この時代に"禁忌の恋"なんてものがあるだろうか。誰も傷付けない、誰も傷付かない、だからも誰にも傷付けないでほしい、そんな風潮の現代に。
 合意があれば、"恋"として成り立っているのであれば、横槍を入れることのほうが野暮だとばかりに各々お互い無責任になっていて、けれどそれが心地良かったり。


「ただいま」
 玄関を開けて、少しふざけてみたくなった。口にしてみて苦笑が浮かんでしまう。照れ隠しでもあるけれど。誰にも対して? おそらくは、捨て去ってしまいたかった良心というやつに。
 そんなことをしなくても、もう少し軽々と"ただいま"が言えたなら。いやいや、十分だ。これ以上何を望むのだろう。
「……おかえりなさい」
 躊躇いがちに返答があった。胸に染み入って、何か芽生えてきそうな、そんな感動がある。でもおそらくは、習慣というやつで。人は、或いはぼくという人間は、飽きもせずにいられるだろうか。毎日を丁寧に暮らせるだろうか。
 彼女が玄関の奥からやって来る。夕食の出汁の匂いが家中に漂っていた。
 この人はぼくの何? 誰なのだろう。好きだけれど一緒にはいられない人。おかしな話だ。好きならば一緒にいるものだなんて、誰が決めたのだろう。そんな例は掃いて捨てるほどあるというのに。
「あの人は出張?」
 3人分のケーキが入った紙箱を手渡して、少し挑発的だ。ぼくのチーズケーキと、彼女のショートケーキ。"あの人"へのモンブラン。この人の匙加減で、ぼくは友達にも、ご近所さんにも変わる。破滅がお望みなら、カレシでも構わないけれど。
「うん。1週間くらいは帰ってこられないみたい」
 洗いざらしの服にエプロン姿が無防備だった。普段、この人は"奥さん"をやっている。
「そうなんだ。じゃあ、お邪魔するよ」
 スリッパが出されていて、上がり(かまち)を跨ぐ。ぼくは招かれた客。少なくとも彼女には。
 リビングに通されて、いい匂いがさらに強くなっていく。お腹が減った。恋しくなってしまう、この人の味。"この人の味" って、まぁ、色々な意味で。
 4人掛けの席に促されて、ぼくは"あの人"の隣、彼女の対面。広く使う必要はない。気持ちは2人掛け。だって他には要らないのだから。
 ぼくには贅沢すぎる手料理が並び終わり、まずは熱い味噌汁を啜る。近況を語り合って、対面の彼女が笑っている。けれどインターホンが鳴り響くまでのこと。モニターには"あの人"が映っていて、予定が変更になったのだとか。彼女はぼくを見つめて焦るけれど、どうということはない。
「おかえりなさい、あなた」
 青褪めている彼女がぼくの横をすり抜けていく。
「ただいま」
 習慣化されたそれにきっと意味なんてないんだろう。あんなふうに「ただいま」が言えたなら。
「おかえりなさい、お義兄さん」

***
2024.6.1