双子が苦手だった。テレビの画面は一瞬の白い波を作って、やがて黒く染まる。

 壱羽(いちは)は何も映っていないテレビを見詰めていた。時間が止まったのかと思われたが、扇風機は左右に首を振り、レースカーテンはそのために揺蕩う。彼女は溜息を吐いた。

***

 忘れもしない。小学6年生の頃。壱羽には好きな異性がいた。近所に住む咲坂(さきさか)朝生(あおい)だ。いつも明るく、笑顔を絶やさない姿に惹かれた。勉強は苦手なようだが足が速く、特にサッカーでは輝いていた。けれど何よりも壱羽が惹かれたのは、朝生の優しいところだった。幼馴染だった。保育園から一緒であった。小学3年生の頃には、朝生を意識していたように思う。6年生でやっと同じクラスになれたのだった。
 咲坂朝生も一人ならば周りの女子が放っておかなかっただろう。ところが朝生には、この魅力を霞ませる存在がいた。



 後になって作られた記憶なのかもしれない。壱羽は自信がなかった。


 咲坂朝生には双子がいる。夜生(やよい)という、性格の似ない弟がいたのだ。兄とは違い、物静かで、教室の隅で本ばかり読み耽り、人と関わろうとしない弟が。
 忘れもしない。小学6年生のとき。
 壱羽は朝生に手紙を書いた。近所に住む幼馴染である。わざわざ手紙を(したた)めずとも、家へ寄って、用件を告げればよかった。しかし憧れがあったのだ。少女漫画みたいに、学校で、そして2人きりになって、告白がしてみたい―……

 ファンシーな便箋に、匂いのするペンで朝生を呼び出す文面を書く。便箋と対の封筒に入れ、封緘(ふうかん)のシールにもこだわった。明日の朝、朝生の下駄箱にこの手紙を入れておく。
 その夜は眠れなかった。明日のこの時間には朝生の気持ちを知っているのだろう。明日の自分はどう過ごしているのだろうか。


 壱羽は走った。誰にも気付かれないようにしたかった。家族や共に登校している友人たちにはそれらしい理由をつけて、いつもより早く学校へ駆けつけた。校門前に辿り着くと、見知った姿があった。肩を窄めるようにして歩くのは隣の隣のクラスの夜生だ。早起きに弱い朝生と違って、弟の登校は早かった。道の人混みすらも苦手らしい。何より、この弟は女子同士の言い合いのもとであったし、男子もまた女子とよく揉める原因になっていた。そのために人よりも早めに家を出ているらしいのだ。
「おはよー、夜生ちゃん」
 壱羽は夜生の横をすり抜け、玄関ホールに飛び込んでいった。まだがらんとしていた。朝生の下駄箱を見つけ、手紙を入れておく。不安と期待。もし朝生の気持ちと同じ方向を向いていなかったのだとしても、幼馴染だった。家族同士、仲が良い。離ればなれになるわけではなかった。能天気な淡い片想いだった。恋に恋していたのだ。このときばかりは憧れの少女漫画のヒロインになれた心地でいた。
 授業は頭に入らなかった。放課後が待ち遠しい。同時にそれは軽いものでもあった。いずれにせよ、朝生とは幼馴染として、もしかしたらまた別の関係で以って、これからも一緒なのだ。恐れることはない。

 放課後になって壱羽は待ち合わせの場所に向かった。人影が見えた。胸が高鳴る。遠目からだが朝生がいる! 朝生は体育着で、はしゃいだらしいくしゃくしゃの髪をしていた。しかし壱羽は首を傾げる。
「朝生くん……?」
 朝生に違いない。手紙は朝生の下駄箱に入れたのだし、現に朝生は目の前に立っている。壱羽の好きな笑顔を浮かべて、腕組みする様に自信と活気が窺える。しかし何か歪んで見える。何かが違って見えた。だが紛うことなき朝生なのだ。
「壱羽……ちゃん。どうかした?」
「う、ううん。朝生くん、今日、体育着で来てたっけ?」
 壱羽の学校では体育着の登校は許されていた。朝生はその活発さから体育着で登下校していた。そういう生徒は珍しいことではなかったし、また早めに体育の授業に参加できるという、体育好きな生徒にのみ利点となり得る利点があった。しかし今日は……
「さっき水を飲んで汚しちゃったんだよ。夜生から体育着借りたの」
 確かに、名札には夜生の名前が記されている。
「なんだ、そっか。ちょっといつもと違って見えたんだけど……」
「ああ、それは多分、長袖だから。あいつ、長いほうしか貸してくれなくてさ」
 言われてみれば、そうだった。季節問わず暑がりの朝生が、珍しく長袖を着ている。
「そうなんだ。確かに! それより、お手紙読んでくれてありがと」
 笑っていた朝生の目が、少しだけ釣り上がったように壱羽には見えた。
「ううん。壱羽……ちゃんが心を込めて書いてくれたお手紙だもん。それで、話したいことって?」
「あのね、朝生くん。わたし、朝生くんのことが好き。幼馴染(おともだち)としてじゃなくて、男の子として……」
 朝生の気性からして、笑って受け止めるはずだった。違う気持ちを抱いていたとしても、笑って優しく断るはずであった。朝生はそういうクラスメイトで、幼馴染だったのだ。
 壱羽は顔を火照らせていた。しかし徐々に冷めていく。それは視線の先にいる朝生もそうであった。笑顔は引き潮のごとく消え失せ、強張っていく。
「ごめんなさい。迷惑だった……?」
「ねぇ、壱羽。本当に気付いてないの?」
 くしゃくしゃの髪に手櫛が入っていく。前髪を下ろしていく様は、寝癖ではなかったのだ。遊んで乱れたのではなかったのだ。
「え……?」
「好きだって言うなら、気付いてくれるんじゃないの」
 体育着が脱がれ、露わになったのは朝生の服ではなかった。
「夜生ちゃん、なの……?」
「そうだよ」
「なんで? なんでこんなことするの! わたし、朝生くんの下駄箱に入れたのに……なんで夜生ちゃんが来るのよ!」
 壱羽は語気を強めた。夜生は俯いたきり、何も言い返さない。
「ねぇ、どうして? 朝生くんが夜生ちゃんにお手紙見せたの? わたし朝生くんに来てほしかったんだよ?」
 夜生は項垂れてしまった。朝生と違い、少し華奢なその肩が震えはじめる。怒鳴りつけていた壱羽は口を閉ざし、硬直してしまった。周りを味方につけ、先生をも味方につける、一発逆転の必殺技の兆候だ。布石(ふせき)だ。外野として、壱羽もその強力さを知っていた。そして今、それを喰らう側に立たされている。
「俺だって好きだったのに……!」
 夜生は叫んだ。涙が落ちていくのを、頻りに拭っている。このままでは先生に怒られ、両親からも怒られ、朝生に嫌われてしまう……それだけではない。夜生を取り巻く女子たちからも。夜生は可愛いと評判だった。足が速くてかっこいいと持て囃されていた。頭も良かった。
「ご、ごめん。ごめんね、夜生ちゃん。朝生くんを()ろうとしたわけじゃなかったの……」
 夜生は首を振った。赦さないというのだ。先生に言いつける気なのだ。夜生たちの両親に連絡がいき、朝生にも嫌われ、家に帰ったら叱られるのだ。
「ごめんなさい、夜生ちゃん。ごめん……朝生くんとはもうなるべく喋らないようにするから……だから赦して。誰にも言わないで」
 後先を考えなかった。ただ大人に怒られたくなかった。夜生を取り巻く女子たちにいじめられたくなかった。壱羽は怖くなってしまった。残りの学校生活が不安に曇る。
 結局2人で泣き出した。
「壱羽ちゃ~ん」
 離れたところで朝生の声が聞えた。曲がり角から姿を現す。
「壱羽ちゃ~んっ! 花ちゃんがここにいるって……あれ、夜生? でもよかった。今日歯医者だろ~? 一緒に帰らなきゃダメじゃんか~!」
 走っていた足が徐々に緩められる。
 壱羽は図らずも夜生と同時に朝生を向いた。朝生はぎょっとして後退る。
「二人とも、泣いてるの? 壱羽ちゃ……」
 触れようとした朝生の手を振り払う。壱羽は逃げた。


 それからしばらくして、咲坂家は引っ越した。中学に上がるのと同時に他県へマイホームを買ったのだという。挨拶はしなかった。する必要もなかった。夜生には会いたくなかったし、朝生には会わせる顔がなかった。すべて、幼かった自分のせいなのである。壱羽はそう思うことにした。少女漫画のヒロインなどばかばかしい。愚かだ。恋に恋して振り回されるのは一体誰だ。
 季節が巡り、壱羽は高校2年生になっていた。夏休みの宿題を乗せた自転車を転がしてアイスを齧っていた。夕方の時間帯だというのにまだ明るい。家に帰るところだった。夕飯はそうめんと聞いていたが、冷しゃぶに変わったと連絡があって、それを楽しみにしていた。
「壱羽、ちゃん」
 家の門に入ろうとしたところで声がかかった。壱羽はそのほうを見遣る。同年代くらいの少年が立っている。背が高く、半袖シャツにハーフパンツ、シャワーサンダル。首から掛けた麦わら帽子が雰囲気に合っていないように感じられた。招き猫みたいに片腕を上げて振っている様がぶっきらぼうだ。壱羽は固まった。グレープ味のアイスが溶けていく。
「朝生だけど、覚えてる?」
 何かが違う。朝生ではないと直感した。真夏の夕方。蒸し暑かった。だが青褪めていく。けれど相手には見えはしないだろう。空から射し込む茜がその顔色を染めている。
「あなた、夜生ちゃんじゃない?」
 その声は低かった。壱羽は人当たりのいい、そのために地味な印象さえ与える、控えめで温和な気質であった。人との衝突を恐れるあまり、媚びたところさえある。しかし壱羽の目は吊り上がり、眉根が寄る。
「え……っ」
 朝生だと名乗る人物は慄然として目を見開く。それは肯定と変わりがなかった。
「またバカにしてるの、わたしのこと……」
 低い声はもう出なかった。威嚇とも嫌味とも違う声が漏れ、どこか投げやりに消え入る。
「ち、違う、俺は、朝生で……」
 朝生だとは思えなかった。根拠を述べることはできなかった。同じクラスにいて、元気で人懐こく、よく食べよく喋るのが朝生で、そうでないのが夜生。見分けはその程度のことなのである。気付いてしまった。壱羽は顔を一目見ただけでは、二人を判別できなかった。判別だの見分けるだの、その必要性も概念も持ち合わせていなかった。早く気付くべきであった。遅かったのである。しかしもう関係のないことだ。
「別にどっちでもいいけど」
 微苦笑を浮かべた。ふと突然目の前を過った小学時代の出来事を無効化したかった。言葉の割に、努めて明るく振る舞った。
「壱羽―」
「壱羽ちゃん?」
 背後からまた別の声に呼ばれて壱羽は振り返った。日焼けした肌にゆとりのあるシャツとプリーツの入ったワイドパンツの同年代らしき少年が立っている。頭に乗ったチューリップハットがどこか胡散臭い。
「久しぶり。夏休みでこっち帰って来てたの。もう夜生から聞いてた? お夕飯、ごちそうになるからよろしく」
 壱羽は、自称朝生のほうを向き直る。思わず睨んでしまっていた。まだ、朝生と信じていたかったのかもしれない。
 厭な沈黙だった。目を泳がせ、眉尻を下げ、今にも泣きそうな表情を見れば、誰も何も言えはしまい。
「そうなんだ。そうなんだ……」
 自転車を転がす。車庫の脇に停めて、家の中に入っていった。
 この夜のこともよく覚えている。壱羽は友人と出掛けると言って食卓に顔を出さなかった。後から聞いた話では、夜生もまた用事があってそもそも参加する予定はなかったそうなのだ。




 壱羽の入った大学の学部は3年からキャンパスが変わる。別の学部生とキャンパスが合同になる。そのために3年生から、また新たな出会いがあるのだった。
 新たな出会い―……
 特に求めていなかった。2年間もあればある程度人間関係は構築されていくものだ。

 ねぇあの人、かっこよくない?
 外のベンチで菓子を食べていると、隣に座る友人に肩を揺すられた。壱羽はぼんやりとスマートフォンを眺めていたが、顔を上げる。少し離れたところを、背の高い男が通り過ぎていく。小さな頭に艷やかな黒髪。形のよい額からすとんと鼻根に落ち、小振りな鼻尖まで隙のないカーブ。唇の複雑な凹凸と顎のラインにも雑味がない。色が白く、暗い色調の服装がよく似合っていた。
「うーん、確かに?」
 友人は苦笑する。
 壱羽ってばチャラ男みたいなのが好きだからねッ!
 厳密には違っていた。正確にはスポーツマンタイプの男が好みなのであった。筋肉質で、健康的な異性に惹かれる。口にする限りでは。しかし彼女に交際経験はなかった。小学時代の出来事によって、恋愛というものが後ろめたかった。痛々しいものだ。恥ずかしい。
 せっかくキャンパス替えして新しい出会いもあるんだから、壱羽、カレシ作りなよ。体育学部なら好みの人、いるんじゃない?
 友人は無邪気だった。
「うん……そうかも」
 あまり気乗りしなかった。出会い、慣れしみ、関係を仕分けていくのが厄介であった。憧れはあるけれど、渇望しているわけではない。
 軽率な行動で、昔、幼馴染の双子を傷付けてしまった……
 慎重にならなければならない。当時は相手を責めてばかりいたが、彼女はよくよく己の行動を反芻した。自己満足に相手を振り回してしまった。苦々しい思いは形を変えていく。また新たな側面が見えてくるものだった。
 双子のひとりを自分のものにしようとした。怒るのは当然だ。幼い日の傲慢が今でも憎い。


 すべての学部を包括するこのキャンパスは広く、新設と改築によって建物自体も新しいところが多かった。大講義室から新設されたカフェテリアを繋ぐ地下通路もそうであった。人感センサーによって、利用者の場所に合わせ明かりが点いていくのが楽しかった。反対側からも明かりがやって来る。暗い天井がすべて明るくなった。正面から人がやって来る。身形(みなり)からして男大学生のようだ。講師や教授ではない。丈の長いカーディガンが高身長によく似合っていた。無造作なように見えてよく櫛の入った黒髪に白い光輪が掛かっている。すれ違うものかと思われたが立ち止まる。何の用かと、彼女はまじまじとその面構えを見てしまった。よく通った鼻梁と薄い唇。伏せがちな長い睫毛と、刃で引いたような二重目蓋。自信のなさそうな困り眉。
「壱羽?」
 よく濡れた目が泳ぐ。驚いている様子はない。ただ自信がなさそうなのである。壱羽は違った。首を後ろに竦めるほど驚いていた。頭が真っ白になった。自分が今どこにいるのか忘れてしまうほどだった。小学生の頃に見た顔立ちが薄らとそこに見てとれる。朝生の顔立ちを。しかし雰囲気がそちらではないほうを示している。
「夜生ちゃん……?」
 白い顔が縦に揺れた。
「なんでここに……」
 もし次会えたら言いたいことがあったが、いざ対面するとすべて吹き飛んだ。言いたいことがあったことさえ忘れた。会うことを予期していての対面を想定していたのだ。けれども実際は違った。忽如として現れた。
「俺もここに通ってるから……」
 大学進学と共に壱羽は一人暮らしをはじめ、咲坂兄弟の実家からも離れていた。近況は知らなかったし、避けてもいた。家族もまた咲坂家との交流も薄れ、話題に挙げなくなっていた。現在はただ、時折、壱羽のなかで苦々しく意識に浮上するだけの存在だったのだ。
「っていうか、壱羽がここに通うって聞いてたから、俺も……」
 高校時代に家族伝てに聞いていた志望大学から随分とランクを下げたものだ。壱羽は嫌になった。まるで夜生を巻き込んだ気にさせられる。
「でも3年になるまでは違うキャンパスだったんだな。知らなかった。同じ学部にしておけば……」
「自分で大学、選んだんじゃないの……?」
 戸惑いに満ちた眉が歪む。壱羽も顔を逸らした。平生(へいぜい)から表情のなかった夜生が、自分の前では顔を歪ませるのが、彼女は怖かった。いつか辛辣な言葉を吐かれるのではないかと。突き飛ばされでもするのではないかと。決別した当時はの心境はもっと漠然としていたけれど。
「ごめんなさい。こんなこと言いたいんじゃなかったの。ちょっとびっくりしちゃって……ずっと言いたかったことがあって」
「……なんだ」
 視線は合わず、すれ違う。
「今まで酷い態度でごめんなさい。もう忘れてるかもしれないけれど、わたし昔、夜生ちゃんのこと傷付けちゃって……」
「どうして、壱羽が謝るんだ……?」
 夜生は覚えているようである。もしかすると些末なことであったのかもしれない。"された"側よりも"した"側だけが忘れずにいる珍事であったかもしれないが、そうはならなかった。
「振り回しちゃったでしょ、朝生くんのことも、夜生ちゃんのことも。恋に恋する子供だった。恥ずかしいね。本当にごめんなさい。その後も、変な態度をとっちゃって……」
 おそるおそる、夜生の白い顔を見上げた。小学時代の身長というものはあてにならない。咲坂兄弟は小柄なほうだった。壱羽のほうが少し大きかった覚えがあるくらいだった。それが今や、男女となって世間一般的な性差を顕わにしている。夜生は同年代男性の平均身長も大きく上回っているのではないか。
「壱羽……、あのときは―……」
「じゃあ、朝生くんにもよろしくね。ううん、やっぱりナイショ。恥ずかしいから」
 だが朝生にも誠心誠意謝るべきではなかろうか。いやいや、彼は覚えていないかもしれない。覚えていなかったら、掘り起こすことになる。仲の良い双子を引き裂くつもりはなかったのだ。



 咲坂夜生の噂はたびたび聞いた。大学構内でも時折り目にした。女子の目を引き、男子の話題にも挙がっている。読者モデルであるだとか、芸能事務所から声がかかっているだとか、若手女優と交際しているだとか、次の合コンに誘いたいだとか、また一人女の子が弄ばれただとか、誰それの女が寝取られただとか、そういう類いの噂である。信じようもなければ疑いようもなかった。憧れもなければ軽蔑もない。そうする立場になかった。
 主に昼食やサークルで利用される学生会館の大窓から夜生を見つけた。多少尾鰭背鰭のついていそうな噂のことが頭を過る。事実であるとしたら人は変わるものだ。褒められた内容でないものも含まれているが、人見知りは改善したのだろう。
 壱羽、何見てるの?
 自動販売機から友人が帰ってくる。学生会館の丸テーブルの対面へと腰掛けた。
「え?」
 誰かかっこいい人でもいたの?
 学生会館を囲うウッドデッキと植え込みの奥に夜生が立っていた。撮影会でもしているのかと思ったが、カメラマンはいなかった。瀟洒(しょうしゃ)な出で立ちの女性と話していた。
 あ、咲坂くんだ。カッコイイよね。あの二人、付き合ってるのかな? 
 友人には話していなかった。言う必要も感じられない。幼馴染という認識はもうなかった。幼馴染と表現するには大きな空白を作っている。
「どうなんだろうね。お似合いだけど。それより夏休み、どうする?」
 試験が終わったらこの友人とBBQをする。その後に実家へと帰るつもりでいた。
 友人の意識も夜生から夏休みの予定に切り替わる。誰を誘い、どこで開催するのか。予算はどれくらいで……



 今期は3コマ目を空けていた。好きなだけ講義を取り、それだけ予定取得単位数も増えるが、取りこぼせば総合成績が落ちてしまうリスクも上がる。この時間帯は他に興味のある講義はなかった。昼休みと合体して2時間半近く手持ち無沙汰である。簡単な課題なら終わらせられ、図書館や学生会館、食堂も空く。
 外は生憎の雨だった。晴れの日ならば外のベンチで風に当たるのも悪くなかった。3年からのキャンパスは2年間いたキャンパスと違って外で過ごせる造りに特化していた。だが雨ではどうにもならない。屋根の下で過ごすというのも悪くはないけれど。
 壱羽は図書館に寄った。雨宿りもできて時間も潰せる。芸術学部があるために、有名な映画監督の作画資料集や絵コンテなども置かれ、他学部に向けたコーナーにも陳列されている。
 これといって用はなかった。図書館を闊歩し、やがて本を取り、閲覧用席にすわる。離れた席からPCのキーボードを打つ軽快な音が聞こえ、遠くからは咳払いが聞こえた。窓辺の席では雨音が曇って聞こえる。
 隣に人影が座った。壱羽はとりたてて不快になったわけではないが、ふとした翳りが胸に去来した。他に席は空いている。よほどその席にこだわりがあるのだろうか。だとすれば不本意にせよ邪魔をしたのはこちら側であろう。退こうかと思った。
「壱羽」
 隣を見遣る。