息を吐いて肩を落とす。
コンクリートの地面に映る雲の影をぼんやり眺めていたら、頭上から「ふふっ」と笑い声がした。
顔をあげると、エージ先輩が目を細めてわたしを見ていた。まるで愛しい人を見るような眼差しに、思わずドキッとする。
なんでそんなに幸せそうな表情をしているの。
「……なにがそんなに楽しいんですか」
エージ先輩は「んー?」と首を傾げると、そのままわたしにグッと近づいてくる。
先輩のオレンジ色の前髪が、目の前でふわりと揺れる。息すら届いてしまいそうな距離に、わたしの心臓はどくんと跳ねた。
「芽衣が自分のこと話してくれるから」
「……っ!」
ちょっぴり掠れた低い声。わたしより大きな手は骨ばっている。……男の子、なんだな。
当たり前のことを今さら実感した。
意識したらもうダメで。
体がカーッと熱くなってくらくらしてきた。男の子とこんなに近づくことって今までなかったから。
先輩、距離感バグってます。
「……ていうかっ……暑くないんですか」
この体制から逃げ出したい。それは、そんな思いから咄嗟に飛び出た言葉だった。
「え?」
きょとんとするエージ先輩。そのすきに、わたしは二歩ほど後退る。
暦は六月――衣替えの季節に入ったのに、エージ先輩はいまだに長袖のシャツを着ていた。
ずっと不思議だったんだ。なんで衣替えしないんだろうって。
すぐに返事が返ってくると思ったら、エージ先輩は不思議そうな顔で自分の両腕をじっと見ている。
だけどやがてパッと顔を上げると、
「オレ、寒がりだから」
そう言ってニコッと笑った。
「は……はぁ」
まぁたあしかに、長袖を着てはいけないっていうルールはない。
それに、さっきの出来事で汗が出てきたわたしとはちがって、エージ先輩は長袖のくせになぜか涼しい顔をしている。
そういうもの……なのかな。
よくわからない答えにモヤモヤするけど、聞き返したところでどうせまたはぐらかされるだけだ。
わたしはそんなモヤモヤをごくんと飲み込んで、ふいに空を見上げた。さっきより濃くなったオレンジの空は、こわいくらいに綺麗だった。
なんてことのない、午後の会話。
だけど――。
この時覚えた違和感を、私はもっと気にするべきだったのかもしれない。
ノートにびっしりと数式が並ぶ。その暗号のような文字を見ているうちに、目眩がしてきた。
これ、なんだっけ。どうしよう、さっぱりわからない。
パラパラと参考書をめくって見返してみても、それらしい記述がない。習った覚えもない。
この宿題が終わらないと、明日の塾の授業に間に合わないのに。
焦っても仕方ないのはわかっている。だけど……。
――さっすが学年一位サマは違うねー。
美優の言葉を思い出す。
……学年一位、か。
『学年一位』が聞いてあきれる。
わたしはノートの端をぐしゃっと握りしめた。
怒られないように、見捨てられないように。お兄ちゃんに追いつきたいと必死に勉強してきた結果が『学年一位』だっただけ。
それをすごいと言う人もいるけれど、わたしからしたら、家でなにも勉強しないのに毎回テストで百点をとってくるお兄ちゃんの方が、よっぽどすごかった。
それに『学年一位』になったところで、お母さんがわたしをほめてくれることはなかった。
あの時だって、そう。
去年の今ごろ、美術部で出した絵画コンクール。
わたしの作品は『優秀賞』をとったのに、お母さんは「そうなの」と言ったきり、わたしの絵を見ることもほめてくれることもなかった。
『大賞』しか興味がないんだと思う。
コンクールに出したのは大きなひまわりの絵で、わたしはそれを気に入っていた。
だからこそ、母にほめてほしかった。なんでもいいんだ、「よかったよ」のひと言でいいから……欲しかったんだ。
病院にひっそりと飾られたその絵の存在を知っている人は、きっと誰もいない。
わかっていることだけど、それでも期待してしまう自分がいる。
いつか、ほめてほしい。いつか、いつか。わたしのことを見てほしい。
そんな気持ちで、無駄な努力をしてしまう。自分をいつわってしまう。
泣きそうになって、きゅ、と唇をかんだ。
泣いてる時間なんてない。泣くくらいなら、一つでも多く百点を出さなければ。
ふと時計を見たら、もう二十三時をまわっていた。あっという間にこんな時間だ。
今日はここまで……かな。
明日は実行委員もないし、早めに塾に行って、質問して――。
「いつまで起きてるつもりなの?」
考え込んでいると、いきなりドアが開いた。「開けるわよ」のひと言くらいほしいのに、いつもこう。
ノートを閉じる手を止めて顔を上げると、部屋に入り込んできたお母さんと目が合った。
応援の意味でわたしに夜食を持ってきた……わけではなさそう。
もう寝るのか、パジャマにメガネ姿。わたしをチラと見て、それからすぐに机の上のノートを見て顔をしかめた。
「まだ宿題をやっているの? あなたちょっと要領が悪いんじゃないかしら。お兄ちゃんだったら休み時間の間にでもやってしまうわよ」
……まただ。また『お兄ちゃん』。
ズキッと胸が痛む。だけど顔には出さない。
なんでお母さんはこんなに不機嫌なんだろう。わたしが起きていて、なにか迷惑でもかけた?
「……もう寝るところ」
「そう? なら早くしたくしなさい」
お母さんは、そのままぐるりと室内を見回した。そして本棚のある一角を見て「あら」と小さくこぼす。
「もうこんなもの必要ないでしょ。捨てておきますからね」
そう言って本棚から引き抜いたのは、わたしが大事にしていた美術雑誌だった。
何度も何度も大切に読んできた雑誌。それをいま、捨てるって……――?
「え……」
思わずそう言って、手で口をおさえた。
しまった……。
お母さんは左の眉をきゅっと吊り上げて
「なに」
と一言。ふだんよりワントーン低い声。あきらかに怒っている。
「……ううん、なんでもない」
にこりと笑って目を伏せる。
わたしの返事に満足したのか、お母さんは美術雑誌を手に持って出ていってしまった。
『捨てないで』
そのひと言が言えたら、どんなにいいか。
でも言えない。言えないんだ……――。
◇
「そこだ、そこ……いけっ!」
結局昨日は、塾に早めに行くことでなんとかなった。
何個も質問をするわたしに、『わからなかったら、無理してやってこなくていいですよ』と言った、先生の憐れんだ目が忘れられない。
遠回しに『あなたには向いてない』と言ったんだと思う。
そんなことわかっているけど……やめるわけにはいかなかった。
勉強ですら見放されたら、もう本当に、わたしにはなにも残らなくなってしまうから。
「ああー……惜しい!」
爽やかな風が吹く中、となりのこの人はサッカー部の応援に夢中だ。
二チームに分かれて練習試合をしているんだけど、エージ先輩はどっちともを応援しているから、ひっきりなしに「行け」だの「違う」だの叫んで忙しないったらない。
しまいにはフェンスから身を乗り出すもんだから、落ちちゃうんじゃないかと見ているこっちがハラハラしてしまう。
わたしがこんなに思い悩んでいるのに、なんにも知らないとはいえ能天気なんだから。
「……サッカー、好きなんですか?」
じとっと見ると、エージ先輩はグラウンドから視線を外し、わたしに向き直った。
「うん、大好き!」
満開のひまわりみたいな特大笑顔。大好き、の言葉についついドキッとしてしまう。
わたしに言ってるわけじゃないことくらい、わかってるけど……。
大好きなら、こんなところで時間をつぶしてないで、サッカー部に入ればよかったのに。
ふいにそんな言葉が浮かんだけど、口には出さない。
どうせ言ったところでいつもみたいにはぐらかされるだけだからだ。
実行委員もないし塾もない今日は、予習をするために早く帰るはずだった。
だけど、なんでもない、エージ先輩とただ過ごすこの時間が名残惜しくて、「あと少し」と思いながらも帰れずにいる。
相変わらずサッカーの応援に夢中な先輩を盗み見た。
あーあ、楽しそうな顔しちゃって。
わたしに興味がある、と言ったわりに、エージ先輩からはなにも聞いてこない。
「なにか悩んでるの?」「うまくいってないの?」「今日はなにがあったの?」
となりで憂鬱そうに佇んでいるわたしがいても、そういった類のことすら聞いてこない。
その代わり、自分のことも語らない。
紗枝や美優はいつも自分の話ばかりするから、きっとみんなそうなんだと思っていたけど、エージ先輩はちがうみたいだ。
だから本当に、ただなにもないゆったりとした時間が過ぎる。
風が吹き、雲が流れ、水色だった空が次第に赤く染まり、濃い紺色になるのを二人で眺める。
なんにもない。だけど心地いい時間。
こんな時間の使い方をするのは久しぶりだし、それを誰かと共有するのははじめてだった。
「……ふぁ」
あまりにもゆったりしているからか、思わずあくびがこぼれた。
そんなわたしの姿をエージ先輩は見逃さない。さっきまでサッカー部しか眼中になかったくせに、目ざといんだ。
「眠そうだね」
クスクス笑いながら、おもちゃを見つけた子供みたいに楽しそう。
そんな反応も前ほど嫌じゃない。
「……ちょっと……塾の勉強についていけてなくて夜勉強しているんです」
「ほどほどにしたら? 眠いのってキツイじゃん」
軽い調子で返されるから、悩んでいるのがバカらしくなる。でも。
「そんなわけにはいかないんです」
眠いから、できないから、「じゃあ宿題やりませーん」なんて言えない。
これはわたしの意地でもあった。だってここで頑張らなきゃ、絵を諦めた意味がない。
「……ふーん」
珍しくきゅっと眉を寄せて考え込むようなしぐさを見せるから、今度こそ説教かなにかが降ってくるのかなと思った、だけど――。
「あっ、そういえばさ、調べてきたよ!」
パッと顔を上げた先輩の顔は驚くほど楽しそうで。
よくわからない言葉が返ってきてずっこけそうになる。
えっと、今のでこの話は終わり? やっぱりわたしに興味なんてないんだ。
ちょっぴり不満そうに「なにをですか」と聞いてみる。するとエージ先輩はよくぞ聞いてくれましたと言わんばかりにニッと笑った。
「ヒグチさんのこと!」
「え……?」
「芽衣、ヒグチさんのこと知りたがってたでしょ?」
曇りのないまっすぐな瞳。
たしかに樋口さんのことは気になってはいる。だけど調べてきたって……どういうこと?
黙っているわたしをしり目に、エージ先輩が口を開いた。
「樋口とも。二年三組。血液型はB型で八月生まれのしし座。家族構成は母、父、弟。部活には入ってない。友達はいないね。どちらかというと周りから浮いているみたい。いつも教室で本を読んでいるか寝ているかの二択。趣味は――」
「あの、ちょっと待ってください」
先輩の口元に向かってずいっと手を突き出した。急にわたしが止めるから、エージ先輩はきょとんとしている。
「え、なに、どうしたの?」
「調べてきたって……今の情報を?」
「そうだけど?」
先輩はなにが悪かったのか全くわかっていないみたいだ。
わたしが知りたいのは、樋口さんがどういう考えで行動しているか……つまり「内面」のことで、家族構成とか教室でなにをしているか……みたいな極めて個人的な情報じゃないのに。
「たしかに気になるとは言いましたよ? でも知りたいのってそういうことじゃないっていうか……ちょっとキモチワルイっていうか……」
『キモチワルイ』
そう言われたのがよっぽどショックだったらしい。いつも笑顔のエージ先輩が珍しくうなだれている。
「芽衣のためになにかしてあげたくてオレなりに調べたんだけど、き、キモチワルイって……」
「いえ、あの、気持ちはうれしいんですけど……」
うるんだ目でわたしを見つめてくる。その姿はまるで捨てられた子犬のようで、見ていると胸が痛んだ。
ず、ずるい。
「……あの、趣味、は……なんだったんですか?」
これ以上責める気にはなれず、さっきの報告レポートの続きを促した。
そのとたん、エージ先輩はパッと顔を輝かせる。
「それはね、ひ・み・つ」
「は……はぁ⁉」
「あはっ、だってこの先は実際に見てもらった方がわかると思うし」
「途中まで言われたら気になるじゃないですか」
「気になるんだーそっかー、オレの調べたことが気になるんだー」
「……っ!」
なに、この人!
エージ先輩、さっきわたしが言った「キモチワルイ」を相当根に持っているにちがいない。
べ、と舌を出して、いたずらっぽく笑っている先輩を見て、そう思った。
なんていうか……やっぱりエージ先輩はちょっと変な人で……意地悪だ。
「もういいです」
「あはは、怒らないでよ。ね、芽衣、デートしない?」
いきなりの言葉に、わたしは持っていた鞄を落としそうになった。
いま、なんて言った?
デートって聞こえたような気がする。
でもそんなまさか。
わたしにデートのお誘いをするってだけでも怪しいのに、さっき夜遅くまで勉強している話をしたばかりなのだ。
これはそう、聞き間違い。スルーしてやり過ごそう。
「ね、芽衣。デートしようってば」
だけど無視を決め込むわたしの顔をエージ先輩が覗き込んできた。
返事を期待するかのように目がらんらんと輝いている。
聞き間違い、じゃなかったんだ。
ハッキリと聞こえてきた「デート」の単語に心臓がガショガショ変な音をたてる。
「な、な、な、なんでそんな!」
体が火照って熱い。顔だって絶対赤い。
わたしのことからかうにしても、もっとちがうことにしてほしいのに。よりにもよって「デート」って、たちが悪すぎる。
「芽衣はこん詰めすぎ! たまには息抜きしなきゃ。それに難しいって言っても二年の範囲でしょ? 勉強のことが心配なら、オレが教えるから」
ね? と言って、優しく微笑むから、なんだかやっぱりほだされそうになる。
そんな目で見てくるのはずるい。
「せ、先輩が教えてくれるの……?」
「うん! こう見えてオレ、めちゃくちゃ頭いいよ」
……そのセリフ、すごく胡散臭い。
でももし仮にエージ先輩が教えてくれるとしたら……これほど心強いことはない。塾の先生にも聞きづらい今、頼れる人が見当たらないから。
わたしが黙っていると、エージ先輩はにんまり笑った。
「じゃ、決まりね」
「え? え?」
「今度の土曜、二時に駅前ね!」
まだ行くって言ってないのに。
だけど目の前の嬉しそうなエージ先輩を見ていたら、「ムリです」なんて答えは言えそうになかった。