(真壁翔side)
苦学生だった俺が大学の資金を作る為、手っ取り早く金を手にする事が出来るバイト、それがホストだった。
大学を出たら足を洗うつもりで、なんとなく始めたバイトだったが、簡単に1日数十万円を稼ぎ出せるようになって来た頃、気付けば大学を辞め、ホストの世界にどっぷり浸かってしまっていた。
世の中の酸いも甘いも知ってしまった俺は、女という生き物に嫌気がさして、男という俺自身に落胆していた頃だった。
佐野由亜に会ったのは…。
その頃まだ学生だった由亜は、俺が住んでいた街の、最寄り駅の近くのコンビニでバイトをしていた。
時刻は決まって18時から22時。
この時間に電車に乗って働きに出ていた俺は、いつもそこでタバコを買って出勤するのが日課だった。
俺は彼女にとって、ただのコンビニの常連客だったに過ぎない。
そんな話しをしたらきっと彼女は驚くだろう…。
彼女は俺にとって、色褪せた日常の風景の中に、独り儚げに咲く花のような存在だった。
初めて彼女を認識したのはいつだっただろうか…。
俺がコンビニで傘を忘れた日の事だ。
その日は朝から雨でジメジメとした嫌な天気だった。
いつものようにコンビニに入って、タバコとミネラルウォーターを買う為レジに並んだ。会計が終わるタイミングでスマホが振え、電話しながら外に出た。
店からの緊急要請で、出来るだけ早く来て欲しいと言われたからか、雨が止んでいたせいもあり傘立てに傘を忘れてしまった。
「…すいません!…傘、忘れていませんか?」
駅の構内に入ろうとした手前で、呼び止められて振り返ると、俺の傘を持って、はぁはぁと息を切らして走って来た由亜が立っていた。
その時の印象は未だに忘れない。
すれた大人の世界に生きていた俺は、
『間に合って良かったー。』と、屈託なく笑う化粧っ気の無い、飾らない彼女の笑顔が眩しくて、誰よりも輝いて見えた。
その事があってから、毎晩通うコンビニの風景が少し違って見えるようになった。俺にとってはホッと出来るひと時の、オアシスのような場所になる。
毎日同じ時間に通っていれば、彼女も俺のタバコの銘柄を覚えてくれ、一言二言会話を交わすようになった。
『今日は熱いですね。』『毎日お仕事、お疲れ様です。』『体調は大丈夫ですか?』
彼女にとっては当たり前の、業務の一つなのかもしれないが、俺にとっては大切な普通の世界との唯一の繋がりだと思う程だった。
そんな彼女との小さな交流は、彼女が突然コンビニを辞めてしまうまで続けられた。
たがら…コンビ二で彼女に会えなくなってから、俺はぽかんと心に穴が空いたような、胸が締め付けられるような焦燥感に襲われた。
そして、俺はタバコを辞めた。
だから5年以上経った今、彼女が突然俺の目の前に現れて内心とても驚いた。
大人になった彼女は、あの頃よりも綺麗で愛らしい女性になっていた。
打てば響く鉄のように憎まれ口を叩くのも、反抗的な眼差しも、本来の彼女を垣間見れた気がして嬉しかった。
だけど、昔より表情の薄い…何か影のある伏目がちな感じがとても気になった。
何のためにこんな場所に来たんだろうと、綺麗な彼女の心が、このくすんだ世界に飲み込まれないように、出来れば俺がこの手で守りたいと思うようになっていった。
会うたびに、いろいろな顔を見せてくれる由亜とのひと時は、俺の需要強壮の栄養ドリンクのような存在になる。
好きだと認識したのはいつだろうか…。
ああ…そうだ。
エレベーターボーイの純と仲良く話している姿を見た時、嫉妬のようなドス黒い気持ちが芽生えたんだ。
純と話している時の由亜の、屈託なく笑う笑顔は昔のままで、その頭になんの躊躇なく触れる純に嫉妬した。
俺にもその笑顔を見せて欲しいと思った時、俺は完全に由亜に落ちていると感じた。
もっと彼女に近付きたいと思っているのに、近付けば近付くほど、警戒心を露わにしてくる彼女が、俺を見る目が他と明らかに違うのを感じた。
言うならば威嚇する野良猫のように、一歩近付けば一歩離れてしまうような、縮まらない距離がもどかしく感じられた。
だけど、下手に触れたら途端に消えてしまいそうで、怖くてそれ以上近付く事が出来なくなった。
それぐらい俺にとって、大切な存在になっていた。
だから…
ホストクラブで彼女を見つけた時、雷に撃たれたような衝撃を覚えた。
不安感、焦燥感、苛立ち焦り、いろんな感情が一気に押し寄せて、俺の頭はショートした。
咄嗟に彼女をその場から遠ざけ、怒りとも似た感情で強引に連れ出し咎めた時、涙する彼女を見てハッと我に戻った。
溢れ出す庇護力、正義感、嫉妬、独占欲…今まで押さえ込んでいた、気持ちを制御する事が出来なくなった。
言葉にしてしまってからは、愛しさで頭が一杯になる。
そして今…
泣き疲れて俺の腕の中で眠ってしまった由亜を、守りたいと強く思う。
このまま離れたくない、離したくないと思った時、気付けば自分の家に連れ帰ってしまっていた。
自分のベッドに寝かし、その無垢な寝顔を見て実感する。俺は彼女を誰よりも深く愛していると…。
誰も入れた事の無い俺だけの要塞に彼女がいる。
そんな優越感に浸りながら、そのあどけない寝顔を堪能する。
これは保護なのか、はたまた拉致なのか…。
優越感と罪悪感で気持ちが行ったり来たりする。
彼女が目を覚ました時…なんて言われるだろうか。
心配しながらもとりあえず、シャワーを浴びて心を落ち着かせる。
ベッドに戻り彼女の存在を確かめると、傍らに置いた彼女の鞄の中で、スマホが鳴っている事に気付く。
誰かが心配しているのではと、鞄を開けてスマホを見れば『京ちゃん』の文字…
俺は途端に罪の意識に苛まれる。
まずは京香と向き合って、話し合わなければならないと、由亜の気持ちを汲んでスマホをタップする。
『もしもし、由亜?どこに居るの?終電乗れなかったの?』
京香の声が聞こえてくる。
「こんばんは、真壁と申します。
私、『colors』のオーナーをしている者でして、由亜さんですが少し体調を崩されまして、今、寝かしております。
夜も遅いですし、これから起こすのも忍びない為、今夜はこちらで預からせて頂きますでご安心下さい。」
出来るだけ丁寧に説明する。
『…もしかして…翔魔?』
明らかに動揺した京香の声が聞こえてきた。
「はい、そうです。ご無沙汰しております。事情は彼女から少し伺いました。
体調を崩されているとお聞きしました。
私のせいであなたの人生を台無しにしたのなら、申し訳ない事をしたと、深くお詫びします。」
俺は嘘偽り無く誠意を持って謝罪を述べる。
『貴方に…謝って欲しいと…思った事は一度も、ありません…。』
声を震わせながら、京香がそう言ってくる。
「いえ、貴女の心を壊してしまった事は、私の責任でもあります。時間を頂けるならば是非、一度どこかでお会いして、ちゃんと謝罪させて下さい。」
『私は自分が立ち直る為に、貴方を悪者に仕立上げて利用したの。由亜はそんな私の忠実なしもべよ。貴方が由亜を大事に思えば思うほど、私達の復讐は成し遂げられるの。』
ふふふっと不気味に笑い、感情の分からない声で京香はそう言う。
俺は拳を握り締め、どんな形にせよ俺の存在のせいで、醜く曲がってしまった京香の心と、それに従い思い悩む、由亜の純粋な忠誠心を救いたいと強く思う。
とりあえず、後日会う事を約束して電話を切る。
全ては動き出した。
彼女が目を覚ました時、本当の彼女の心を手に入れる為には、誠心誠意京香と向き合う事意外、今の俺に手段は無いと覚悟する。
朝が来て、由亜は遠くでスマホのアラームが鳴る音を聞く。
なんら変わらないいつもの朝だと思い、眠い頭を無理矢理上げて手探りでスマホを探す。
それよりも先に誰かがアラームを止めるから…
「…京ちゃん…ありがとう…。」
と、無意識にお礼を言う。
「悪いが由亜…俺だ。今、7時だけど仕事大丈夫か?」
「えっ…ええええっ!?」
その声に驚き、由亜はガバッとベッドから飛び起きて、辺りをキョロキョロと見渡す。
ここは何処!?
私は何故ここにいるの⁉︎
頭を抱えてしばらくパニック状態だ。
「ここは俺の家だ。昨夜、泣き疲れて寝てしまったから、起こすのも忍びなくて連れ帰ったんだ。」
落ち着いたトーンの声で話す真壁を、由亜は凝視して少し心を落ち着けたかのように見えるが…
「それは…大変なご迷惑を…おかけしました。」
ベットの上でちょこんと正座して、急いで乱れた髪を手櫛で整え、ペコリと頭を下げて詫びてくる。
そんな仕草も可愛いいと、真壁は目を細める。
「いや、泣かせたのは俺だ。俺のせいで由亜と京香の人生を狂わせた。申し訳ない事をしたと思っている。
だから、俺の人生をかけて償わせてくれないだろうか。」
深く頭を下げてそう言う真壁を見つめて、由亜はあたふたする。
「あの…私…思ったんですけど、よくよく考えると…
翔さんはただ…誠実に、仕事をしてただけで…悪くないと思います…。」
「由亜…お前の信念をここまで来て簡単に覆す(くつがえす)のか?」
急接近した真壁が由亜の頬を両手で押さえ、強制的に目を合わせられる。
嘘偽りない真剣な眼差しは、この一夜の間に何を変えたのかとお互い見つめ合う。
「この仕事にはこういうトラブルは付きものなんだ。小なり大なり他人の心をある意味支配するんだから、割り切ってその場限りと付き合える人の方が少ない筈だ。
俺はお前に会ってそう思うようになった。だから、京香には誠実に向き合いたいし、償いたいと思っている。」
「あっ……。京ちゃん!」
パッと由亜の頭に京香顔が浮かび上がる。昨日きっと心配して電話をくれた筈だと、慌てふためき真壁の手を振り払い、由亜は急いでスマホを開こうとする。
その手をギュッと真壁に握られ、えっ!?と思い、彼を見る。
「昨夜、由亜のスマホが鳴ったから、俺が出て由亜を預かると伝えてあるから大丈夫だ。」
「それ…本当に大丈夫ですか?
…なんだか人質を捉えた犯人みたいに聞こえますけど…。」
由亜は怪訝な顔で首を傾げるから、真壁は思わずフッと笑う。
「お前のその、突拍子のない発想力…気が抜けるんだが…。」
今度は由亜の頬にそっと触れて、そう言って真壁が笑う。
「その時に改めて詫びがしたいと話しをしたら、今度、京香と会う事になった。どんな形にしろ、自分の犯した罪と向き合って、これから誠心誠意償っていきたい。」
真壁の真剣な眼差しに、本気を感じ戸惑いながら
目を合わせて数秒見つめ合う。
「オーナーだけが悪者では無いと、今は思っています。だけど…京ちゃんの呪いが解けるなら、会って話し合う事は、大切な一歩だと思います。」
由亜がそう冷静な意見を言ってくるから、
「俺が今1番気掛かりなのは、由亜にかけられた京香の呪いが、解かれたのかどうかだ。俺を今でも仇だと少しでも思うか?」
真剣な眼差しの真壁を前にして、由亜は静かに首を横に振る。
「私は、京ちゃんの話だけを一方的に信じ、勝手に仇だと思わされていたんだと思います。
今までずっと…もしかしたら…いろんな事にも、知らないうちに京ちゃんに依存し過ぎていたんだと今、やっと目が覚めました。
オーナーを巻き込んでしまって…本当に申し訳ないと思います。」
そう話しながらも由亜の目には、どんどん涙が溜まっていくから、真壁は咄嗟に両手で由亜の頬を包みその涙をせき止める。
「もう、泣かなくていい。巻き込まれたのは由亜の方だ。これは、京香と俺の問題であって、由亜はこれっぽっちも関係ない。」
「私は…関係ない…?」
戸惑う由亜の揺れ動く瞳に、諭すように静かに語る。
「由亜は京香にある意味支配されていただけだ。
本当の心を取り戻したのなら、俺は何回でも何百回でも由亜に愛を注ぐ覚悟がある。
それほど俺は君が大事だ。愛しているんだと知っていて欲しい。」
「私が…大事…?どうして…私の事?」
由亜の思考回路はショート寸前だ。
「それは…これからおいおい伝えて行くつもりだ。
…とりあえず、時間大丈夫なのか?」
そっと微笑みを浮かべる真壁を、由亜は一瞬不思議そうな顔で見て、ハッと目を見開きスマホの時計に目を落とす。
「大変…もうこんな時間!
8時前には会社に行かないといけないんです。
あの…ここから家までどのくらいかかりますか?
着替えないと…。ああ、どうしよう…。」
突然我に帰って右往左往する由亜を見て、まるで小動物みたいだなと真壁は微笑む。
「落ち着け由亜、大丈夫だ。ここからの方が職場に近い。服を調達するから、由亜はとりあえずシャワーでも浴びて身支度を整えた方がいい。」
バタバタする由亜を捕まえ回れ右させて、風呂場へと押し入れる。
その後の真壁の行動は早かった。
マンションのコンシェルジュに連絡して、由亜の為に下着と服、化粧品一式、それに靴まで…。全てを電話一本で済ませ、由亜の為にと朝食を準備する。
「あ、あの…いろいろ…ありがとう、ございました。」
真壁が手配した服を一式身に付けた由亜が、居場所の無さそうな不安な顔で洗面所から顔を出す。
薄ピンク色のカッターシャツに、膝丈の紺の白いプリーツスカート、その上に紺色のニットカーディガンを羽織る。おまけにグレーのダッフルコートまで用意されていた。
オフィスカジュアルな服装を、朝早くこの短時間でよく揃えたなと、真壁も感心するほどだった。
「似合ってる。ちゃんと会社員に見えるから大丈夫だ。」
真壁はそう言って笑いながら、今度は由亜をダイニングテーブルへと連れて行く。
テーブルにはまるでホテルの朝食のような、食事が並んでいて由亜を驚かす。
「有り合わせしかなくて悪いが食べてくれ。」
「これ…全部…オーナーが!?」
目を見開いて由亜が驚く。
「一応、一人暮らしは長いからな。このくらいは何とかなる。それより時間無いぞ。早く食べろ。
飲み物はコーヒー、紅茶、ココアに…お茶もあるな。どれがいい。」
「えっと…紅茶でお願いします…。あっ、私が自分でやりますよ。オーナーもご飯食べて下さい。」
「俺は朝はコーヒーだけでいいから気にするな。由亜こそ急げ。」
急かされて仕方なく朝食を頂く。
こんなにちゃんとした朝ご飯は久しぶりで、ちょっと恐縮してしまう。
食べ終えたと同時に、歯ブラシを渡されて洗面所まで連れていかれる。
「あ、あの、後片付けは自分で…。」
言い切るよりも早く、
「いいから身支度。メガネは持ってるのか?コンタクトなのか?」
と、いろいろ聞かれ、
「もともと裸眼でも大丈夫なんです。メガネはただの伊達ですから…。」
と、素性を明かす。
「そうか…それでも眼鏡無しは危ないな。ちょっと下に聞いてみる。」
危ないってどういう事?と、由亜は首を傾げながら歯を磨く。
「あるみたいだから、行きに選んで行こう。」
何故だか真壁は嬉しそうに見えるから、また由亜は首を傾ける。
「準備出来たか?そろそろ行くぞ。」
当たり前のように、手に鍵を持った真壁が玄関で待っている。
「私は大丈夫です。電車かバスで行きますから、オーナーは仮眠をとった方が…。」
今日は金曜日、夜から繁華街は忙しくなる筈だ。それまでにちゃんと休んだ方がと由亜は思うのに、真壁は送る事を譲らない。
仕方なく由亜は玄関に用意された真新しいパンプスに足を通しながら、昨夜自分が履いていたロングブーツが目に入り、あっ、と思い出す。
バタバタして忘れていたけど…
昨夜のお客様とかどうなっだんだろう…私のせいでオーナーが途中で帰ってしまう羽目になって…きっとクラブの人々に多大なご迷惑を…。
そう思い出した途端、血の気がサーっと引いていく。
「由亜、急がないと遅刻する。」
それなのに、無情にも時は刻むのを辞めてくれない。
翔に手を引っ張られ、バタバタと廊下を早歩きしながら、
「すいません、オーナー!
昨日のお客様大丈夫でしたか⁉︎
オーナーご指名の大金をお支払いだった…あのお客様。私のせいでお仕事が…大丈夫でしたか?」
そう慌てて話す。
エレベーターに乗り込んで、
「仕事の事はお前が心配する必要はない。
今日の同伴で許しはもらってるし、俺が1人居ないぐらいでどうにかなるような店じゃない。あの手の客は権力が保持出来ればそれで満足するから大丈夫だ。」
泣きそうな顔の由亜にそう言って微笑み、頭をポンポンして気持ちを落ち着かせてくれた。
「オーナーが、同伴なんて…今までなかったですよね?いいんですか?」
「まぁ、プライベートの切り売りはしないが、迎えに行って、一緒に飯でも食べれば満足するだろ。」
と、真壁はなんでも無いというように言うけれど…。
オーナーになってから、同伴はしないと言うのが彼のウリだったから…それを覆してまで…
私のせいで、と由亜は思う。
「お前が、嫌だって言うんなら辞めるが?」
そんな由亜の心理を読み取ったのか、真壁がニヤッと不敵に笑うから、
「へっ?どう言う事ですか?」
由亜は意味が分からず怪訝な顔をする。
ハァーと、真壁は大きなため息を残念そうに吐く。
「お前は何も分かってない…。」
真壁はそう言って、不意に指と指を絡ませて恋人繋ぎをしてくるから、由亜の心臓がドキッと跳ねる。
「俺は本気だから、由亜も本気で俺の事を考えろ。」
いいな。と念を推して来る。
由亜はドギマギしながらも、こくんと小さく頷く。
この人はホスト界のNo.1で、言わば恋愛のブロなのだ。恋愛なんて程遠い所にいた私が立ち向かえる筈がない…。
それに…京ちゃんの好きな人だったのだから、今だってきっと未練はあるはず…。
由亜はそう思うと、なかなか一歩を踏み出す勇気が出ない。
真壁の車で会社までは10分もかからなかった。
「近い…ですね。
ありがとうございました。また、近いうちにブーツを取りに伺います。メガネは今夜職場でお返しします。あと…。」
由亜が洋服は洗って返すと言おうと思うと、真壁に遮られる。
「服も靴もついでにメガネも全部お前のだから、返されても困る。」
「えっ、買取なんですか⁉︎お、お幾らでしたか?」
慌ててお財布を出そうとすると手を握られて、
「男には貢がれておくもんだ。今後一切、俺の前で財布出すなよ。怒るぞ。」
目を細めて睨まれるから、
「すいません…あ、ありがとう、ございます。」
と、素直にお礼を口にする。
宜しいと、言うように頭をポンポンされて、わざわざ外に出て助手席のドアを開けに来てくれる。
それだけでドキドキしてしまうのは、恋愛初心者だからだろうか…差し出された手に掴まりながら車を降りる。
「ありがとうございます。…行って来ます。」
「行ってらっしゃい。
…帰りは迎えに来れないけど、気を付けて来いよ。」
真壁はそう言って運転席に戻って帰って行った。
いつもより10分早く会社に着く事が出来た由亜は、順調に仕事をこなし定時で終える事が出来た。
夕方『colors』までの道を歩いて向かう時、たまたま同伴をしている真壁を見かける。
昨夜の客の恍惚な笑顔と、真壁の愛想笑い…。
その途端、胸がズキズキと痛み出す。
こうなったのは私のせいなのだから仕方ないのだと、自分に言い聞かせ、『colors』までの道をひた走る。
事務室まで辿り着き息を整えながら、PCを立ち上げ仕事に入るが、真壁と腕を組んでいた女性の嬉しそうな顔が、頭からなかなか離れない。
どうしよう…私、オーナーの事が好きなのかも…。
仕事だと分かっているのに、客にまで嫉妬してしまうなんて…。
そう自覚してしまうと、胸のドキドキが止まらなくなる。
そんな気持ちを抑え込みながら、必死で仕事をしていると、いつものように真壁が事務室にやって来る。
「…そっちの服に着替えて来たのか…。目のやり場に困るな…。」
独り言のようにポツリとそう言うから、由亜は思わず赤面する。
昨日お店に行った時に着ていた、黒のショートパンツに着替えて来たから、それを指摘されているのだ。
「足を冷やすな。」
と、膝掛けをどこかから持って来て掛けてくれる。
「あ、ありがとう、ございます。」
「帰りは俺が送って行くから、待ってろよ。」
「えっ?大丈夫ですよ、1人で帰れます。」
由亜は自分の気持ちを自覚してしまったせいが、さっきから上手く真壁を見れないでいる。
鼓動が高鳴りっぱなしだ。
「由亜?」
目線が合わない事が不満だったのか真壁は、隣の椅子に座ると同時に、由亜を椅子ごとクルッと動かし、容赦なく顔を覗いてくる。
「体調でも悪いのか?」
額に手を当てられた瞬間、真壁から女性物の香水の残り香を感じる。
嫌だ…他の誰かがこの人に触れたのだと思うと、嫌だと心が悲鳴をあげる。
どうしよう…こんなんじゃ…もう平気な顔して働けない。
「あの…すいません…気分が優れないので、今日は…。」
そう言った途端、膝掛けごとフワッと持ち上げられ、驚いて思わず真壁の首元に抱きついてしまう。
「ちょっ、ちょっとオーナー…下ろしてください。みんなに見られちゃう…。」
由亜はジタバタ抵抗するのに、真壁はびくともしない。
「気にするな、このまま送くらせてくれ。俺の仕事は終わったから大丈夫だ。」
そのまま駐車場まで連れて行かれ、強引に車に乗せられる。
「あの、オーナー、本当に、私1人で帰れますから…これ以上迷惑かけたくないんです。」
由亜が焦って真壁に訴える。
「オーナーって呼ぶな。今の俺は完全にプライベートだ。名前で呼べ。迷惑だとは1ミリも思って無いし、むしろ1人で帰した方が心配で仕事に支障をきたす。」
分かったか。と念を押されシートベルトをつけられる。
「怠かったら寝とけよ。」
助手席のシートを少し倒して気遣ってくれるから、それだけで泣きそうになってしまう。
「オーナーあの…。」
「違うな…俺の名前知ってるか?」
運転しながら、イジワルな顔で言って来る。
「…真壁さん…。」
「…そっちじゃない。」
名前呼びなんて無理…!
由亜はそう思うのに、こういう時の真壁は容赦無い事を知っている…
「…翔さん…。」
「…さんも要らないが、今日のところは許してやる。」
ポンポンと頭を撫ぜられて、由亜の心は崩壊寸前だ。
「夕飯は、何か食べたか?買って来ようか?」
「いえ…大丈夫です。」
そう言えば…今日は急に来た生理のせいで、バタバタしてお昼も食べ損なってしまった。
身体は正直だ。自分が女である事を忘れさせてはくれない。
「気持ちが悪いのか?」
心配そうに翔が、赤信号で由亜の顔を覗く。
「いえ…心配お掛けして、ごめんなさい。」
お腹が重くて怠いのは生理痛のせいだから、横になって時が過ぎるのを待つしかない。
「由亜、ちょっと待ってろ。」
翔は車をコンビニの駐車場に停めると、1人降り小走りにコンビニへと駆け込んで行く。
どうしたのだろうと見ていると、ビニール袋を片手に戻って来て由亜に渡して来るから、中を覗くと、温かいミルクティーと肉まんに…生理痛の痛み止めが入っていた。
「えっ…!?」
箱を見つめ固まる由亜を尻目に車は走り出す。
「分かるだろ普通…。
由亜は結構顔に出るし、半年見てれば周期ぐらい分かるようになる。」
「はい…⁉︎」
目を丸くして驚く由亜を一瞥して、
「こういう仕事をしてれば、嫌でも身に着くもんだ。悪いな…。」
この人プロだ…本物だ。
今更ながら実感して、きっと私が思ってる事なんて、手に取るように分かるんだと、由亜は身動き出来ないくらい固まる。
「…そんな引くなよ。傷付くだろ。」
そう言って赤信号の間に、ミルクティーのキャップを
わざわざ取って由亜に渡して来る。
「あっ…ありがとう、ございます。」
反射的にお礼を言って、ミルクティーを一口飲む。
美味しい…。
久しぶりに口にした飲み物のように、こくこくと一気に半分くらい飲んでしまった。
「薬も飲んどけ。」
そんな由亜に翔は愛しさが膨らんで、構い倒してしまいたくなる。
「薬で胃を痛めないように、肉まんも温かいうちに食べろ。」
「…い、いただきます。」
今日の由亜はやたらと素直だ。
こういう時は何か言いたい事を隠している時だ。と翔は思うが…。
由亜の顔色の悪さが気になって、聞き出す事を躊躇する。
「もう直ぐ到着するから。」
最寄りの駅前のコンビニを通り過ぎて住宅街に入って行く。
「なぁ、由亜、今から京香に会ったらダメだろうか?」
不意に翔がそう聞いてくるから、由亜はびっくりして目を丸くする。
「だ、駄目です。突然は、パニックになっちゃいますから。」
慌ててそう言う由亜を横目に、
「そうだよな…。」
と、翔はため息を一つ吐く。
「オーナーは…翔さんは…当時、京ちゃんの事を…どう、思ってたんですか?」
由亜はずっと気になっていた事を思い切って聞いてみる。
「それは…好きか嫌いかって事か?
悪いが俺は、客に対して恋愛感情を持った事は一度もない。俺自身、自分が薄情な人間だと思っているから、そう他人に気持ちが動く事はないんだ。だからこそ由亜は特別だ。」
「えっ…?」
「だから…お前は何も分かって無い。」
翔はアパートの前に車を停めてハザードランプを点滅させる。
「…京ちゃんはまだ…きっと…翔さんの事、憎い仇だと言いながらも、心の底では好きなんだと思うんです。」
「だからといって俺は何もしてやれる事はない。」
翔にとって大切なのは由亜の気持ちで、京香の事はあくまでも仕事の一貫に過ぎない。
「私も京ちゃんも、誰かを敵にしないとやり切れなかったんです。翔さんは…何も悪くないです。」
「いや、俺が悪いんだ。疑似恋愛を割り切れる人間はそういない。それを上手く駆け引きして、コントロールしてこそ、ホストの仕事だと思っている。
だけど、きっと京香に対してはそれが出来ていなかったんだ。」
翔は自分の不甲斐無さに落胆するように、ため息を吐く。
「京ちゃんが1番苦しかった頃、私何も出来なくて…誰よりも一緒に居たのに…止められなかったんです。だから、今度こそ力になりたいと思って、翔さんに近付いたんです。騙すような事をして、ごめんなさい。」
由亜が再び頭を下げて謝るから、
「何か理由があるとは思っていたから気にしなくていい。むしろ、俺はお前に会えたんだから、それで良かったと思っている。」
翔が優しく微笑み、愛おしそうに由亜の頬をサラッと撫ぜる。だから、否応無くドキンと由亜の心は弾む。
「なんで…私なんでしょうか?
翔さんにはもっと、大人な女性がお似合いだと思うのに…。」
未だに信じられない思いと困惑で、翔の態度に戸惑ってしまう。
「俺から見たら由亜の方が眩しくて、俺がお前に相応しく無いと思ってる。だが、この気持ちはもう抗えない。」
こんなにも明け透けに気持ちを伝えて来る翔に、由亜の心臓は今にもはち切れそうだ。
こんな人誰だって好きになってしまう。
自分の気持ちを伝えられたら、この胸の苦しさは無くなるのだろうか…だけど…。
「…京ちゃんが元気にならないと、私も先に進めないんです。今の私の1番の願いは、京ちゃんが元気になってくれる事だけです。」
今は京香の事が1番だと、自分に言い聞かせるように翔に伝える。
「由亜の気持ちは分かってるつもりだ。
だから、京香が立ち直る手助けを俺も一緒にさせてくれないか?」
運転席から覗くように由亜を見てくる翔の強い目線に抗うことなんて出来るわけがない。
「…分かりました。とりあえず、翔さんが京ちゃんに会う前に、私から話してみるのでそれまで待って下さい。」
そう言って車を降りる。
「ありがとう、ございました。」
由亜は手を振って送り出そうとするのに、翔は今夜も先に由亜が部屋に入れと促す。
仕方なく2階の部屋まで行って道路を見下ろすと、わざわざ外に出て来た翔が、ずっと見守ってくれていた。
手を振ると、振り返してから部屋に入れとジェスチャーして来るから、思わずクスッと微笑んでしまう。
そんな心配症な一面を垣間見せて、翔はやっと帰って行った。