「いえいえっ、滅相もございませぬっ! 尊征様には、村の者みな感謝こそすれ、悪意をもつなどもってのほかでございます!」
「ならばよし。収穫も、無事に済んだようだしな」
稲の刈り跡を見れば、例年通りの豊作に終わったことがうかがえる。今年の租も期待できるだろう。
「何か困っていることがあれば───」
と、口癖のような問いかけをしかけて、ぐっと息をのむ。
(何を、言うつもりだ)
萩原家とは関係のない人間だと自ら言っておいて。それは、無責任な干渉でしかない。
「いや。もう俺の出る幕ではないな。邪魔をした。
───瞳子、待たせたな。行こう」
村長の物問いたげな眼差しから逃れ、身の置き所を持て余しているだろう瞳子を振り返った。
「いいの? 何か言いかけてたけど……」
「ああ。俺にできることは」
「もう行ってしまうのぉ、若さまぁ……」
「えぇ〜! アタシもキヨと同じように、若サマにお願いしたかったのに〜!」
「しばらく振りなのに、若様ったら、なんかつれないわね」
いつの間にやら集まった村娘らが、瞳子との間に垣根のようにして群がった。
(参ったな。いまの「俺」は前とは違うんだけどな)
イチが側にいたら、
「彼方此方で良い顔をしてきたツケでしょう」
と、文句を言いつつも女達を蹴散らしているに違いない。
「すまないな。もうお前達の期待には応えられない」
言って、瞳子のほうに目を向ければ、何やら不穏な空気を醸しだしていることに気づく。
村娘たちに阻まれ、表情はよく見えないが───。
(多分、いや、絶対誤解してる)
これは早々に瞳子への弁明を急がねば、と。虎太郎があせったその時、聞き慣れた若い男の声がした。
「兄上、ようやくお戻りですか」
「……虎次郎……」
振り返った視線の先。馬上から、こちらを見る直垂姿の青年は、まぎれもなく萩原虎次郎尊仁、その人であった。
「相変わらず───囲まれてますね」
涼しげな目元をすがめ、虎太郎の周りの村娘を見る。否や、潮が引くように女達がそそくさと立ち去った。
「で、そちらの女性は……」
唯一、虎太郎の側に残った瞳子を胡散臭そうに映した目が、見ひらかれる。
弾かれたように、馬から降りた。
「これは……! 失礼いたしました。『赤の姫君』とは露知らず、とんだご無礼を。
しかしながら、当国の御方様とは違うご様子。一体どちらの───」
「瞳子は俺の“花嫁”だ。
……言っている意味は、解るな?」
一転しての、うやうやしい態度で虎次郎が瞳子に近づくのを見て、たまらずその前に立ちはだかった。
瞬間、虎次郎の顔がみにくくゆがむ。
「兄上。戯言も大概に」
「俺がお前に萩原の後を託し、実緒を離縁し、萩原家を出た理由───それが、すべての答えだ」
皆まで言わせずに、虎太郎は、あの日 告げられずにいた言葉を、ようやく口にだしたのだった。
《ニ》
客人として通されたのは、庭に面した八畳ほどの部屋だった。
雪見障子からは、いまは赤く色付き始めたモミジが見える。
床の間に活けられた菊は一輪だが、質素に見えて品の良さを感じさせた。
時の経過は体感と太陽の位置でしか分からないが、おそらくいまは昼過ぎくらいだろう。
(私はここでどうしたらいいのよ……)
娯楽のない一室。
瞳子に生け花の心得でもあれば、床の間にある花器や活け方も楽しめるのだろうが、あいにくそんな高尚な趣味はなかった。
(それにしても……)
と、瞳子はいまのいままで考えずに済ませていたことを、思いだしてしまった。
(セキって一体、なんなのよ)
セキの弟だという虎次郎が現れ、彼の導きであれよあれよという間に、気づけば萩原家の敷居をまたいでいた。
道中、瞳子は虎次郎の操る馬に、セキは虎次郎が連れていた従者の馬を借りる形となって。
(いつもなら、絶対断ってた)
会って間もない男が駆る馬に相乗りするなど。
けれども、直前のセキ───『萩原虎太郎尊征』という人物に対する過剰な情報が、彼に近寄ることを避けさせた。
幸い、虎次郎のなかで瞳子は、赤い“神獣”の“花嫁”という立場であり、丁重に扱うべき存在として、接してくれていたのも良かった。
それもこれも、瞳子の着衣に虎次郎が気づいたおかげだろう。
(着る物が身分証代わりって、本当なんだ)
朝食を摂ったのち、自室に戻った瞳子に“花子”である桔梗が差し出したのは、昨晩 瞳子が望んだ着物だった。
緋色の小袖の袂と、黒い筒袴のすそには、銀色の糸で紡がれた蔦葛の模様───“神紋”があった。
「瞳子さま。こちらのお召し物はあなたさまが“花嫁”様であることの証となるものでございます。
下々のなかには稀に通じぬ者も居りますが、萩原の者となれば、先代からの教えもあり、不埒な真似をする者もいないはず。
どうぞ、御守り代わりといってはなんですが、付き添い叶わぬわたくしと思い、お召しになって行かれませ」
と言われ、有り難く着させてもらったが、それが功を奏したようだ。
(なんか、兄弟仲もあんまりよく無さそうに見えたし。それに……)
瞳子でさえも感じたことだが、萩原の邸の者達の態度が、セキに対してあからさまに悪かった。
軽んじている、といったほうが正しいか。
セキが瞳子を紹介する前に、虎次郎から、
「こちらは隣国“上総ノ国”の赤い“花嫁”様だ。失礼の無きよう、皆でおもてなしせよ」
と、出迎えた下男や侍女に通達されていた。
何度か、セキが瞳子と話をしたい素振りをうかがわせたが。
瞳子自身、気づかぬ振りをしたり虎次郎に阻まれたりと、この邸に着くまでの間、ついぞその機会はなかった。
(ちょっと情報の整理をさせて欲しいのよ)
決してセキを無視した訳ではないのだ、と、瞳子はほんのわずかに生まれた後ろめたさをそんな言葉でごまかした。
(だって……まず、離縁って、何)
最初、村を治めているだろう初老の男に対しての言葉は、あまりなじみのない単語からやや流しぎみに聞いていた。
だが、虎次郎に対して放った宣言のような言葉のなかでの二度目の「離縁」は、聞き捨てならなかった。
(そりゃあね、見た目の歳からして結婚してたって、まぁおかしくないでしょうよ)
瞳子より五歳くらいは年下に見えるから、おそらく二十五六か。さらに、結婚していれば、子供がいてもおかしくない。
(期間限定とはいえ、花嫁だの恋仲だのと私にやらせるなら、なんかこう、事前に知らせといてよ)
いや、瞳子の性質上、事前に知らされていたら、花嫁も恋仲も断っていた可能性は大だが。
(おまけに、女子からのあの囲まれよう……鼻の下のばしてんじゃないわよ、奥さん泣くわ)
客観的視点からいえば、そんな事実はない。瞳子のなかにいまだ根強く残る『男』という生き物への偏見だ。
(あ、一応、離縁したって言ってたから元妻さんなのか)
そして気になったのが。
(まさかとは思うけど、お願いしたいって、ソッチの話ではないわよね?)
最初は単純に、この辺りの為政者の息子が帰って来たため若い娘らが歓迎している、という図かと思ったが。
(あの、お腹の大きかった娘さん……)
彼女のお腹の子は、もしや、と。
瞳子は、その可能性を考えただけで、なんともいえない気分になった。
これが、昨日までの瞳子であれば、
「あっちこっちの女に手をだしてるなんて、サイテー!」
と、端からセキを疑い、軽べつしたことだろう。
しかしいまは、セキがそんな風に女性と関わっているとは、到底思えなくなってしまったのも事実だ。
(きっと何か、事情はあるんだと思う……思いたい)
ふいに瞳子のなかで「すみません、瞳子さん」と告げる男の声がよみがえる。
瞳子がかつて付き合った男だ。二股をかけて、その相手に子供ができたと言い、別れた男───。
(ああ、もう、イヤ!)
瞳子はぎゅっと目をつぶり、思いきり頭を振った。また、同じような目に合うのかと思うと、堪えられなかった。
(でも、あの時とは事情が違う)
そう、瞳子はセキの期間限定の“花嫁”で、恋仲の振りをするだけという間柄だ。
仮に瞳子の推測が当たったとして、瞳子にセキを責める資格などないのだ。
(ただ私の気持ちがモヤモヤしてるだけ)
そうは結論づけても、今後セキとどう接したらいいのかが、分からない。
(それに───)
よく解らないことがある。
この世界で“神獣”とは、どういうものなのか。
これは、根本的な問題だった。
(普通に考えたら、セキの弟ってことはあの虎次郎って人も“神獣”になるんじゃないの?)
そして、自分という“花嫁”は、彼にとって本当に必要なのだろうか?
(花嫁って、私の感覚だと奥さんになった人を、結婚式の場で指す言葉なんたけど)
あまり深く考えず、白狼の追手から逃れること、元の世界に帰ることだけを優先して、言葉にあるものの正体を突き詰めてこなかった。
(ああ、どうしよう……考えれば考えるほどワケ解かんなくなってきた……)
そもそもここは“陽ノ元”なる異世界。瞳子の知る常識など通用しないのは確かだ。
(そうよね……。ネズミは話すし、頭にケモ耳生えるし、龍の背に乗って空飛べるしね)
うん、と、瞳子は自分のだした結論にうなずいた。
(怖いけど……、本当は、イヤだけど)
きちんと、セキと話をするべきだろう。
それがたとえ、裏切られる結末を迎えるのだとしても、ここでグダグダ考えているよりはマシだ。
(よし、そうと決まれば)
瞳子は障子を開け、部屋の外に出た。