男が息をのむ気配がした。

顔の両脇に置かれた男の手が、一瞬、ひるむように床から離れかける。
瞳子のなかに、わずかな希望が生まれた。

けれども。

直後、のどもとに男の息がかかり、そこに顔が伏せられたのを感じた瞳子は、絶望に似た虚無をかかえ、ついには意識を手放してしまった。


       *


目を開けると、そこには、見慣れた家の天井があった。

(あー、なんだ。全部、夢だったんだ)

勤め先の上司に襲われそうになったことも。

少女漫画に出てくるような胡散(うさん)臭い容姿の男に襲われたことも。

(良かった……)

安心感から、うつらうつらと二度寝の誘惑にかられ、目を閉じた───つもりだった。

「失礼いたします、姫様」

やけに大きな声で話す女の声がして。
瞳子は、目を覚ましたのだった……。





「ええっと?」
「わたくしは、“花子”の菖蒲(あやめ)と申す者。こちらはセツ。“花子”見習いでございます」
「以後、お見知りおきくださいませ」

細い目とおちょぼ口の面長な中年女が菖蒲。
甲高く耳障りな大声の持ち主がセツ。

それは、分かった。
しかし、瞳子が知りたいのはそんなことではない。

「家に、帰りたいのですが?」
「……こちらのお屋敷が、姫様のお住まいにございます」