果歩は手を引っ込めて、頭まですっぽり掛け布団に包まる。
「お母さん、寒いよー眠いよー。あと一分だけでも寝かせてーっ」
「ダーメ! さっさと起きなさい!」
 夏美お母さんは掛け布団を引っ張った。中の果歩も対抗する。
「果歩は中学生になっても寝坊癖相変わらずやなぁ」
 竹乃はその様子を見て微笑む。
「もう、いい加減にしなさいね!」
 夏美お母さんは、今度はお布団を横から転がす手段に出た。力いっぱい押す。
「ぃやーん」
 すると中の、ロールケーキの生クリーム部分みたいになっている果歩もいっしょにころころ転がり、掛け布団ごと床へ落っことすことが出来た。夏美お母さんの試みは功を奏す。
「あいたたた……(*_*)」
「かほ、早く支度しないと遅刻しちゃうわよ。竹乃さん、果歩が二度寝しないようによろしく頼むわね」
 夏美お母さんはそう告げて、疲れた様子で一階へと下りていく。彼女も果歩と同じく小柄でか弱いため、寝起きの悪い果歩を起こすのにけっこう体力を使ってしまう。
「ねえ、たけちゃん。おーこしーてー」
 果歩は仰向けに寝た状態のまま、両手を天井方向に差し出す。
「はいはい」
 竹乃は快く、果歩の両手をクイッと引っ張って立ち上がらせた。
「ありがとう、たけちゃん」
 竹乃も果歩を起こすのに、今日のように手伝うことはよくあることなのだ。 
 果歩は目覚まし時計をちらりと眺めた。
「七時……三五分……えっ、もうこんな時間なの!? 大変だぁーっ!」
 予想外の時刻に驚く。けれどもこれで、すっきり目が覚めたみたいだ。慌てて鏡の前に座り、櫛で髪の毛をとく。水色花柄リボンのついたヘアゴムで、彼女お気に入りのお団子頭にヘアチェンジ。
 時計の針は刻々と進む。パジャマから紺のブレザー型制服に着替え終えるまで五分近く費やしてしまった。階段を駆け下り通学カバンを玄関先に置いて、おトイレを済ませてキッチンへと走る。
「いただきまーっす」
 続いて大急ぎで朝食をとり始める。その間、竹乃は一旦おウチに戻って夕張メロンを松恵お母さんに渡し、再び訪れて玄関前で待つことに。
 果歩が朝食に用意されていた、ブルーベリージャムのたっぷり塗られた六枚切りトースト一枚、お砂糖多めで甘く味付けされたスクランブルエッグ、そしてリンゴサラダを食べ終える頃には八時五分をまわっていた。
「やばーい。遅刻しちゃうよーっ」
 お口直しにお砂糖たっぷりのホットミルクココアを飲んだあと、すぐさま洗面所に向かい急いで顔を洗って玄関へ竹乃が待つ玄関先へ。
「かほ、歯磨きはちゃんと済ませたの?」
 夏美お母さんは、居間で朝の連続テレビ小説を見ながら叫ぶ。
「そんな時間ないよーっ。行ってきまーっす」
 そう返事し、果歩は真っ白なスニーカーを履いた。
「かほ、いつも言ってるけどもう少し早起き出来るようになろうね。二人ともいってらっしゃい」
 夏美お母さんに見送られ、竹乃といっしょに登校。これが、二人の小学校時代から続いているいつもの朝の光景なのだ。
 バス停まで走るさい、竹乃の胸の辺りまで伸びた、カジュアルストレートの濡れ羽色な髪の毛が棚引く。
「あっ、たけちゃん。もうバス来ちゃってるよ」
「待って下さーい。乗りまーす」
 今朝はこの時季としては肌寒かった。果歩と竹乃は白い息を吐きながら急ぐ。
 他にもたくさん、同校の生徒たちが流れ込んでいく。この便を逃すと遅刻がほぼ確定してしまうため、みんな必死だ。
「ふぅ、なんとか間に合ったわ。今日もぎりぎりセーフやったな」
「危なかったね。運転手さんに感謝だよ」
〈まもなく発車します〉
 車内アナウンスが流れ、ブザー音と共に扉が閉まる。八時十五分の定刻より一分ほど遅れてバスは動き出した。座れなかった二人はつり革をつかむ。
「そういや果歩、数学の宿題最後まで出来た?」
「一応、答合ってる自信はないけど」
 果歩はにっこり笑いながら開き直ったように言い放った。
「そっか。うちも一応全部埋めたで」
「分数と小数が混じってるやつは自信ないよ」
「うちもや。でもいまどき小学校の分数小数出来んでも大学生になれるみたいやし、問題ないよな」
「うん、うん。大学入試では数学を必ずしも使わなくてもいいみたいだもんね」
 こんな会話を弾ませているうちに、
〈楠羽中学校・高等学校前、楠羽女子中学校・高等学校前です〉
 学校最寄りのバス停に到着した。果歩と竹乃は真新しい定期券を運転手さんにかざし、急いで下りる。
バス停から校門までも、まだ少しだけ距離がある。自転車で通学して来た子たちも含め、
多くの生徒たちがこぞって正門へと突入する。
 果歩と竹乃は八時二十五分の予鈴チャイムが鳴るのとほぼ同時に飛び込んだ。鳴り終わるまでは約二〇秒。それ以降の登校は遅刻扱いとされてしまう。毎朝正門前に立つ、生徒指導部の先生方にきちんとチェックされるのだ。
 中学部校舎に入り上履きに履き替え、教室へ入った頃にはすでに担任が教卓の前に立っていた。二人が席に着いて数秒後に、八時三十五分のチャイムが鳴った。朝のホームルームが始まる。
「みなさん、おはようございます。皆さん中学生活にもだいぶ馴染んで来たかな?」
 このクラスを受け持つのは英語科の、優しそうな若い女の先生だ。楞野(かどの)先生という。背丈は一五〇センチをほんのちょっと超えるくらいでやや小柄。ぱっちりとしたつぶらな瞳に丸っこいお顔。さらさらした亜麻色の髪の毛は、リボンなどで結わずごく自然な形で胸の辺りまで下ろしている。そんな彼女はいつも通り出欠を取り、諸連絡を伝え、このあと八時四〇分から始まる一時間目の授業を受け持つクラスへと移動していく。一年一組では、今日の一時間目は数学だった。
「それじゃ、さっそくこの前出した宿題回収するよん。後ろから集めてねーん」
 授業開始直後、横嶋という名の四十代半ばくらいの数学担当教師からお言葉がかかる。
 回収し終えたあと、
「……今パラパラーッと目を通したんだけど、なんかさあ、小学校の復習の分数小数の計算間違えてる子が何人か見受けられたんだよねん。ま、いいけど」
 横嶋先生はちょっぴり怪しげな笑みを浮かべながらそう告げて、白チョークを手に取り、黒板に数式を書いた。
「それではこの問題を……安福君。やってみってねん」
「はっ、はいぃーっ!」
 いきなり指名されてしまった果歩はビクーッと反応した。慌てて立ち上がり、緊張した足どりで黒板の前へと進む。
 出題されたのは、2√5×3√2の値を求める問題。
(えっと……あっ、あれ? 何? この変な記号……ど、どうしよう。こんな問題って、あり? 見たことないよこんなの)
 果歩は白チョークを手に持ったまま、トーテムポールのごとく固まってしまっていた。
「ふふーん。出来ないのかあ。予想通りだな」
 横嶋先生はその様子を眺めて、楽しそうににこにこ笑っていた。
(果歩、かわいそうや。なんやねんあの先生。さっきの発言は教師としてひどいよな。うちがなんとかしてあげたいけど、うちもあれは分からへん)
 竹乃は自分が代わりに解いてあげようかと思ったが、なすすべなし。固唾を呑んで見守るしかなかった。
 その時――。
「あのう、先生、わたしが解きます」
 と、クラスメイトの一人が挙手をした。
「えー、きみがやってもつまんないよ。すーぐ解いちゃうんだもん」
 横嶋先生はその子に向かって何やらネチネチ文句を言い始めた。
 その子は丸いメガネを掛けていて、濡れ羽色の髪の毛は三つ編みと、見るからに優等生っぽい感じの子だった。
「先生、この問題は中学三年レベルなので、解けなくて当然です。分からない子いじめはよくないと思いますよ」
 その子はややゆっくりとした口調で、横嶋先生に向かってズバリと言い放った。
「わっ、分かったよん。じゃあ、きみがやってねん」
 その子はスッと立ち上がって黒板へと向かい、
「あとはわたしにお任せ下さい」
 果歩に向かって笑顔で話しかけた。
「どっ、どなただったかお名前が思い浮かびませんが、ありがとう。助かったよ」
 果歩はその子にお礼を言って、そそくさ自分の席へ戻った。
(果歩、良かったなぁ。あの子めっちゃ良い子やな。お友達になりたいな)
 竹乃も安堵した。
「先生、出来ました。答えは6√10です」
 果歩が席に着いた直後、その子が告げる。その子は、果歩が悪戦苦闘していた問題を一瞬で解いてしまったのだ。
「文句なしの正解だよん。面白みがないなぁ」
 横嶋先生はとても悔しそうな表情を浮かべていた。続いて竹乃にも似たような問題を当てたのだが、またもこの子にあっさりと解かれてしまった。
 
「さっきは本当にありがとう」
「うちの方も助けてくれてありがとな」
 休み時間が始まると、果歩と竹乃はその子の席へと駆け寄る。
「どういたしまして。確か、あなたたちは安福果歩ちゃんと武貞竹乃ちゃんでしたね。わたしは魚井光子っていいます」
「入学式の日に自己紹介しただけなのに、私の名前、もう覚えててくれてたんだーっ。す
ごい嬉しいよ。あのう、魚井さん。ぜひこれから私のお友達になって下さい!」
「うちともよろしくな。このクラス、果歩以外に中学の時の知り合いがおらへんねん」
 果歩は光子の左手、竹乃は右手を握り締めた。今、光子は両手に花状態だ。
「もちろん喜んで。というかわたしの方からお願いしたいくらいだよ。ちょうど来週のお掃除当番、お二人とも一緒の班みたいだし」
「そうなんか?」
 竹乃は黒板横の壁に画鋲で留められていた当番表を確認しに行った。
「あっ、ほんまや! それに、果歩ともいっしょやん」
「えっ!? たけちゃんと同じ班! やったあ!」
 果歩も黒板横に駆け寄る。
「もう一人の子が、二星栞さんか」
「果歩みたいにちっちゃくてめっちゃかわいい子っぽいお名前やな」
 竹乃がそう口にした直後、
「ひゃっ!」
「うわっ、びっくりした。だっ、誰や?」
 果歩と竹乃は、背後から肩をポンポンッと叩かれた。二人は反射的に後ろを振り向く。
「それワタシ。ワタシが二星栞よ」
 二人の目の前にいたのは、ブラウンの瞳に、肩のあたりまで伸びたやや茶色みがかった髪の毛をミディアムウェーブにしていた、見た感じ明るそうな子。竹乃ほどではないが背も高めだった。
「この子もわたしのお友達なの」
 光子は、果歩と竹乃に向かってそう叫びかけた。
「そっ、そうやったんか」
「ワタシは光子の親友であり、かつ幼馴染でもあるよ。よろしくね。カホミンとタケノン」
「あ、どうも。私の方こそよろしく」
「二星さん。うち、また新しいお友達が増えて嬉しいよ」
「まあまあ二人ともそんなに畏まらんと。ワタシのこと呼捨てで呼んで欲しいな」
 栞は友情の証として、二人の手をぎゅっと握り締めた。とてもフレンドリーに接しかけてくる。
「わたしの方も、下のお名前で呼んでね」
「じゃあ私、しーちゃん、みっちゃんって呼ぶね」
「うちはニックネームつけるの苦手やし、普通に栞、光子って呼ぶな。それにしても、あいつひどいよなぁ。マッシュルームカットで、牛乳瓶の底みたいなメガネで、小太りの絵に描いたようなポンバシ、アキバに出没しそうなオタクっぽいのはまだ良しとして」
「通ってた塾の関係で、わたしと栞ちゃんは小学三年生の時から横嶋先生のことを知ってたんだけど、横嶋先生は意図的に出来の悪い子を当てて、難しい問題に困っている様子を楽しんでるみたいなの」
 光子は二人にさらっと伝えた。
「性格はス○夫も入ってはるな」
「あの先生、話し口調はすごく面白いんだけど、当てられるのは嫌だよね。私もたけちゃんも、頑張らなきゃどんどんみんなから遅れとっちゃうね」
 果歩はやや不安そうな表情を浮かべる。
「ほんま先が思いやられるわ。光子と栞のこと、頼りにしとうよ。うちも果歩もな、入学式の翌日にあった実力テストで、下は片手で数えれるほどしかおらへんかってん。授業で分からないとこ、山のように出てくると思うからお助けしてな」
 竹乃は、栞と光子の目を交互に見つめながらお願いした。