太陽みたいなキミだから

「え、エージ先輩! 今までどこに行ってたんですか」

 もう帰ったと思ったのに。
 エージ先輩はなぜか得意そうにふふんと笑って見せた。

「邪魔かなぁと思って陰からこっそり見てたよ。で、どうだった?」

「どうだった、って……」

 どこか含みのある言い方。なにか言いたげな笑み。
 そうだ、もとはと言えば、先輩がわたしをこの場所に連れてきたんだ。もしかして、樋口さんが来るとわかっててここに誘った……?
 ……不思議。ゲーセンのことといい、樋口さんのことといい、エージ先輩はなんでも見透かしているみたいだ。

「わたしが樋口さんの真似をできるかっていうと話はまた別だけど……でも、彼女と話せてよかったです」

「よかった」

 柔らかい西日が先輩の右頬を照らす。その優しい笑みを見ていると、胸がぎゅっとなってなんだか泣きそうになる。
 なんで、そんなによくしてくれるんですか?
 なんで、わたしのことに一生懸命になってくれるの?
 
「……じゃ、図書館にでも行こうか」

「え……」
 
 呆気にとられるわたしの手元に向かって、エージ先輩が指をさす。

「そのカバン、ものすごーく重そうだけど、どうせ塾の宿題が入ってるんでしょ?」

「えっ、な、なんで、それを……」

 今さら隠したところで無駄だとわかっているけど、わたしは慌ててバッグを両腕に抱えた。
 エージ先輩の言う通り、先輩と別れたあとに図書館にでも寄って、塾の宿題をやってしまおうと思っていたのだ。
 そんなことまでお見通しだなんて。

「オレ、勉強見るって言ったじゃん」

 先輩は楽しそうにニッと笑った。


『勉強を見る』
 その言葉通り、たしかに先輩の教え方はうまかった。なんなら塾の先生よりわかりやすいくらい。
 あんなに苦労していた宿題も先輩と一緒にやったらあっという間に終わって、ちょっぴり拍子抜けだ。
 だけどこれで、夜遅くまで勉強しなくてもすみそう。よかった……。

 最後の問題を解き終えて、ノートを閉じた。
 その音が想定外に響いてしまって、近くに座っていた人から「んんっ」と咳払いされてしまった。
 エージ先輩がわりと大きめな声で教えてくれたときはなにも反応しなかったのに……わたしには厳しい。

 わたしはちらりと前の席に座るエージ先輩を盗み見た。
 解き方を教えてくれてから、わたしが問題を解き終わるまでずっと本を読んで過ごしていた。
 「先に帰ってもいいですよ」と言ったら、「芽衣が終わるまで待つよ」なんて言って。
 優しいんだ。自分の勉強だってあるのに、こうやって休みの日を使って教えてくれて……。
 エージ先輩は最初から、優しかった。

 ――あれ?
 そこでふと、一つの疑問が浮き上がる。
 そういえば……エージ先輩の志望校ってどこなんだろう。
 先輩は三年生。三年の夏といえば、受験勉強が忙しく、遊びに出かけている場合じゃない気がする。
 教え方からして、頭がいいっていうのは本当の話みたいだけれど……だとすると、余裕なんだろうか。
 それとも……。

「――終わった?」

 わたしの視線に気づいた先輩が顔を上げた。

「え、あ、はい」

 じっと先輩のことを見ていたことがバレて……恥ずかしくなる。
 赤くなったわたしを見て、先輩はやっぱりクスッと笑った。

 ――それとも、先輩も『息抜き』が必要だったのかもしれない。
 いつかの放課後、サッカー部を見て寂しそうな表情(かお)をしていた先輩を思い出し、そう思った。
 
 


「エージ先輩、なんでわたしに親切にしてくれるんですか?」

 バス停でバスを待つ時間。手持無沙汰になったわたしは、思い切って気になっていたことを聞いてみた。
 
「言ったじゃん。芽衣に一目ぼれしたからだって」

 だけど先輩は、笑ってはぐらかすばかり。本当のことは言ってくれないってわかっていたことだけど……。

「もう……」

 だけどなんでかな、先輩の軽口に対して、前より嫌な気持ちにならない。

 先輩が本当のことを言わなくてもいい。少しでも一緒にいられたら、それで。
 この夢みたいな時間に、ずっとずっと浸っていたい――。
 ――ゼエ、ハア。

 息が上がる。一気に階段を駆け上ったから、太ももが痛い。
 右手には数枚の白い紙をぎゅっと握りしめ、ただ頂上(屋上)を目指す。
 黄色と黒のしま模様のテープを越えるその動作すらももどかしくって、気持ちばかり焦る。
 早く、早く。
 いつもより重く感じるドアを開けて、

「っ……エージ先輩!」

 大声で呼びかけた。

 だけどそこには誰もいない。
 今日はいないのかな。そう思ったら――。

「こっち、こっち」

 上から声が降ってきた。見上げたら、階段室の梯子をのぼったところから、エージ先輩がわたしを手招きしている。
 なんだ、今日はそっちにいたんだ。なぜか一瞬、もう会えないのかと思ったから、顔を見ることができてホッとする。

「大きな声でどうした――」

 大急ぎで梯子をのぼり、先輩の目の前に手に持っていた紙を突き付けた。

「テスト……!」

 目をぱちくりさせながら、突き出した紙を受け取るエージ先輩。一枚、また一枚とめくっていく。
 わたしは呼吸を整えながらその様子をじっと見守った。

 今日返ってきた期末テスト、それに塾であったテストも含めて、全部で七枚の紙。
 そのどれもが今までとってきた点数より高かった。
 もちろん塾の成果でもあるけど、ほとんどが、わかりやすく教えてくれたエージ先輩のおかげ。
 だから真っ先にエージ先輩に結果を見せたかったんだ。
 先輩ならきっと、誰よりも喜んでくれるはず。

「すごいじゃん、芽衣!」

 案の定、顔を上げたエージ先輩は満面の笑みを浮かべていた。

「エージ先輩のおかげです」 

「芽衣ががんばったからだよ。えらいね」

 ――えらいね。
 そんなこと言われたことがなかったから、少しくすぐったい。
 

 こんなにすがすがしい気持ちは久しぶりだった。
 いつもテストが終わるたびに「なんでもっとできなかったんだろう」って自己嫌悪。
 テストが返ってきた日は、予想通りの点数に、心の中はどんより曇り空だ。
 久しぶり……ううん、初めて、自分で納得のいく点数がとれた。

「エージ先輩はここでなにしてたんですか?」

「オレ? オレは空を見てたんだ。こうやって」

 そう言って、ごろんと寝っ転がる。まるで子供みたいな行動にクスッと笑ってしまった。

「すごくいい天気だから、見ておきたくて。芽衣もやってみなよ、きれいだよ」

 え、わたしも⁉
 コンクリートの上に直接寝るなんてこと、いつもだったら絶対にしない。でも、先輩がそう言うなら……。
 わたしはちょっぴりドキドキしながら思い切って寝転んでみた。

「わ……」

 階段室から見える空は雲一つない快晴で、まるでどこまでも続く真っ青なキャンバスみたいだった。
 見ていると吸い込まれそうになる。深く、遠く、わたしの心をさらっていく。
 この景色を――。

「テストがよかったら、絵が描ける?」

 エージ先輩のその言葉で一気に現実に引き戻された。空までの距離がぐんっと遠くなる。
 いけない……またわたしは思ってはいけないことを思いそうになった。
 わたしはそっと、青空から目を逸らす。

「それは……わかりません」

 お母さんは、許してくれるだろうか。美術部に戻ることを。絵を描くことを。……わからない。
 
「なんで先輩はわたしに絵を描かせたいんですか?」

 初めて会ったとき、『オレの絵を描いてよ』って言ってきた。
 二人でゲーセンに行ったときも『絵はもう、描かないの?』って聞いてきた。
 なんでわたしに絵を描いてほしいって思うのか。この前会ったばかりの人なのに。
 笑顔だった先輩がふと真顔になった。
 意識したことなかったけど、こうしてまじまじと見てみると、エージ先輩って色素が薄いんだ。
 茶色い瞳。透き通りそうなほど白い肌。長いまつ毛は風に揺れてキラキラしている。
 いつも明るく笑っているからわからないけど、真顔だとはかなくて、そして……きれい。

「芽衣の絵が好きだから。それに……――芽衣が絵を描きたがっているから」

「そんなこと……」

 そう言われてドキッとした。
 ――図星。悔しいけど、当たっている。
 エージ先輩と出かけたこと、樋口さんと会話したこと……そういう、今までの生活では知りえなかった新しい世界に、感情が揺れ動く。
 この感情を筆に乗せて絵を描けたらどんなにいいか。きっと今までとはちがう絵が描けるはず、そう思うのだ。

「描きたいんだったら、描こうよ」

 先輩の言葉がいちいち胸に響いて、苦しい。
 描きたいんだったら、描こう。それはすごく当たり前のことだ。当たり前で……なにも難しいことじゃないはずなんだ。
 わたしは、手にしていた紙を見た。

 もし……もしこのテストをお母さんに見せたら……。もう一度絵を描くことを許してくれるだろうか。
 ぽっと小さな明かりが灯るように、胸の中に『期待』が生まれる。
 どうなるかはわからない。けど、でも……試してみたい。

 わたしがパッと顔を上げると、先輩がコクリと頷いた。


 お母さんと対面するときは、いつも緊張する。
 なにかしらイライラしているお母さんの機嫌をこれ以上損ねないように、怒られないように、慎重に言葉を選ぶ。
 こんなとき、お兄ちゃんがいたらよかったのに。何度そう思ったことか。

 お母さんの大事な大事なお兄ちゃん。家族の緩和剤のような人。将来はお父さんの跡を継いで医者になるはずだった。
 それなのに、大学に行ってすぐ、「世界を見たいんだ」と言ってバックパッカーになってしまった。
 今は連絡もろくによこさず海外を飛び回っているらしい。
 お兄ちゃんがいたら……お母さんはイライラしていなかったかもしれないのに。
 お兄ちゃんがいたら……わたしは絵を続けられていたかもしれないのに。

 いままでそうやって、全部のことをお兄ちゃんのせいにしてきた。
 最初から諦めていたんだ。
 小さなきっかけが、もしかしたら今までもあったかもしれないのに――。

「……これ」

 家に帰るなり、キッチンで夕食の準備をしているお母さんに向かってテストを差し出した。
 お母さんは水を止め、手をふき、無言のままテスト用紙をひったくる。
 なんて言われるんだろう。期待半分、そしてもう半分は恐怖だ。
 テストを見られる中、時計の針だけがチッチと音を鳴らす。
 いたたまれなくなって、目を伏せこぶしをぎゅっと握った。

「ふぅん……芽衣にしては頑張ったじゃない」

「…………!」

 ほめられた……!
 聞き慣れないお母さんからの言葉にパッと顔をあげる。久しぶりに笑顔が見られると思ったんだ。
 だけど……目に入ったお母さんの顔は、テスト用紙を眺める難しい顔だった。

「……けど、このくらいじゃ安心とはいえないわね」

 
 

 
 瞬間、目の前が真っ暗になった。
 ――喜んでくれなかった。やっぱりだめだった。

「でも……前より上がってるよ?」

「簡単なところでミスしてるじゃない。気が抜けてる証拠よ」

 わたしが珍しく口答えしたのが気にくわなかったのか、お母さんの口調が荒くなる。

「お兄ちゃんはこんなミスしなかったわよ。あなたちゃんと見直ししたの?」

「した……よ」

「不十分なのよ。お兄ちゃんはね、時間ギリギリまで見直ししていたらしいわよ? まぁ、あの子は見直しがなくても満点しかとらなかったけれど。お兄ちゃんのかしこさが、あなたにもうちょっとあったらよかったのに――」

 お兄ちゃん、お兄ちゃん、お兄ちゃん――。
 お母さんは、結局お兄ちゃんのことしか興味ない。いつまでも過去のお兄ちゃんにこだわっているんだ。

 喜んでもらえると思っていた。
 わたしの顔をまっすぐ見て、笑顔で「芽衣、すごいわね」って。「今夜はごちそうね」って。
 でも……わたしの思い上がりだったみたい。
 お母さんはやっぱりお母さんだ。わたしのことなんて一ミリも見る気がないんだ。
 わたしなんて……わたしなんて……。

 キーン、と耳鳴りがする。お母さんがまだなにか言っているけど、もうなにも聞こえなかった。
 世界がどんどん色あせていく。エージ先輩のおかげで色を取り戻していた、世界が――。

 気づいたら、お母さんに背中を向け走り出していた。
 苦しくて、悲しくて。この胸の痛みをどうにかしたくて無我夢中で走った。
 




 この色あせた世界で、わたしが生きている意味ってある?
 
 
 学校内はがらんとしていた。
 とっくに下校時刻が過ぎているから、当たり前だけど。この様子だとエージ先輩もきっといない。
 それでもわたしは、屋上に向かってひた走る。
 もう、ぜんぶどうでもよかった。

 ドアを開ける。にび色の重たい雲がこちらにまで迫ってきている。そんな天気の中、エージ先輩は……いた。

「芽衣、どうしたの? 顔色が悪いよ」

 先輩はわたしの気配にすぐに気づき、心配そうに寄ってきた。
 だけどわたしはそんな先輩を見ることもなく、そのまままっすぐフェンスに向かう。
 一番右端から四つ目のフェンス。それは、壊れていて危ないとされるフェンスだった。
 
 そうだ、最初からこうしていればよかったんだ。
 あのとき、エージ先輩に引き留められなければ、こんな思いをしなくてすんだのに。無駄に頑張って、無駄に悲しい思いをした。
 わたしはやっぱり誰からも必要とされないんだ。

「芽衣!」

 勘のいいエージ先輩は、わたしがなにをしようとしているのかわかったみたいだ。
 すぐに隣までやってきて声を荒げる。だけど……――。

 わたしはキッと先輩を睨んだ。
 先輩はいつだって、声はかけるくせに触れようとはしない。
 今もわたしの腕を引っ張って無理やりにでもフェンスから離そうとすればいいのに、しない。
 エージ先輩だって、別にわたしのことを本気で心配しているわけじゃない。

「危ないよ、芽衣」

「わたしなんかいない方がいいんだ」

 口から飛び出た言葉は、自分で言ったとは思えないほど冷たく響いた。