神獣の花嫁〜あまつ神に背く〜

あきれとも安堵(あんど)ともとれる声の響きが、聞き慣れたものであることを知り、目を開けて、叫ぶ。

「なんでッ、アンタっ……!」
「待ってると言ったのに、格好がつかなくてなんだが」

言葉が続かず、呆然と馬乗りになったまま、彼を───つい先ほど別れたはずのセキを、見下ろす。
人好きのするその顔に笑みを浮かべ、伸ばされたセキの手が、瞳子の頬をなでた。

「イチから、聞いて。瞳子に痛い思いをさせるのが……忍びなかった。驚かせて、悪かったな」
「……もうっ、なんで黙ってたのよ……!」
「ああ、イチが教えてくれたのは、瞳子がこちらに戻され後だったからな……。すまない」

セキの言葉に、瞳子は疑いようもなく納得する。あのゆがんだ愛情表現が得意な、従者のやりそうなことだ。

「アンタのせいじゃなくて、イチのせいってことね……」

満月の光が照らすなか、遠く、車の走行音が響く。アスファルトから立ちのぼる匂いが、瞳子を現実に引き戻す。

(……って! セキの身体!)

重力の負荷がかかった大人を一人、受け止めたのだ。本来なら肋骨(ろっこつ)や肺を痛めていても、おかしくはない。

「いくらセキでも、なんともないワケ、ないよね……?」
以前のイチの口振りからすれば“神獣”である彼の身体は、そう【やわく】はできていないだろう。
だからといって、痛くも苦しくもないはずもなかった。

「少し息苦しいが……まぁ、そのうち治まるだろ」

かすれる声音に、ケガの程度を気にかけた瞳子が口をひらきかけた、その時。

「感動の再会中、邪魔をして申し訳ありませんが」

イチを思わす厭味口調。だが、声色はあきらかに違う男性のもの。

第三者の存在に、瞳子は気恥ずかしさのあまり、セキの上から慌てふためきながら飛びのく。
見たことのない若い男───おそらく、瞳子とそう歳は違うまい───が、チタンフレームの眼鏡の奥、冷ややかな眼差しで瞳子たちを見ていた。

「場所を変えましょうか? ……説明はのちほどいたします」

丁寧な言葉遣いとは裏腹に、有無を言わせぬ素振りで、男が敷地内駐車場の方角へと歩きだす。

「瞳子サマが“陽ノ元(こちら)”に戻るための手段は、瞳子サマが【あちら】に還った際、しかるべき者がご案内いたしますので」

と、確かにイチは言っていた。

とまどったものの、辺りに飛び散った窓ガラスの破片に、瞳子は自分がやらかしたことを思いだす。
いくら杜撰(ずさん)なセキュリティとはいえ、警備員が駆けつけるのもさすがに時間の問題だろう。
(……うん。このままここにいたら、いろいろと厄介だよね)

ちらりと建物を見上げたが、須崎(すざき)の姿は見えない。
部下をだまして襲うような卑劣な男だ。転落した瞳子を見て、保身のため逃げ出した可能性は高い。

現状の弁明を他者にするのが面倒なことはもちろん、セキが『この世界』にいることのほうが、いまの瞳子には一大事だった。

そう思って改めて視線を向けると、セキが息をつきながら立ち上がるところだった。
黒いハーフジップのニットにカーキ色のカーゴパンツ姿で、均整の取れた身体によく似合っていた。

(何この雰囲気イケメンな感じ……!)

月明かりに浮かんだシルエットの美しさが、なんだか無性に悔しい。その背中に、片手を叩きつけたくなるのをこらえていると。

「───瞳子、行こう」

そんな瞳子の胸中など知る由もないセキは、ちょっと笑ってこちらを振り返り、いつかのように大きな手のひらを差し伸べてくる。

(もうっ……こんな気持ちにさせるなんて、ズルい!)

───けじめをつけるために戻ってきたこの世界に、離れたくないと思った『彼』がいる。
その事実に、瞳子は生まれて初めて、甘い胸の痛みがこの世に存在することを知った。





イチの片足が、大地を強く踏みしめたその刹那───セキの目の前から、瞳子の姿が消え失せた。

(ああ……行ってしまったな)

空虚な胸の内と、ざわつく心。“花嫁”の望みを叶えるのが“神獣”の存在意義だと解っているのに。

(すでに後悔をしているなんてな)

当初の予定通り、在るべき世界へと帰りたいと願った彼女との約束を、果たしただけだ。
しかも───瞳子はこちらに戻ってくると、言ってくれたのに。

(情けない)

ぎゅっと両拳をにぎりしめたのち、セキはすぐ側で共に儀式を見守ってくれた黒い“神獣”に声をかける。

「コク様。此度(こたび)も御力添えいただき、ありがとうございます。先ほどの助言も肝に命じ、すぐにでも実行に移そうかと存じます」
「……うむ。早いほうがよかろう。また何かあれば、遠慮なく申せ。ではな」

いたわるようにセキの肩口を叩き、黒虎・闘十郎が己の“花嫁”を見やる。

「百合、参ろうか」
「ああ。───あまり気を落とすな。瞳子は約束を(たが)えるようなおなごではあるまい? 信じて待ってやれ」
「……はい。ありがとうございます、百合様」
百合子にまで気を遣ってもらうほどに、自分の落胆が顔に出ていたのかと思うと、苦笑いするしかない。

深々と頭を下げ、闘十郎たちを見送ったのち、セキは気を取り直してイチに声をかける。

「お前、(じん)がどこにいるか、知ってるか?」
「は? あの風来坊ですか?
私より妙子(たえこ)に訊いたほうが早いのでは?」
「いや、この前会った時、妙子も知らないと言っていた」
「……面倒な猫ですね。分かりました。私のほうで探しておきますよ」
「頼む。オレのほうでも心当たりを探すつもりだが」

闘十郎の助言───瞳子が戻って来る前に、セキの“眷属”を増やしておくべきだと言われたのだ。
セキ自身も気になっていたことを指摘されては、即日動かなければ意味がない。

「いえ、貴方には別に、やっていただかなければならないことがありますよ」
「は?」
「“眷属”探しなんかよりも重要で、しかも貴方にとっては役得しかないことが」
「……お前……今度は、一体なにを企んでいるんだ……?」

イチの笑顔に、セキは頭を抱えずにはいられなかった……。



桔梗に留守を託し、セキがイチに連れて来られた場所は、萩原家を出奔した直後にやはりイチに連れて来られた場所───“神獣ノ里”だった。

正確には“神獣ノ里”の(おさ)であるヘビ神の住まう天空の宮。総白木造りの茅葺(かやぶ)き屋根で覆われた在所だ。

い草の香りのするそこへ平伏していたセキは、宮の主の許しを受け顔を上げる。

一段高い御座の上、黒髪をみずらに結った童子がいた。そのすぐ側には巫女装束にふくよかな肢体を押し込めた、中年の女。

「赤狼よ。猪子から聞いたが、なんじは他の“神獣”の嫁御を横取りしたあげく、“花嫁”の願いを叶えるという名目で、我が所有の“金の稲穂”を朔比古を遣い盗み出そうとしていたというのは、真実(まこと)か?」

もはやどこから突っ込んだらいいのか解らないほどの濡れ衣。
……いや、前半部に関しては解釈の相違としても、後半の盗みは聞き捨てならない。

(イチ……! どういうつもりだ……!)

隣に座る獣耳の男の様子を窺えば、明後日の方向を見ている。
これまでの経験上、この場合、セキの取るべき態度はこうだった。

「……仰せの通りにございます。
ただひとつ、訂正を(ゆる)されるのであれば、盗みではなく借り受けるということになるかと」
「───ハッ、なるほどのぅ、物は言いようということか。なんじは血の繋がりはなくとも尊臣(たかおみ)そっくりじゃのう」

(じーさんと似てるとか、ある意味すげぇ不本意なんだが)

ひそかに胸中でぼやきつつも、極力 顔には出さぬよう気をつけ、セキはわずかに面を伏せる。

「……祖父と懇意にしておられたことは、当人からも聞き及んでおります。こちらも」

言ってセキは、脇に置いた“神逐(かむや)らいの(つるぎ)”を両手に掲げてみせる。

「カカ様のご配慮があったこと───“神獣”である私の手に必ず渡すようにと、現世(うつしよ)に私を下賜(くだ)すことの条件にされたとか。
なれば、こちらはカカ様にお納めすべきでしょうか?」

神獣(じぶん)”らの脅威である剣を【無効化するために】同族である“神獣(セキ)”を『人の世界』へと【売った】のだ。

セキの厭味に気づいたらしく、カカこと(こう)の口がへの字に曲がる。その目は閉じられてはいるが、彼には室内の状況もセキや他の者の様子も【()えている】。

「ほぅ……それがなんじの言い分───我が問いに対する答えか。
なんじを無下に扱った報いを為せ、と」
煌の口調にはいら立ちが露わで、セキは肝を冷やした。が、イチの口出しもなければ猪子がセキをたしなめる様子もない。
これは、イチと猪子が用意した『舞台』なのだと気づく。

セキは、白々しいと思われるのを百も承知で、煌に微笑みを返した。

「そのようなことは、とても思えませぬ。
……私にあるのは、カカ様への恩義だけ。私をふたたび“上総ノ国”の“神獣”へと据えてくださった。お陰様で、かけがえの無い“花嫁”と出逢うことができました。
他に、なんの思惑がありましょう」

(『報い』という、カカ様の言質をとった)

おそらく、それが彼らの『名案』を実行に移すための第一歩。ならば、セキの不遇に対する煌の罪悪感につけこむことが、この場において要となるだろう。

(果たして、このお方に罪を(あがな)おうなどという、殊勝な心根があるかは謎だがな)

尊臣同様、自分の為したことに後悔はしない性質(たち)に違いない。尊臣と違うのは、それが信念に基づくものでなく、己の気まぐれな想いによるものだということだ。

(良くも悪くも、気分次第。咲耶様とのことを考えるなら、あるいは───)
「なんじの“花嫁”の帰還を許そう」
(……よし!)

と、セキが思惑通りに進んだことに喜んだのも、つかの間。

「ただし、(あま)の神々の手前、それ相応の理由なくば“陽ノ元”に戻すは、難儀なこと。
“花嫁”がいた世界に行き、なんじの手で“花嫁”を連れ戻すが良い」

煌が放った言に、セキは困惑を隠せない。

「あの……おっしゃっている意味が……」

すると、幼き姿の“神獣ノ里”の長は、面白そうに口角を上げた。

「なんじゃ、(さと)いかと思うたが存外鈍いのう。
───なんじの“花嫁”を【(まこと)の“花嫁”として】“陽ノ元”に連れ帰れ。さすれば誰も文句は言うまい」

言って、煌は隠されていた赤い瞳をひらき、セキを見据えた。

ヘビ神である煌が目を開けるのは、その類い(まれ)なる力を遣う時のみ。
過去・現在・未来を自由に視ることを可能とし、また、いかなる時空への干渉も実現するという、その力。

「そんな、こちらの都合で……」

瞳子に断りもなく、“陽ノ元”に戻るための要件として、名実ともにセキの“花嫁”になることを強制しろというのか。

(オレだけの問題では済まなかったか……)