことだろうが!)
椿「……なによ?」
不審そうな表情をして要の顔を覗き込む椿。
要「___……かね?」
キョロキョロと目を泳がせながら、そう言う要。しかし、消えいるような声が届くはずもなく。
椿「もう一度言ってくれる?聞こえなくて……」
要「ま、祭り!一緒に行かね?って聞いてんだよ!」
要は、真っ赤な顔をしてキレたように叫ぶ。それには、椿も驚いたような表情を見せる。
「……」
「……」
2人の間に、妙な沈黙が流れる。
要「な、なんとか言えよな……」
チラリと要が椿を盗み見ると、椿は見たことのない表情をしている。
少し顔を赤くして、俯いている。
要(もしかして、これ……)
(脈アリなんじゃ……)
そう思った瞬間、椿が口を開く。
椿「ごめんなさい。他のお方と行く約束をしているの」
要「……は?」
要(他の人って誰……?男?男なのか?)
あっけに取られて、石化したように固まって動かなくなってしまう要。
椿「せっかく誘ってくれたのに、申し訳ないけれど」
椿は、何かを思い出したように、胸の前でギュッと手を握り合わせ、顔を綻ばせた。
◯椿の回想、昨夜の記憶、椿の部屋
虎之介「夜更かしは体によくありませんよ、椿お嬢様」
いつものように、窓の柵に音もなく降り立った虎之介。
そんな虎之介を見るなり、椿はパァッと目を輝かせて、彼に駆け寄った。
椿「来てくださったのですね」
虎之介「今宵は夜空が綺麗だったんでね」
そう言って夜空を見上げる虎之介がカッコよくて、椿は思わず見惚れてしまっていた。
しかし、椿は何かを思い出したようにハッとしたような表情になる。
椿(あぁ、そうだ。虎之介さんにお伝えしたいことが……」
虎之介「どーかしましたか?」
不思議そうに椿の顔を覗き込む虎之介。
椿は、少しほおを赤く染めながら口を開いた。
椿「お祭り……」
虎之介「祭り?」
予想もしていなかった単語に、コテンと首を傾げる虎之介に、椿はこくんと頷いた。
椿「虎之介さんと一緒にお祭りへ行きたい……です……」
モジモジして恥ずかしそうにうつむく椿。
椿(虎之介さんは、忍び……何か訳があって、忍びは大勢の人の前に出るのが難しいことは、忍びについて何も知らない私でさえわかる)
(今、無理なお願いをしているということも。でも___)
椿「少しの時間、一緒に過ごすだけでいいから……」
椿(とっくに心を、盗まれてしまったんだから___)
虎之介は、しばらく無言で椿のことを見つめていたが、やがてふっと口角を上げた。
虎之介「こんなに美しいお嬢様の頼みだ。いいに決まってるさ」
椿「ほ、本当ですか」
パッと顔を上げて、嬉しそうな顔をする椿。
虎之介「___あぁ」
空には、一瞬だけ、流れ星が見えた。
◯回想終わり
要「だ、誰だよ、そいつ」
椿「え?」
要「男?」
悔しそうな表情をして椿に訴えかけるように問い詰める要。
椿(まずいわ……このまま言ってしまえば、要に虎之介さんのことがバレてしまう)
椿「いいえ、向かいの家に住んでいらっしゃる女性のお友達よ」
椿(ごめんなさい、絹江ちゃん……!)※向かいの家に住むお友達
要「……ふーん、ならいいけど。別に気にしてねーから」
椿に背を向けながらドバーッと涙を流す要。
椿「あっ、あと___」
椿が何かを思いついたようにポンと手を叩く。
穴埋めでどこか誘ってくれるのか……?と、大きな期待を込めて子犬のように振り返る要。
椿「今日、夕飯抜きですから」
要「え」
石化する虎之介に、椿は人差し指を立てた。
椿「主人に敬語を使わなかった罰。何度も言っているでしょう」
要「っは〜〜〜〜〜」
要(なんでダメなんだよ〜〜〜〜〜)
再びどばーっと涙を流しながら椿の部屋から出て行った要。
椿と要の距離は、一向に縮まらなさそうだ。
◯畳の部屋(夕方)
おばあさん「はい、できた!」
椿「わあっ」
姿見の前に映る椿の姿。
髪には、いつもつけていない赤色のかんざしをつけていて、かんざしからは金色の飾りが垂れ下がっている。
そして、椿の花柄の浴衣。帯には、中心に白い飾りがついていた。
おばあさん「ふふふ、とっても似合っているわね」
椿「ありがとうございます……っ」
嬉しそうな表情をしてぺこりと頭を下げる椿。
そんな椿の顔には、珍しく薄く化粧が施されていて、真っ赤な口紅がよく似合っていた。(いつもよりかわいく)
◯椿の部屋
椿が廊下から部屋の扉を開ける。
いつでも虎之介が入ってこられるようにと開け放っておいた窓からは、心地よい風が吹き込んできてカーテンを揺らしていた。
椿(まだ、いらっしゃらないのね)
しかし、次の瞬間。
カーテンがひとゆれした途端に、カーテンの奥から姿を現す虎之介の姿があった。
椿(え……誰か、いる……)
虎之介は、いつもの衣類を身に纏ってはおらず、水色の甚兵衛に紺色の帯、そして、狐のお面をかぶって、椿の部屋の窓の前に立っていた。
椿「虎之介さん……!」
彼が虎之介だということに気づいた椿が、彼の名前を呼ぶと、虎之介は首を傾げて笑った。
虎之介「行きましょうか、椿お嬢様」
そう言って虎之介は、椿に向かって手を差し伸べた。
◯屋台の並ぶ道
道の上には、提灯が飾られていて、夜だというのにも関わらず明るかった。
そして、たくさんの人で賑わっている。
そんな中、椿と虎之介は並んで歩いていた。
椿「あっ、飴売り……!」
椿は、何かを見つけたかと思うと、虎之介を置いて小走りで屋台に向かっていく。
そんな屋台には、色々な形と色をした飴細工が売られていた。
椿「かわいい……」
おじいさん「オススメは、こっちにある動物の形をした飴だ」
椿「わあ……」
目をキラキラと輝かせる椿の横に、後から追いついてきた虎之介が並んだ。
虎之介「おっちゃん、ひとつもらうよ」
おじいさん「はいよ、毎度あり」
椿「え?」
夢中で飴を眺めている椿の横で、さっさと会計をすませる虎之介。
そんな彼を、驚いたように見上げる椿。
虎之介「好きなもの、選びなよ」
椿「そ、そんな……!いいのですか……?」
申し訳なさそうな表情をして、首を傾げる椿に、虎之介は優しく微笑んだ。
虎之介「あぁ。俺からの贈り物ですよ」
椿「えぇと……どれも可愛いから迷ってしまう……」
そう言いながら真剣に飴を見つめる椿を見て、虎之介はくすりと笑った。
椿「なっ、何を笑っているのですか……!」
なんだか恥ずかしくて、頬を膨らませる椿。
虎之介「いーや、かわいいなって」
椿「なっ……」
ポ……と顔を赤くする椿。
椿(ズルい……不意に言うだなんて)
虎之介「ほら、これとかどうかな?」
顔を赤くする椿をよそに、ケロッとしたようにあるひとつの飴細工を指さす虎之介。
それは、小さなうさぎの飴細工。
虎之介「椿お嬢様のイメージに、ぴったり___」
椿「これにします」
虎之介「……?」
そう言って椿が手にしたもの、それは、虎之介がすすめたうさぎの飴ではなく。
虎之介「……なぜ虎を」
椿が大切そうに両手で持っていたのは、いちばん不恰好な虎の飴細工だった。
椿は、それをきゅっと握りしめて胸の前で大切そうに見つめる。
椿(書物でしか見たことはないけれど、やっぱりこれは虎だったのね)
椿「虎之介さんのお名前には、虎という漢字が入っているでしょう?」
虎之介「……」
虎之介は、びっくりしたように椿を見つめると、やがてぷはっと吹き出した。
虎之介「まったく、本当にあなたという人は……」
椿(虎を見るだけで、彼が思い浮かんでしまうなんてことまでは、言えない)
椿は、虎之介を見て、にこりと笑った。
◯色々な屋台
椿「金魚すくい……!」
椿「お団子屋さんだわ……!」
椿「果物が売ってる……!」
◯大通りから少し離れた木のベンチ
椿「ふふ、すごく楽しかったです」
満面の笑みでそう言う椿の横で、虎之介も微笑む。
椿(もうそろそろ、出し物もしまわれてしまう時間ね……)
虎之介とわかれる時間が近づいていることに、椿は寂しそうな表情をした。
虎之介「そんな顔をしないで、ほら、あなたは笑っていた方が綺麗なんだから」
椿「っ、はい……」
虎之介の大きな手で、椿の頬を優しく撫でる。
虎之介「やっぱり、笑っているのがいい」
椿(知りたい)
(あなたが、その面の奥で、どんな表情をしているのか)
(あなたの微笑む表情が、知りたい)
椿「……見せて、くださいませんか」
椿の手がゆっくりと上がっていき、やがて、虎之介の面に手がかかる。
虎之介「……」
椿「知りたいのです、あなたが……私を、どんな目で見ているか___」
しゅるりと紐がほどけて、狐の面がコトンと地面に落ちた___。(まだ素顔は映さない)
◯前回の続き 人気のない木のベンチ
椿「知りたいのです、あなたが……私を、どんな目で見ているのか___」
椿の手が、しゅるりと面の紐を解いた瞬間、狐の面がコトンと地面に落ちた。
椿(彼の目は、狐のように金色で___)
(私を見る目は、まるで愛おしいものを見つめるような、そんな優しい目___)
椿は、虎之介の顔を見ると、目を見開いた。
見たことのなかった彼の顔、それは、黒い短髪、耳元に小さな耳飾り、そして、狐色の瞳。
椿を見るその目は、優しく細められていた。
虎之介「俺はきっと、あなたと一緒にいてもいい存在ではないとわかりきってる。公に出ることもできない、影であり、悪の存在なのだから」
虎之介の手が、椿の手を絡めとる。
虎之介「今までこんなことはなかったのに」
「あなたといると、どうにも自分が抑えられなくなる」
椿「っ、そんなの、私も同じです」
椿は、泣きそうな表情をして、彼の手を強く握り返した。
椿「それでもいい。あなたと一緒にいることがいけないことだなんて、誰にも言われていません」
虎之介「……」
椿「それにあなたは、悪なんかではない……」
椿は、もう片方の手で虎之介の頬に触れると、そのまま唇に片付けをした。
虎之介「っ……」
耳を赤くして、口元を手で覆う虎之介に、椿はくすりと笑いかけた。
椿「ほら、少し口付けしただけで顔をこんなに赤くするあなたが、悪人なわけがないもの」
椿・虎之介(きっともう、後戻りはできない)
(それでも___)
虎之介「……帰したくなくなるでしょうが」
椿「ふふ、このまま連れ去られても、何も文句は言いませんわ」
(もう少しだけ一緒にいることを、許してはくれないだろうか___)
椿の手首にかかった金魚の入った袋の中で、金魚は優雅に泳いでいた。
◯帰宅、玄関
椿「ただいま帰りまし___」
扉を閉めて、そう言った瞬間。
要「嘘ついてんじゃねーよ」
椿「え……」
椿の言葉を遮るようにそんな言葉が聞こえて、椿が振り返ると、そこには完全に怒った表情をした要が仁王立ちをしていた。
椿「要……?何、どうしたの?」
要「とぼけてんじゃねぇ」
怖い表情をした要が、椿に詰め寄る。
要「あの男、誰だよ」
椿「っ!」
椿(なんでバレて……)
要「俺に嘘ついてまで、そいつと行きたかったわけ?」
椿「ちがっ……」
椿(でも、断るために要に嘘ついたのは事実……)
要「ほんと、意味わっかんねー、腹立つ」
唇を噛んでうつむく椿に、要は吐き捨てるようにそう言うと、ダンッ!!と壁をたたいた。
椿「っ!」
ビクッ!と驚いて、怯えた表情をする椿。
要「なんで……」
「なんで気づかねーんだよ……バカ椿……」
そのまましゃがみ込む要。
椿は、困惑したように言葉を詰まらせていた。
◯要のフラッシュバック
要(本当に向かいの女と行ってんのか確かめるだけだ、別に心配してるんじゃねえし、浴衣を一目見たいとか思ってねーから……)
そう言って物陰から見ていると、
要(あ、いた___)
きちんとおめかしをした椿の姿を、要は捉えた。
でも、綺麗だな、なんて見惚れていたのもつかの間。
要「___は?」
要(俺の前で見せたことのない笑顔を向けられていたのは、知らない男だった)
呆然として目を見開く要。
要(すぐにわかった。あぁ、アイツは、あの男のことが好きなんだって)
◯回想おわり
要(今更ながら俺のこと好きになればいいのにとか、そういうことを思ってる自分が嫌いだ)
(アイツは何にも悪くないのに八つ当たりして、怖がらせて)
(誰を好きになろうが、誰と祭りに行こうが、アイツの勝手なのに___)
要「悪い、外の空気吸ってくるわ」
椿「あ……うん……」
何かを言いかけたように口を開いたけど、やがて椿は、静かに頷いた。
扉が閉められたとたん、シン……と静まり返る家の中。
椿は、悲しそうに、寂しそうに足元に目線を落とした。
◯家の外
要(あ〜〜〜、言っちまった〜〜〜)
要は、頭を抱えてずるずると座り込んだ。
要「完全なる八つ当たりじゃねえか……何やってんだ、俺」
先ほどの、椿の悲しそうな表情を思い出して、要は思わず顔を覆った。
要「好きな女にあんな顔させるとか、ほんと、情けね……」
◯要の部屋の前
椿が、要の部屋の前で立ち尽くしている。
コンコン、とノックしようとすると、昨夜のことが頭に蘇る。
『ほんと、意味わかんねー、腹立つ』
それを思い返して、ノックしようとしていた手を降ろした。
椿「少し、散歩へ行ってきます」
「……」
当然返事はない。
椿(いつもいつも、ちょっとそこまで散歩に出ると言うと、すぐに支度をしてついてきてくれていたのに)
◯大通り
椿(すぐ近くだと言っても、着いていくって言って聞かなかったのに)
寂しげな椿の横顔。
(やっぱり、要に嘘をついてしまったからね……。どうしたら仲直りできるのか……)
うーん……とうなりながら歩いていると、ある店が目に入った。
そして、あるものを見つけた途端、パァッと明るい表情になる椿。
椿(これだわ)
椿「すみません、これをひとつもらえるかしら」
店員「毎度あり!」
〜お目当てのものを買えた後〜
椿「ふふ〜ん、ふーん♪」
椿は、鼻歌を歌いながら上機嫌で帰り路を歩く。
そんな椿の腕の中には、布袋が大切そうに抱えられていた。
椿(きっとこれなら、仲直りできるはず……)
その時だった。
女「キャァァア!」
そんな叫び声が聞こえて、椿が振り返る。
そしてざわめきだす周りの人たち。
椿(なんだか騒がしいわ……どうしたのかしら)
首を傾げる椿。
男「逃げろーッ!!!」
大勢「うわぁぁあ!!」
逃げ惑う人々に、椿も逃げようと、人の波にのるが、次の瞬間、手に持っていた要へのプレゼントを地面に落としてしまった。
椿「あっ」
慌てて振り返ってしゃがみ込む。
椿(あった、よかった……)
ほっとしたのもつかの間。椿は、目の前に迫った影に顔を上げると、息を呑んだ。
男「へぇ、いいところの小娘がいるじゃねえか」
椿(え___)
男は、ボロボロの衣服に、刀を地面に引きずって持っていた。その刀は、血で濡れており、男の奥で人がひとり地面に横たわっていた。
椿「っ……!」
椿は、急いで袋を拾い上げ、立ちあがろうとするけれど、チャキ……と、喉元に刀の先を突きつけられた。
男「たいそう恵まれて、幸せなんだろうなぁ」
ニヤリと笑みを浮かべる男。
椿(体が動かない。指一本、まるで動かすことができない)
どくん、どくん……と大きくなる椿の心臓。
男「本当に、幸せそうなやつらを見ているとはらわたが煮えくりかえる」
男が刀を勢いよく振り上げる。
椿「もう、ダメ……っ、死んでしまう……」
ギュッと目を瞑った椿。しかし、来ると思っていた衝撃は一向にこなかった。
椿(あれ……?)
おそるおそる片目を開けると、目の前には、要の大きな背中があった。
要は、すんでのところで相手の握る刀の柄の部分を持って、刀を留めていた。
椿「要……!?」
男「なんだ貴様は!」
オオオ!と叫びながら再び襲い掛かろうとする男に、要は上段回し蹴りを放った。
男「ぐはっ……」
すっ飛んで、膝をついた男。
そして要は、くるりと振り返ったかと思うと、椿の腕を掴んで走り出した。
要「逃げるぞ!刀を持ってちゃ、丸腰ではどうにもなんねえ!」
要に手を引かれる椿は、「うん……っ」と必死な表情で頷いた。
◯路地裏
要「ここまでくれば、さすがにもう大丈夫だろ」
要と椿は、膝に手をついて息を切らしていた。
要は、汗を拭いながら周りを伺うような素振りを見せる。
椿「あ、あの、要……」
家を出る前、喧嘩をしてしまった気まずさから、目を逸らしながら彼の名前を呼ぶと、要は「んだよ」と首を傾げた。
椿「あ、……ありがとう。助けてくれて」
椿がそう言うと、後ろを向いて頭をガシガシとかく要。
要「お前のことを守るのが俺の役目だから、あたりめーだろ。今更なんなんだよ」
要(まあ、心配で尾行してただなんて言えねーけど)
椿「あのね、要、昨日はごめんなさい」
要「え……」
要が少し驚きながら後ろを振り向くと、そこには小さな袋を要に差し出している椿。
要(あれは確か……)
要の頭の中に、先ほどの光景がフラッシュバックする。
何かを落として、慌てて取りに戻る椿の姿。
椿「気に入ってくれるといいのだけど……」
「仲直りがしたかったの」
そう言って笑いながら、少し恥ずかしそうに後毛を耳にかける椿。
要「お前……そんなことのために……取りに戻ったのかよ……?」
椿「え……?」
首を傾げる椿の肩を、要は勢いよく掴んだ。
要「何やってんだよ!あの時、少しでも俺が遅れていたらお前は死んでたかもしれねえんだぞ!」
椿「っ……」
悔しそうに叫ぶ要。
要「お前に傷ひとつでもついたら、俺はもう……」
そして、下を向いて唇を噛み締めながら悔しそうな表情をする要は、椿に顔を見せないようにと椿の肩に額をのせた。
要「頼むから、俺から離れるな……」
椿「……」
椿は、要が泣きそうになっていることを察して悲しそうな表情になると、ゆっくりと彼の背中に腕を回した。
椿「それでも、要を傷つけてしまったことを謝りたくて……。心配かけて、ごめんなさい」
要「っ……バカ椿が……」
空は、夕暮れ色に染まっていた___。
◯椿の部屋
要と喧嘩して、仲直り(?)をしてから、無事に家に帰ってきた私たち。
どうやらあれから、さらに大人数が街を暴れて大変なことになったらしい。
あとから駆けつけた警察が取り締まって、無事に丸くおさまったらしく、死亡者は0だと聞いた。
椿(さすがに、疲れちゃった……)
コロンとベッドに横になる椿。
部屋の窓は、いつでも虎之介さんが入ってこられるようにといつも全開にしてある。
椿(今日はさすがに、来ないかもしれないわ)
(昨日、お会いしたものね)
だんだんと、眠気によって目が薄くなっていく椿。
椿(あぁ、眠気が……)
とうとう、目の前は真っ暗になり、椿は眠ってしまっていた。
◯椿が眠ってからすぐ
カタッ……そんな音が聞こえて、椿は目を覚ました。
椿(音……?しかも、窓の方から……?)
寝ぼけ眼を擦って、窓の方に目を向けると、そこには確かに人影。
椿「!?」
椿(もしかして……)
そう思って、ベッドから起き上がる。
椿「虎之介さん……?そこにいらっしゃるのですか?」
そろりそろりと窓の方に近づいていく椿。
しかし、椿の目に映ったのは、予想もしない光景。それに椿は、ハッと目を見開いた。
椿「っ!虎之介さん……!?」
傷だらけで、血を流した虎之介が、窓に寄りかかるようにして立っていたのだ。虎之介からは、荒い息遣いが聞こえて、立っているのも辛そうだった。
椿(どうして……虎之介さんがこんなことに……)
慌てて虎之介に駆け寄って、腕を支えようとする椿。
虎之介「っ……悪い」
虎之介は、椿の手を借りずに自分で立とうとするが、やはりふらふらとしていて立てず、椿に寄りかかってしまう。
椿「虎之介さん、部屋に入ってくださいっ。手当をしなければ……!」
虎之介「い、い……大丈夫だから」
部屋に入るよう促す椿の腕を弱々しい力で押し返す虎之介。
しかし、椿はそんな虎之介につらそうに怒鳴った。
椿「関係ありません!今は自分自身のことを考えてください!」
椿(早く手当をしなければ……!虎之介さんが危ない……っ)
バタンッ、と音がして、虎之介と椿が床に倒れ込む。
椿「ベッドまで踏ん張ってくださいっ」
もう目を閉じて、感覚だけで立つことができている虎之介を、椿は肩を組んで支えていた。
その時だった。
要「すげー音がしたぞ!何事だよ……っ!?」
ガチャ、と部屋の扉が勢いよく開くとともに、要が部屋に入ってきたのだ。
椿(や、やばい……)
椿「よ、要……!あのね、このお方は決して___」
そこまで言いかけた時、椿の肩を借りていたはずの虎之介が素早く後に引き、黒い物体が要のすぐ横を掠った。
要「っ……!?」
あっけに取られる要。
虎之介「フーッ、フーッ……」
見れば、荒い息をした虎之助が、くないを構えて要を警戒するそぶり。
壁には、さきほど虎之介の投げたくないが深く突き刺さっていた。
椿「虎之介さん……っ、落ち着いてください……!」
慌てて虎之介に駆け寄る椿。
しかし、虎之介はまるで椿のことを認識していないかのように、椿の手をふりほどく。
虎之介「離せ……」
ふらりとよろめく虎之介。
その拍子に、傷口が開いてしまったのか、ポタポタと虎之介の血が床にしたたった。
椿「っ!」
目を見開く椿。
虎之介「ちか、づく……な」
そう言うと、力が抜けて膝から崩れ落ちるようにして倒れた虎之介。
椿「虎之介さん……っ!しっかり……!」
椿(どうすればいいの……!?私は、どうすれば……!早くしないと、虎之介さんが……っ!)
(死んじゃう)
はぁ、はぁ……と、呼吸が荒くなっていく椿。
要「椿、しっかりしろ。戸棚に救急箱が入っていただろ。持ってこい」
椿「でも……っ!」
泣きそうな表情で訴えかけるようにそう言った椿の着物の袖を、虎之介が弱々しく掴んでいた。
要「俺は今出血を止めるだけで手一杯だ。心配するな。大丈夫だから。さっさとしろ」
椿「っ……」
自身の帯を使って虎之介の傷口の出血を抑える要。
そして、椿は、ゆっくりと虎之介の手を床に置くと、走って部屋を出て行った。
虎之介と要、2人きりになった部屋で、要は手早く処置を済ませていた。
要(やっぱりこの男が"虎之介"……)
(かなり傷が深い。まさか、昼間に起きたあの争いを食い止めようとしていたのか……?)
険しい表情をした要。
椿「救急箱、見つけた……!」
要「おう」
部屋に駆け込んできた椿は、持っていた箱を要に手渡した。
椿(お願い……虎之介さん……いつものように、笑ってよ……)
椿は、ギュッと目をつむり、祈るように両手を胸の前で握り合わせた。
数十分後___。
椿の部屋から、要の声が聞こえる。
要「処置は済んだ。命に別条はねえから安心しろ」
椿「……」
無言でこくりと頷く椿。その顔は、俯いていてよく見えない。
要(くそ……)
要はギュッと拳を握りしめる。
要(なんでそんな表情(かお)してんだよ……)
気づけばもう、要は部屋にはいなかった。
椿は、ベッドのすぐそばにある椅子に腰掛け、ベッドに横たわる包帯だらけの虎之介を見つめた。
椿(虎之介さん……)
椿が虎之介の手を握るけど、虎之介の手に力は入らない。
椿「ぅっ……ふ、ぅああ……っ」
今まで要がいるからと堪えていた涙がポロポロと椿の目から溢れてくる。
そんな椿の泣き声が、部屋の外の廊下にまで聞こえていた。
そして、椿の部屋の前で立ち尽くす要は、しゃがみ込んで自嘲気味に笑った。
要「はっ」
「こんなの、俺が付け入る隙なんてねえじゃねーかよ……」
◯要の回想、要が10歳の時、ボロボロの畳の寝室
男「火事だー!」
そんな男の声が遠くから聞こえてくる。
要「……?」
(火事……?)
それに目を覚ました要が、眠そうに目を擦ってあたりを見回すと、とたんにその目は見開かれた。
見れば、あたりは燃えていて、煙で視界が覆われている。
火の手がすぐそばまで迫っていることに、要はあっけに取られていた。
要(なんだ?これ……。火って……なんで……)
動くことができずにいる要。
要(つーか、母さんは……?)
キョロキョロと見回しても、誰もいない。あるのは、ボロボロの畳と、ほぼオレンジに染まる空気。
その時。
ミシミシミシッ……と、天井から音がした。見上げると、炎に包まれた木の天井が崩れ、落ちる。
要(え___)
(やばい、死ぬ___)
両腕でガードし、迫り来る衝撃に備えた要。しかし、来ると思っていた衝撃はいつまで経ってもこなかった。
虎之介「……大丈夫かー?」
固くつむっていた目をうっすらと開けると、目の前には、虎之介の姿があった。
要(誰だ……?)
こくりと頷いた要に、虎之介はフッと笑った。
虎之介「自分の身は、自分で守れ。男の体は、女を守るためにある」
そう言って抱えていた要を地面に降ろして立たせると、虎之介は要の頭にぽんっと手をのせた。
要「……うん」
そう頷いた時。
椿「ねえ、あなた」
路地裏から、声がした。
俯いていた顔をあげ、要が声の主を見つけると、そこには小さな人影が立っていた。
椿「ひとりなんでしょ」
要「え……」
おどおどする要に、少し近づいた小さな椿。
椿「だから、これから行く宛、ないんでしょ」
要「っ……」
ぐ、と唇をかみしめて、涙をいっぱいに貯める要。
そんな要に、椿は顔色ひとつ変えずに言った。
椿「うちにくればいいじゃない。ちょうど今、付き人を雇いたいと思っていたの」
(俺よりもずいぶん歳下の彼女が言った言葉が、俺の人生をいとも簡単に変えてしまった)
椿「もう、隠れても無駄なんだから。かくれんぼが下手なのね!」
要「え……?」
要が横を見ると、さっきまでたしかにいたはずの虎之介の姿はなくなっていて。
かわりに、椿は屋根の上を見つめていた。
つられるように視線をそちらに向ければ、大きな月を背にして、屋根の上に立つ虎之介の姿があった。
そして次の瞬間、音もなく椿の目の前に降り立つ。
虎之介「これはこれは、バレてしまいましたか」
椿「当たり前じゃない。隠れたおつもりで?」
(今では考えられない彼女の気の強さは、弱気だった俺を救うにはじゅうぶんだった)
椿「そんなんじゃ、女性の心も掴めないわよ」
要(うまく忍べるなら女性の心を掴めるのか)
人差し指を立てて虎之介にそんなことを言う椿。
虎之介は、胸に手を当てて微笑んだ。
虎之介「では、あなたの心をいつか盗みに参りましょう。職業柄、盗む、と言った方が妥当なんでね」
椿「えぇ、もちろん。望むところよ」
椿「行きましょ」
そう言って踵を返すと、要の手を取ってスタスタと歩き出した椿。
椿「名前、なんて言うの?」
要「……」
椿「はっきり答えなさいよ、情けないわね」
要「よ……」
椿「よ?」
要「よう……」
絞り出した声は、しっかりと椿の耳に届いたみたいだ。
椿「よう、いい名前持ってるじゃない」
そう言って初めて笑みを見せた椿に、要はあからさまに目を逸らした。
下を向きながら、顔を赤くする要。
胸がドキドキと変な音を立てている。
要(かお、あつい)
椿「私の家は、そこの角を曲がって___」
話し出す椿をよそに、要はさきほどいた場所を振り返った。
しかし、そこに虎之介の姿はなく。
ただの暗い路地裏だった。
要(あとから聞いた話、俺の母親は、俺を殺すために家に火をつけた後、夜逃げしたらしい)
(愛されていないのはわかっていたけど、子供を殺そうとするなんてまあやべえやつなんだなと今になって思う)
(それから、椿と名乗る彼女に連れて行かれた屋敷は、俺の家の何十倍も広くて、綺麗で)
(料理も美味しくて)
(あたたかかった)