「あんな目に()わされて……なんで私が、あんたのための“花嫁”でいなきゃ、いけないのよっ……!」

忘れていたはずの記憶が、よみがえる。何もされていない───それは、事実だろう。
けれども、それは結果論であって、実際あの状況下で何もなかったのは奇跡に近いはず。

瞳子の身体を白狼は汚さなかった───だからといって感謝したり、分別がある『良い人』だなどと、思える訳がない。

知らず知らずのうちに身体が小刻みに震えたのは、恐怖ではない。憤りだ。
押さえてきたはずの感情が、瞳子は自分のものだと主張するような白狼の視線に、爆発しそうになる。

「瞳子」

いつの間にかセキが側にいて、呼びかけと共にそっと引き寄せるように瞳子の肩を抱いた。
ぬくもりが優しくて、泣きそうになる。

「セキ……私っ……」
「大丈夫だ、瞳子」

声音でつつみこむようなささやきに、こらえきれず目じりに涙がにじんだ。セキの肩口に顔を押し当てる。

「───輝玄殿」

堅い声色が、聴覚と、触れた身体の振動から伝わる。
やけに遠くに聞こえるセキの声が不思議で、瞳子は、気づかなかった。
───自らの身体と心が、限界をむかえていたことに。