バレンタインに聴こえる主旋律
    ~愛の挨拶~

   第一曲 ふきげんなチェリスト

「うっわ、サイアク。手袋わすれてきちゃった……」
 びっくりするほど寒い朝。
 あたし、桐野結(きりのゆい)は冷え切った指先にはぁっと息を吐きかけた。
 
 家からあたしが通う星音学園中等部までは、歩いて15分くらい。
 冬の登校時間はめちゃくちゃ寒くて、正直ツラすぎる。

 ブロロ……と背後から音がして、あたしは勢いよく振り返った。
(天の助け……!)
 直感どおり、音の主は黒塗りの高級車。
 クラスメイトであり部活仲間でもある美山奏(みやまかなで)が乗っているはずの車だった。
 こうしてタイミングが合うと、奏はいつもあたしを乗せていってくれるんだ。
 ラッキー♪と思って笑顔で立ち止まるも、高級車はスピードをゆるめることもなく、あたしの横を通り過ぎていった。

 う、うそでしょぉ……⁉

   *

 1年A組の教室に入るなり、あたしは奏の席へと突進した。
「ねぇぇぇー、なんで今日に限ってあたしをスルーしたの? べつに期待してたとかじゃないし、なにがなんでも乗せてほしいって言ってるわけじゃないんだけど――」
 そこまで言って、奏があたしを見ていないことに気がついた。

 眉間にぎゅっとシワを寄せて、くちびるを引き結んでいる。
 その瞳は、両手で握りしめたペンケースに向けられていた。
「奏?」
 おおい、と顔の前で手を振ると、奏はふいに顔を上げ、するどい目であたしを見た。
「……結ちゃん」
「う、うん」
 奏のただならぬ様子に、息をのむ。

「あたし――主役になりたい」
「……へ?」
 そこで、朝のチャイムが鳴り響いた。

   *

 美山奏は、世界的に有名な楽器メーカーの社長令嬢で、本人も才能にあふれたチェロ奏者。
 短い前髪からのぞく白いおでこがチャームポイントで、大きな黒目がちの目と相まって、ドールっぽい雰囲気の美少女なんだ。
 あたしから見たら何もかもを持っている恵まれた女の子なんだけど、奏自身は音楽よりもアニメや声優が好きで、今のところ本気で音楽の道に進むつもりはないみたい。
 仲間思いでまっすぐで、一緒にいて楽しい友達なんだけど。

「カフェでオープニングイベントに出るから」
 休み時間になるや否や、あたしと、クラスメイトで部活仲間でもある九能(くのう)アキラを自分の席に呼び、そう言った。
「カフェ?」
 そう。
 奏はとってもいい子なんだけど、発想がときどき突拍子もない。
 だから、あたしも九能くんも振り回されがちなんだよね。

「合奏部の話?」
 あきれたような、あきらめたような声を出したのは、九能くん。
 中学生ながら『天才ヴァイオリニスト』として雑誌に載ったりテレビでインタビューされたりするレベルの有名人なんだ。

 あたしたち3人は、夏休みに音楽をエネルギーに変えるプロジェクトに参加し、秋に合奏部を立ち上げた仲間。
 ピアノが好きなあたしと、チェロの奏、ヴァイオリンの九能くんと「ピアノ三重奏(トリオ)」として合奏部で活動しているんだ。

「じゃなくて、ピアノ三重奏で」
 朝のまま、険しい表情で奏がさらに続ける。
「うちが行きつけのホテルのパティシエが独立してね、星ノ宮市でカフェをオープンすることになったの。そのオープニングイベントに出るから」
「出るからって……もう決まってるの?」
 あたしの問いに、奏がうなずく。
 浅くため息をついたのは九能くんだ。
「なんで勝手に決めるんだよ。俺、そんなにヒマじゃないんだけど」
「へぇえ~? 九能アキラはモテますもんねぇ? バレンタインは予定が入ってて当然ですかー」
「はぁ?」
 九能くんはあからさまに不快そうに眉をひそめ、あたしは慌てて割って入った。

「どうしたの奏? なんかおかしいよ?」
「べつに」
 奏はぷぃっとそっぽを向く。
 奏がふきげんな理由を探りたかったけど、ひとまずこのギスギスした空気をなんとかしなければ。
 合奏部の部長だし……!

「えっと、そのカフェのオープニングイベントっていうのがバレンタイン……2月14日なのね?」
 あたしがなるべく明るい声でそう聞くと、奏はそっぽを向いたままうなずいた。
 今は1月の終わり。教室の後ろの黒板に書かれたスケジュールを見たあたしは、思わず「ぎゃあ」と声を上げた。
「期末テストの最終日なんだけど。練習と勉強が重なるってこと……?」
「1曲だけでいいって」
 あー、そっか。
 演奏したことがある曲ならそんなに練習しなくても大丈夫かな。
 でもバレンタインならバレンタインっぽい曲やりたいなあ……。

 もやもやと考えながら、手帳を広げている九能くんに目をやる。
「九能くんの予定は?」
「期末は問題ない。その日はレッスンがあるけどズラせば大丈夫」
「じゃあ決定! 今日の部活は曲決めね」
 奏は作り笑顔を浮かべ、「はい、解散!」と教室を出て行ってしまった。

 ――ふきげんの理由は知られたくない。
 奏の態度からそんな思いに感じ取り、あたしは奏を追いかけるのをやめた。