"もうすぐ夏がはじまる匂い"というものがそろそろ俺の中にも習慣づいてきていて、どうしてか焦らされた気分になる。あの暑さが記憶に焼きついて、四季のなかで夏だけがやたらと長く感じられて、だからか1年で一番記憶に残ってしまう。夏休みがあるからだ。


 "もうすぐ夏がはじまる匂い" と同様に、晩春あるいは初夏の雨の降りはじめる匂いというのも分かるようになってきた。


 そろそろ雨が降る。
 けれど後出しかもしれない。すでに窓には一粒、ほんの小さな水滴がついている。
 徐々に雨脚が強くなって、目の前で花が開くようだった。


 窓の外には後ろ姿が佇んでいた。セミロングの黒髪の女子。華奢な体躯に水玉模様の傘が重そうで、けれどよく似合っているようにも思える。


 彼女が何を見ていたか知っている。その視線の先にいるのは俺たちの陽気なクラスメイトだ。昨日カノジョができたのだとさっきまで騒いでいた。てっきり彼女と付き合うものだと思っていた。俺とは貞操観念が違うのだろうな。あれだけ距離を詰めて、あれだけ笑顔を向けて、些細なことで話しかけて、あんな態度なら俺は勘違いする。俺だけか? 彼女は?

 酷いやつだ。彼女を弄んでいる。俺にはそう見える。
 けれど彼女にはそうではないのだろうか? あれが今どきの男女の普通の距離感なのか? 


 窓の向こうの彼女が振り向こうとした。俺の視線に気付いたのか。咄嗟に顔を背けた。ばつが悪くなって、もう帰ることにした。教室を出て、下駄箱へ。そして傘立てを探る。


 やられた。


 俺のビニール傘がない。今やビニール傘なんて持ってきたほうが悪い。自己責任で、何故か世間的に赦されている窃盗だ。妹からもらったシールで目印だってつけていたというのに。

 まだそう気になるほどの雨ではない。カバンを頭に乗せて玄関を出る。
「―くん?」
 赤地に白抜きの傘が振り返る。目が合って、思わず逸らしてしまった。
「傘、忘れたの?」
 正確には盗られた。けれど彼女に愚痴っぽいことを言いたくない。
「う、うん。まぁ、な……」
 彼女は肩から掛けたスクールバッグを漁る。
「折り畳み傘あるから貸そうか?」
 小さな手には水色のチェック模様。この天気のなかでは、彼女の持ち物だけが色付いて見える。
「女の子っぽいし、嫌かな」
 苦笑いしながら彼女は手を引っ込めた。取り繕った笑みに恥ずかしさが滲んでいる。
「それとも相合い傘する? なんて―」
「うん」
 隙を見せたあんたが悪いよ。俺は、屈んで傘のなかに入った。

***
2024.5.21
勘違い野郎乙