冷酷社長が政略妻に注ぐ執愛は世界で一番重くて甘い


 香蓮の場合、藤山から縁談を申し込まれた際は断る選択肢すら与えられなかったのに、全く矛盾した話だ。

 黙り込んでいる香蓮の横を、お次は愛理が座る。

 「それに私、玲志さんのことすっかり好きになっちゃった」

 「え……?」

 「だから譲って。おねーちゃん」

 平然と笑顔で言い放つ愛理に、香蓮は反射的に首を横に振った。

 「それだけは絶対にできない。私にとって玲志さんは誰よりも大切なの。お腹の子も、玲志さんとの子なの。私たちから玲志さんを奪わないで……!」

 「あはははは!」

 香蓮の必死の訴えを、由梨枝の甲高い笑い声がぶち壊す。

 「あんたは本当に不憫ねー! あの日向玲志が、香蓮なんかを本気で愛するわけがないじゃない!」
 香蓮の前に、由梨枝がスマホを差し出す。

 画面には玲志と女性がホテルの一室の前で抱き合っている姿が映っていた。

 女性は嬉しそうに笑いながら、バスローブを着ている玲志に飛びついている。

 親密じゃないと言ったところで、誰も信じられないような密着した写真だ。

 「これは……?」

 「偶然泊ったラグジュアリーホテルで、玲志さんをお見かけしたのよ。午前一時頃だったかしら」

 由梨枝がいう〝午前一時〟というワードが、香蓮の心をざわつかせる。

 昨晩、玲志からメッセージがあったのが午前一時頃だった。

 それまでの時間はトラブルがあり、電話ができなかったと言っていた。

 この写真が本当だったら、玲志は香蓮にメッセージを送る直前までこの女性と一緒に過ごしたということになる。

 「元々、あんたと玲志さんはまったく釣り合っていない。愛理の方が可愛くて妻としてふさわしいに決まってるでしょう」

 「もーママったら~」

 香蓮がショックのあまり絶句していると、フンッと達夫の鼻で笑う声が聞こえてきた。

 「お前、どうせ無理やり孕まされたんだろ? 中絶料と浮気された慰謝料、ふんだくって愛理にその場を譲ってやれよ」

 血の繋がった父とは思えない心無い言葉に、香蓮の心は粉々に砕け散る。

 「そうすりゃ、お前も晴れて独り身だ。藤山さんもお前の容姿が相当気に入っているようだったから愛理の代わりに……」

 「やめて!!」

 香蓮はこれ以上心が壊れないように拒絶反応を起こし、耳をふさいで達夫の声を遮った。

 「ひどい。ひどいよ……もう誰も、信じない……!」

 香蓮は逃げるように部屋を飛び出す。

 彼女が玄関の扉の向こうに消えるまで、由梨枝と愛理の笑い声がけたたましく鳴り響いていた。

 (玲志さん、本当は……私のこと許せなかった?)

 香蓮は外に飛び出し、あてもなく夜道を彷徨い歩く。

 するとちらちらと雪が降ってきて、香蓮の記憶を上塗りするようにあたりを白く染めていった。

 香蓮を妻として大切にすると告げたあの日、そして彼女を好きだと言った日、初めて体を重ねた日……。

 それらが由梨枝が持っていた写真一枚で、薄れていく。

 「玲志さん私……」

 香蓮は言いかけるが、激しいめまいに襲われその場に倒れる。

(私……それでも、あなたが好きです)

 遠のいていく意識の中、香蓮は目の前に広がる真っ白な地面をシロツメ草の群衆と重ね合わせていた。




 「あなた、昨日からなんなんですか」

 玲志は出張先の神戸で異変を感じており、ついに行動に出た。

 ホテルの部屋を出てすぐの柱の裏にいる人物に、真っ向から話しかける。

 やせ細った中年男でキャップを目深にかぶっているせいか、顔は確認できない。

 男の手にはしっかりとスマホが握られており、画面はカメラモードになっていた。

 「どこかの探偵ですよね。企業からの依頼? それとも個人の依頼?」

 男は玲志の問いにだんまりを決め込む。

 玲志は一企業の社長というのもあり、過去に何度か企業にリサーチをかけられ探偵をつけられたことがあった。

 やはり何度体験しても、誰かからつけられるのはいい気がしない。

 「あまり下手なことしないほうがいい。このまま尾行を続けるというのなら、警察に行く。君は何者だ?」

 玲志の言葉に男は観念したのか、自ら事情を話し始めた。

 「私は探偵ではなく、別れさせ屋の者です」

 「別れさせ屋……?」

 「ご依頼人をお伝えすることはどうしてもできません。申し訳ありません……!」

 男は玲志にそう告げると、あっという間にその場から消えてしまった。

 別れさせ屋という聞き覚えのない単語に、玲志はネットで検索してみる。そこに書いてあったのは交際するふたりを第三者が意図的に分かれるように工作する事業のようだった。

 (どういうことだ? 俺と香蓮を別れさせたいやつがいるというのか?)

 玲志はふと、昨晩起きた不可解な出来事を思い出す。

 会食中に通りすがりの女性にワインをこぼされ、部屋に戻って着替えている最中、これまた知らない女が部屋にやって来て急に抱き着いてきたのだ。

 抱き着いてきた女性は自分の彼氏と間違えてしまったとすぐに帰っていったが、あれもやけに違和感があった。

 別れさせ屋の工作のひとつなのだろうか。

 「なんだか気味が悪いな。香蓮はどうしてるだろう」

 急に彼女のことが心配になった玲志は、メッセージで様子を伺う。

 しかしいつまでたっても既読にならず、不安が募っていく。

 (そういえば昨日、香蓮は俺に大事な話があると言っていた)




 一通り仕事が片付き、玲志は家にいるはずの香蓮に電話をかけてみる。

 しかし彼女には繋がらず、時間だけが刻一刻と過ぎていった。

 (香蓮の身に何もなければいいんだが……)

 先程の別れさせ屋の一件で、玲志に漠然とした不安がのしかかる。

 ただの考えすぎだと思いながら胸騒ぎが収まらない玲志は、ついに無理を言って出張を中断した。

 東京にいる香蓮に会いたい一心だった。

 (何かすごく嫌な予感がする。香蓮、元気でいてくれ)



 東京駅に到着し、大急ぎで自宅のマンションに戻る。この時すでに、夜の十九時を回っていた。

 「香蓮、ただいま。いるのかー?」

 カードキーで玄関の扉を開けてすぐ、玲志は目を疑った。

 女性ものの靴が二足、と男性者の靴が目の前に置いてあったからだ。

 結婚式を挙げてから一度も人を呼んだことがなかったので心底驚く。

 「誰だ……?」

 「玲志さーん!」



 奥の部屋から聞こえてくる甲高い声に、玲志は聞き覚えがあった。

 廊下を走って来たのは、頬を上気させた愛理だ。

 「愛理さん……どうしてここに?」

 玲志は戸惑いつつ、厳しい表情で愛理を見る。

 香蓮を傷つける者は、たとえ彼女の家族だろうが優しくはできない。

 「お姉ちゃんに話があってきたんです。父も母も奥にいますよ」

 胸騒ぎがさらに激しくなる。

 玲志は飛鳥馬家との接点を無くしたい一心で動いていたし、香蓮も会いたくないと言っていたのに、どうしてこんなことになったのか理解できない。

 「いったい、どういうおつもりですか」

 玲志はリビングに入って早々達夫と由梨枝に問いただすと、彼らは楽観的に笑った。

 「おやおや玲志君、随分早いご帰宅だなぁ」

 「少しくつろがせていただきましたわ」

 テーブルには食べ物のゴミや、コップ、皿が散乱している。

 我が者顔で他人の自宅をこんなに汚すことができる神経を、玲志は疑った。

 「あれ? 香蓮は……?」

 当たり前のように彼女がいると思ったのに、見当たらない。辺りを見渡す玲志に、由梨枝が笑顔で近づいていく。

 「香蓮は出ていきましたわ」

 「何?」

 由梨枝の言葉に、彼は顔をしかめる。

 「あのお腹の子、玲志さんの子じゃないかもしれないんですって」

 「お腹の子……?」

 「香蓮、妊娠しているでしょう? 玲志さん以外にも関係を持っている人がいると、涙ながらに私に相談したんですわ。罪悪感に苛まれて家を飛び出してしまったんです」

 芝居がかった由梨枝を前に、玲志は混乱を極め黙り込む。

 (香蓮が妊娠とは? 何も聞いていないぞ)

 しかし玲志はすぐにピンときた。香蓮が大切な話がしたいと言っていたのは、このことに関してなのかもしれない。

 (あんなに愛してくれている彼女が他の男と浮気なんて信じられない。それに朝から晩まで一緒にいて、毎晩のように抱いていた)

 いつ自分との子を妊娠していてもおかしくない状況だ。

 (客観的にどう考えても、自分との子だろう)

 「そんな香蓮に代わって、妻に妹の愛理はいかがでしょうか?」

 由梨枝の隣にやってきた愛理は恥ずかしそうに体をもじもじとさせ、玲志を上目遣いで見た。

 「この子は香蓮のような非道な行動は致しません。可愛く愛嬌があって、何より玲さんを誰よりも好いて――……」

 「香蓮を散々こき下ろすに飽き足らず、よくそんなひどい提案ができますね」

 玲志の厳しい表情に、愛理と由梨枝が後ずさりする。

 「私が愛理さんを娶るなんて、この先一生あり得ません」

 玲志の辛辣な言葉に、達夫がバンッとテーブルを叩きその場に立ち上がる。

 「その言い方はあんまりじゃないか! 玲志君!」

 「あんたの安易な考えは見え見えですよ。達夫さん」

 玲志は、達夫を見据える。その瞳は一寸の光も宿っておらず、どこまでも冷え切っていた。

 「どうにかして俺から金を搾り取り、他からも金を巻き上げようとお思いなんでしょうが、諦めてください。あなたはもう終わったんだ」