“神獣”のまま、常世──神々の世界に留まるモノもいるからな、その区別ともいえる。
が、“神獣”と言われれば、ほぼ自国の“国獣”を指すことが多い。
そして、“国獣”にはそれぞれが司どる“役割”がある」
セキの持つ筆が和紙の上をすべるように動く。
瞳子は、よく通るその声を耳にしながら、和紙に書かれていく文字を目で追った。
「白い“国獣”は、『再生と治癒』。
赤い“国獣”は、『生と懐胎』。
黒い“国獣”は、『死と破壊』を、その国の民のため、行うことだ」
「えぇっと。アンタは、赤い“神獣”……“国獣”になるワケだから───」
「『生と懐胎』を司どる。
これは、人間側からの言い方だから、正確には
『生きとし生けるすべての動植物に、生きる力と新たな生命を授ける』
ということらしい。……すべて、イチの受け売りだがな」
そう言って、セキは自らの直垂の袂から何やら取り出した。
懐紙に包まれたそれを開くと、なかから小さな粒が現れた───玄米のように、見える。
セキはそこから一粒、手のひらにのせた。
不思議に思う瞳子の前で、セキの手のうちから灯火のような赤い光が浮かんだ。
その中央にあった玄米が発芽し、みるみるうちに苗へと成長していく。
「すごい……!」
植物が成長する観察記録映像を、早送りで見ているようだ。
瞳子は素直に感嘆の声をあげたが、セキは苦笑いをもらした。
「瞳子に誤解をさせたのは、俺のこの力のせいだ」
「え……あっ」
瞳子は、セキの言葉の意味することを理解した。村娘たちが、セキに寄って集っていたのは───。
「赤ちゃん、が、欲しかったって、こと?」
「それも、丈夫な男子だ」
「え? 生み分け可能なの?」
「まぁ意識したことはないが、願い通り授かることが多かったようだな。
呪いと称して良かれと思って使った力だが、勘違いした村の男衆に、俺が娘たちに手を付けてると言い触らされた。
確かに、好いてる女の腹に衣の上からとはいえ、他の男がさわったとなれば、当然の怒りだな」
自嘲ぎみに笑ってみせると、セキは手にした苗を庭先に埋め、つぶやくように言った。
「瞳子にも、実緒にも、不愉快な思いをさせた。本当に、申し訳なかった」
「わ、私はともかく、奥さん……じゃなかった、元奥さん? いや、まだ奥さん? には、ちゃんと説明したほうがいいんじゃない?
それとも、もう話してあるの?」
瞳子でさえ、勘違いしてセキを疑って複雑な気分を味わったのだ。
正式な妻という立場なら、もっと嫌な思いを味わっているに違いない。
「いや、話していない。……そもそも実緒は、俺が“神獣”であることすら、知らない」
「奥さん、なのに……?」
「妻だからだ。実緒は、俺が人であることが前提での『妻』なんだ。
話せる訳がなかった。それは、俺……萩原虎太郎尊征という存在の、否定だからだ」
障子戸を閉め、セキが瞳子を振り返る。その焦げ茶色の瞳が悲しげに瞬く。
「俺が“神獣”であることは、母も、知らない」
「え……」
「俺は、母が“神獣の里”から連れ去った、ヒトのカタチをした、狼だ」
口にするのもはばかれるように、セキは小さな声で、そう告げた。
《五》
瞳子が、訳が分からないといった表情で、自分を見上げていた。
そこで初めて虎太郎は、感情的になりすぎた己に気づく。
(ダメだな、オレは。瞳子には、ただ事実を伝えればいいだけなのに)
手を洗うことを口実に一旦その場を離れ、水で清めながら気持ちを切り替える。
ふたたび瞳子の前に座り直し、話を続けた。
「俺が“神獣”だと知っている萩原の者は、乳母の早穂……いま“花子”を務めている桔梗だな、彼女と、俺の……『虎太郎』の祖父である先先代の“国司”尊臣だけだ。
母は彼女の生みの親である巫女の血を強く受け継ぎ、霊力が高い。
本来なら只人の出入りが困難な“結界”もすり抜け、“神獣ノ里”に立ち入った。
そこで、“化身”を覚えたての俺を見つけ、連れ去ったらしい。
……子を流し錯乱状態だった彼女は、俺を自分の子だと思い込んでいたそうだ」
努めて冷静に、虎太郎は事実を述べる。
いや、これはすべて、事情を知る者───尊臣、早穂、そしてイチからのまた聞きだ。
虎太郎の記憶には、母から大切に育てられたことと、その母を悲しませたことしか残っていない。
「この家に連れて来られた俺が“化身”を解き、元の狼───“神獣”の姿になった時、彼女はまた錯乱し、手のつけようがなかったらしく……彼女の父親───尊臣が、“神獣ノ里”の長と話し合いの末、俺を萩原家の実子として育てる代わりに、俺に“神逐らいの剣”を授けると“誓約”したそうだ」
「剣を授ける……? それが、何になるの? お宝には違いないんだろうけど……」
それでも、瞳子は虎太郎の置かれた立場に同情したのだろう。かすかに潤んだ瞳に、怒りのようなものが混じる。
(やはり、瞳子は優しいな)
他人の境遇を、自分のことのように受け止める。その心の傷つきやすさは、如何ばかりだろう?
彼女が必要以上に虎太郎達に反発したのも、自分の心を守るためのものだったのだと理解した。
(ずっと、護ってやれたら、どんなにいいか)
だがそれは、叶わぬことだ。瞳子の願いは、元の世界に帰ること。
虎太郎───“神獣”である赤狼は、ただそれを叶えてやるしかない。
自分の想いなど、二の次だ。
「“神逐らいの剣”は、瞳子の言う通り、只人にとっては単なる『貴重な宝』に過ぎない。
けれども、“神獣”にとっては、特別な意味をもつ」
「特別……?」
「ああ。なぜなら、神をも追い払えるという名をもち、実際、斬りつけられれば神のもつ力でも再生不可能、死に至らしめることができるからだ。
“神獣”の肉体である“神の器”も、“神獣”の魂とされる“核”も、傷つけることが可能な剣……それが、“神逐らいの剣”なんだ」
そっか、と、瞳子は相づちをうつ。
「つまり、アンタがそれを持つのは、鬼に金棒、みたいなモンなのね?」
「っ……、ああ、言い得て妙だな。俺としては盾矛のつもりでいたが」
「もうっ、茶化さないでよ。
それで……アンタは、そのお祖父様───尊臣さんだっけ? 達の勝手な話し合いで人として育てられてきて……なのに、また、“神獣”やれって言われたの?」
ムッとした顔で、瞳子は確認してきた。理不尽だと、思いきり顔に書いてある。
虎太郎は、自分の心情を代弁するかのような彼女の表情に癒やされ、気安い口調で話の先を継いだ。
「そうだ。イチが、“神獣ノ里”からの使者として俺の所へやって来た。隣国“上総ノ国”の代替わりとして、俺に白羽の矢が立ったとな」
「代替わり?」
「“国獣”の代替わりは、その“役割”を終えるか───もしくは、その“国獣”が居なくなることによって行われる。
今回の“上総ノ国”の場合、後者だそうだ。だからこそ、俺の名が上がったのだろう」
「……どういうこと?」
難しそうに顔をしかめる瞳子が可愛い。
虎太郎は、一瞬そのことに意識をもっていかれたが、瞳子のじれた視線により、話に戻った。
「“上総ノ国”へは、もともと俺が“国獣”として入る予定となっていたが、俺は人として現世にいる。
だから、俺の弟───紛らわしいが、虎次郎のことではなく、“神獣”としての弟だな、ソイツが“国獣”として遣わされたんだが……居なくなった。
“役割”にはもうひとつ、重要なことがある。それは、次代の“神獣”を残すことだ。
己の“花嫁”と共に過ごした暁に授かるとされるが……弟は、それを待たずに消えたというからな。
俺にお鉢がまわってきたのも、致し方ない」
「───……そんなの、アンタのせいじゃ、ないじゃない」
「え?」
不服そうに唇をとがらせた瞳子を、驚いて見返す。
「アンタは人として、この萩原の家で育って……頑張ってきたんでしょ?
今日の村の人達の態度を見れば、アンタがそうやって人のために力を尽くしてきたことくらい、想像できるわ。
それなのに……今度は“神獣”としての役目を果たせだなんて……そんなの、あんまりじゃない……! 勝手すぎるわよっ……!」
「瞳……子?」
気づけば、目の前で瞳子が泣いていて。虎太郎は、その綺麗な涙と、流される涙の意味に、困惑した。
「アンタも……もうちょっと……理不尽だって、怒りなさいよ……!
なんで、そんなに淡々と……話、してんのよ、ばかっ……」
ああ、と、虎太郎はうめいた。
瞳子は、自分の……虎太郎としての人生を思い、悔し泣きしているのだ。
志半ばで理不尽にも己の道を閉ざされ、違う道を行けと言われる不条理に、憤って。
「……もう、いい」
「は……?」
「瞳子が、俺の代わりに泣いてくれたから、もう、いいんだ。
俺は『萩原虎太郎尊征』としての人生は奪われたが、代わりに、赤い“神獣”として、瞳子という“花嫁”を得た。
だから、もう、いい」
こぼれ落ちた、自分のために流された涙に指を伸ばし、そっとぬぐった。
抑えきれぬ想いを胸にかろうじて留め、瞳子に告げる。
「すまない、瞳子。いまだけ……赦してくれ」
頬に伸ばした手を、今度は彼女の背中に回す。自らに引き寄せ、腕のなかに、つつみこむ。
『虎太郎』となり手に入れた剣よりも。
“神獣”となり出逢えた、かけがえのない“花嫁”という名の存在を、せめてこの時だけは、抱えていたかった。