僕は最初、加那芽兄様が戻ってきたのかと思った。

「あ、兄様。お帰りなさ…」

「…お前、そこで何をやってる?」

えっ?

それは、加那芽兄様の声ではなかった。

そもそも加那芽兄様は、僕を「お前」とは呼ばない。

この屋敷で、僕をそう呼ぶ人物と言えば…。

「い、伊玖矢…様」

つい「伊玖矢兄様」と呼びそうになって、何とか踏み留まった。

また怒られるところだった。

いや、既に手遅れのような気がする。

伊玖矢兄様の睨むような視線が、それを如実に訴えている。

「え、えぇと…い、伊玖矢様も、何か本を…」

借りに来たんですか、と聞こうと思ったが。

「違う。お前がこそこそ歩いてるから、後をつけてきたんだ」

えっ、僕こそこそ歩いてました?

堂々と歩いてたつもりなのに。

「あの、僕…」

ともあれ、何か誤解されているようなので弁解しようと思ったが。

伊玖矢兄様はつかつかとこちらに歩み寄り、『新装版 ルティス帝国英雄伝』を持った僕の手を、思いっきり捻り上げた。

「いっ…!」

あまりに唐突な不意討ちに、僕は加那芽兄様の本を床に落っことした。

しかし、伊玖矢兄様はお構いなしだった。

「こんな時間に何処に行くのかと思ったら…まさかこそ泥の真似事をしていたとはな」

「えっ…!?」

何だか、物凄く変な誤解をされているような気がする。

「ちょ…ちょっと待ってください。僕は、何も…」

「認めないつもりか?この期に及んで…」

弁解するつもりが、余計伊玖矢兄様を怒らせてしまっている。

でも、本当に違うのだ。

「僕はただ、加那芽兄様の本を借りようと思って…」

「本だと?その本、新品だろうが。新品の本を人に貸す奴が何処にいる?」

そ、それはまぁ、仰る通りなんですけど。

でも加那芽兄様は、いつもこうなのだ。

新品だろうが自分が未読だろうが関係なく、僕の興味がある本なら、いつでも貸してくれるんです。

「その、加那芽兄様はいつも…」

今に始まったことじゃなくて、いつも好きな時に貸してくれるんです、と説明しようとしたのに。

ますます疑いを強めただけであるらしく、伊玖矢兄様は、掴み上げた僕の手首に、更に力を入れた。

「っ…!」

痛みに顔をしかめたが、伊玖矢兄様は手を離してくれない。

「さすがは売女の子だな…!手癖の悪さだけは一級品か」

「い、いたっ…。は、離してください…」

「この家から出ていけ。無悪家の恥晒しが…!」

捻られた手の痛みと、盗人扱いされた屈辱感のあまり。

思わず、涙が滲みかけたところに。




「…誰が恥晒しだって?」

…え?