(……うん。このままここにいたら、いろいろと厄介だよね)

ちらりと建物を見上げたが、須崎(すざき)の姿は見えない。
部下をだまして襲うような卑劣な男だ。転落した瞳子を見て、保身のため逃げ出した可能性は高い。

現状の弁明を他者にするのが面倒なことはもちろん、セキが『この世界』にいることのほうが、いまの瞳子には一大事だった。

そう思って改めて視線を向けると、セキが息をつきながら立ち上がるところだった。
黒いハーフジップのニットにカーキ色のカーゴパンツ姿で、均整の取れた身体によく似合っていた。

(何この雰囲気イケメンな感じ……!)

月明かりに浮かんだシルエットの美しさが、なんだか無性に悔しい。その背中に、片手を叩きつけたくなるのをこらえていると。

「───瞳子、行こう」

そんな瞳子の胸中など知る由もないセキは、ちょっと笑ってこちらを振り返り、いつかのように大きな手のひらを差し伸べてくる。

(もうっ……こんな気持ちにさせるなんて、ズルい!)

───けじめをつけるために戻ってきたこの世界に、離れたくないと思った『彼』がいる。
その事実に、瞳子は生まれて初めて、甘い胸の痛みがこの世に存在することを知った。