彼はいつも横柄だ。横柄でやかましくて、そして優しい。

 「それは違う」

 小テストの際に聞こえてきた声に、私はシャーペンを握ったままピタリと動きを止めた。目が泳ぐ。教室の窓辺の列で最後尾の席に座る私、菜月(なつき)。高校1年生、6月に入った頃、正午前に始まったクラス内の小テスト。静まり返った教室内では、テストに勤しむ生徒の間を40代担任の男性教諭の磯木(いそぎ)が巡回に歩いて回っている。集中するクラスメイト25人ほどの生徒たちは、シャーペンで用紙に答案を書き込んでいた。残り時間が5分まで経過した頃、化学の問題の答えを書いた際、私の耳は、どこかぼんやりと正体のつかめない、しかしハッキリとした若い男の声を捉える。

 「そこも違う」

 彼は、いつもこうだ。面白がっているような笑うかのような口調なのに、バカにするような言い方は決してしない。大体は悪魔で助言であり、提案だ。

「…あと3分。書き直せ、字が違うだけだ」

 しんとした空気が教室内に漂う。更に数分が経った時に聞こえた声。しかしそれらの声が、クラスの生徒たちに全く聞こえていないのを、私は知っていた。答案を99%書き終えた頃、『彼』が口を挟んだ問題に、再度目が行った。

―――書きなおすべきか。でも…。

「字が違うって、どこ?」

 小さく呟いた声が、斜め前と前の席の女子生徒と男子生徒に聞こえたらしく、彼らが二人私の方を怪訝な顔で振り返る。見られたことに気づいて私は口を結んだ。直後、止めー、と担任が大きな声を張った。途端、教室内は緊張が解れたように騒がしさを取り戻す。

 私、(たちばな)菜月(なつき)は、「法春学園 大庭(おおば)高等学院」に通う高校1年だった。都内の一等地の高級住宅街のほぼ中心部に建つこの高校は、中小企業の会社の子供や、大企業の令嬢や御曹司、国会議員の子供が通う学校として有名である。よく漫画なんかで令嬢や御曹司が親の権力を楯に好き放題カーストを作る。そんなことが起きていると想像しがちだが、少なくともここ大庭高校ではそういったことは、現実に起きていない。皆、将来を見据え、親が「恥をかかせるな」と念を押していたり「自分たちが会社を担う」と言う自覚を持つ生徒が多いためなのか、菜月は学校内での諍いを目にしてはいなかった。
 そんな大庭高等学院に入学して数ヶ月。人見知りな私は、入学前から想像していた通り、クラスの中で一人も友人が作れなかった。だが、私には孤独感はなかった。何故なら。