第四曲 バレンタインのプロポーズ

「うっわ、うわうわうわ! どこからどこまでもかわいすぎるんだけどっ⁉」

 カフェに着くなり、あたしのテンションはマックスになった。
 山の上にある新オープンのカフェは、教会をリノベ―ションした建物だった。
 天井がすごく高くて、窓からあたたかい光が差し込む幻想的な空間。
 ドアの正面にある大きなステンドグラスには天使が描かれている。
 一歩足を踏み入れると、甘い香りがふんわりとまとわりついてきた。

「やば、お腹空いた……」
 奏がそうつぶやくのも当然。
 おいしそうな香りだけじゃなくて、目の前には焼きたてのパンやスイーツが並んでいるんだから。

「よかったら、お好きなものをひとつずつどうぞ」
「やーん、うれしい!」
 おだやかそうな若い男性(店長さんらしい)に声をかけられ、奏が飛びついた。
「い、いいんですか……?」
 一応聞いたけれど、本当のところはもうがまんできない。
 こんがり焼かれたパン・オ・ショコラもおいしそうだし、いちごのショコラタルトもフォンダンショコラも絶対おいしい。
 バレンタインなだけあって、チョコレートが使われたパンとスイーツがたくさんありすぎて選べない……!

「九能くんはどれにする?」
 ひとつずつ、と言われたのに3つも4つも選んでいる奏を横目に、あたしは九能くんを見上げた。
「俺はべつに」
「いらないの? ひとつずつだよ?」
「……なんなら、俺の分のひとつ、桐野が食べたら?」
「いいの⁉」
「……もちろん」
 ちょっと間があったように感じたのは、九能くんがものすごく小さい声で「それだけ物欲しそうな顔されたら」とかなんとか言っていたから。
 そこは聞こえなかったフリをして、あたしはいちごのショコラタルトとパッションフルーツのマカロンを選んだ。

 店長みずからお皿に盛りつけ、テーブルにセットしてくれる。紅茶までサービスしてくれた。
「結ちゃん、気にすることないって。九能アキラのバッグには女子からもらったチョコがわんさか入ってるに決まってるんだから」
「あ、そっか」
 今日はバレンタインだ。
 うちの学校は、ふだんはお菓子禁止だけど、バレンタインのチョコだけは許可してくれている。
 あたしも友チョコを作りたかったけれど、テスト勉強とピアノの練習でそれどころではなかった。
(帰ったら律と鈴と何か作ろうかな)
 弟と妹の顔を浮かべていると、優雅なたたずまいで紅茶を飲む九能くんの横顔が目に入った。

「で、何個くらいもらったの?」
 タルトにフォークを入れながら興味本位で聞くと、それまで涼しい顔をしていた九能くんがげほげほっと派手にむせた。
「え、ごめん! そんなに動揺すると思わなくて!」
「動揺は、してない。……チョコならもらってないけど」
「「うそだぁっ」」
 あたしと奏がきれいにハモった。
「下駄箱とかロッカーとかちゃんと見た?」
「……なんで美山がそんなに必死なわけ?」
「そりゃあ、おすそわけもらえると思ってたからじゃん!」
「3つも4つもケーキ頬ばってるヤツの言うことか」
「いや奏、本命チョコをおすそわけしてもらうのはダメだって」
 わいわい言い合っていると、店長さんがやってくるのが見えた。

「あ、そろそろ時間ですか?」
「うん、それもそうなんだけど。ちょっと提案があって――」
 そう言って、店長さんは手に持った純白の〈あるもの〉をあたしたちに見せた。

  *

 イベントの時間になると、テラス席へと移動した。今はテーブルもイスも片付けられ、代わりにグランドピアノが置かれている。
「さっぶ……」
 あたしは指をわきわきさせながらつぶやいた。
 はっきり言って、冬はピアノの演奏に向いていない。
 寒くて指が動かなくなるから。
 とはいえ、あたしだけはもこもこセーターを着せてもらっていた。
 寒いからではなく――犬になるために。

「お客さんいっぱいだね」
 手前に座った奏がうれしそうにあたしを振り返る。
 奏は、ノースリーブの真っ白なドレスに身を包んでいた。頭には小さなティアラが飾られ、ヴェールが垂れ下がっている。
 そう。
 まさしく今の奏は「花嫁さん」だ。
 あたしたちが『愛の挨拶』を演奏すると聞き、店長さんが用意した衣装がこれだった。

 タキシード姿の九能くんがヴァイオリンとともに現れると、一部で歓声が上がった。その方向に目をやって、あたしは納得した。
 九能くんのファンの子たちは、みんなかわいらしくパッケージされた箱を持っている。
 チョコを渡すのはイベントのあとにしようって決めたんだ……!
 さすが九能くんのファン。九能くんのちょっときむずかしい性格をよくわかっている……。

「わんこ、指は大丈夫?」
 奏に確認され、あたしは苦々しい笑顔とともに答えた。
「もちろん! 絶好調だわん!」
「さっむ」
 奏がけらけら笑う。
 あたしだって好きで犬の格好してるんじゃないからね!
 あたしが着ているのは、茶色のもこもこセーターと長ズボン、茶色のファーブーツに犬耳のカチューシャ、そしてしっぽ。
 これは、『愛の挨拶』の作曲家であるエルガーが晩年に犬を飼っていたことから、なんだけど。
 なんであたしだけ犬⁉ って思ったよね、正直。

「わんわんだぁ」
 もんもんとしたあたしの耳に、かわいらしい声が届いた。
 声のする方向を見ると、母親に手をひかれた2歳くらいの男の子がいた。思わず手を振ると、ぶんぶん振り返してくれる。
(うむ。犬も悪くない)
 すっかり気をよくしたあたしは、指をあたためてから鍵盤にのせた。

    *

 ピアノの静かな和音から、曲が始まる。
 最初に主旋律を担当するのは、深い音色のチェロ。
 やわらかく響くやさしい音が、一瞬でお客さんを魅了したのがわかった。
 それからヴァイオリン、ピアノと主旋律を順番で奏でる。

 バトンを渡すように。
 お互いの顔を見て。
 うなずきあって。
 
 あたしたちの顔には、自然と笑みが浮かんでいた。