藤山に上手く言葉を返せず、香蓮は深刻な表情で黙り込む。
(あれもこれも全部、お父さんが招いた種……私は何度も忠告した)
このまま父親を見捨てたいという気持ちと、血の繋がっている娘としてこのまま実家が崩壊していく様を静観していていいものかと葛藤する。
すると突然、藤山は香蓮に距離をさらに詰め、彼女の肩に腕を回す。
「ふ、藤山さま、少し離れていただけると」
「辛気臭い顔しないでよ~、綺麗なお顔が台無しだよ。飛鳥馬家は僕が助けるから安心してよ」
気安く体を触られ全身の毛が逆立つが、昔からの知り合いかつ、これから実家を救ってくれる男を無下にできない。
何も言わず固まっていると、藤山は口角を上げ香蓮を覗き込んだ。
「ねー、日向くん冷たくない? 新婚さんなのに優しくされてる? 僕が内緒で可愛がってあげようか」
「本当にやめてください! 玲志さんはちゃんと大切にしてくれています……!」
今まで我慢していた香蓮の限界が来てしまい、はっきりと藤山に物申す。
「私が好きなのは、玲志さんただひとりです。他の人を見ようとも思っていません」
ぴしゃりと言いのけた香蓮に藤山は圧倒される。
すると彼女の隣に冷ややかな表情をした玲志がやってきて、ふたりを無理やり引き離す。
「藤山さま、いったいどういうおつもりですか?」
「玲志さん……」
玲志は香蓮の腰を抱いて引き寄せると、藤山を睨みつける。
「今進んでいるビルの売買の件。すべて白紙に戻してもいいですが、いかがしましょう」
「いや、今のはただの冗談だよ。ちょっとした戯れ……見逃してくれないか、日向君……!」
怒りに満ちた玲志を見て顔を真っ青にした藤山は、ぺこぺこと何度も頭を下げる。
「肝に免じておいてください。香蓮になにかしたら絶対に許しませんから」
玲志は冷めた表情でそう告げると、香蓮の腰を抱きその場をあとにする。
香蓮は玲志の醸し出す険悪な雰囲気に圧倒されながら一緒に会場を出て、人気のない別のホールの前にやってくる。
「香蓮、すまない。俺がひとりにしたばっかりに」
「いえ。まさか藤山さまがいるとは思っていなくて……」
玲志に救ってもらった安心感と、飛鳥馬家の現状を聞いて不安な気持ちが入り乱れる。
すると暗い表情をする香蓮の頭を、玲志はポンと撫でた。
「香蓮が藤山にはっきり言ってくれて嬉しかった。俺のことを想ってくれていると十分伝わってきた」
思ってもみなかった玲志の言葉に、香蓮の頬がじわりと熱くなる。
「それに人に意見する香蓮を見たのも初めてだった。強くなったんだな」
「玲志さん……」
(たしかに玲志さんの言う通り、今までだったら圧倒されて何も言えていなかったと思う)
だが玲志を悪く言われたり、玲志との仲を邪魔する者に関しては耐えられない。
それは香蓮にとって玲志がかげがえのない存在だから。
「玲志さんが大切にしてくれるから、私も自信が少しだけ持てるようになったんだと思います。ありがとうございます……」
照れながら言葉を紡ぐ香蓮を愛おし気に見つめ玲志は、彼女を優しく抱きしめる。
「もっと自信をもっていい。君を蔑む者はもういないんだから」
「はい……」
玲志が指す“蔑む者”とは飛鳥馬家のことだろう。
玲志は香蓮と飛鳥馬家の接点を持たなくていいと暗に言っているのだ。
(私は変わったの。もう飛鳥馬家の香蓮じゃない。どれだけお父さんたちにひどいことをされたか思い出そう……)
玲志が飛鳥馬家のことをどこまで知っているか分からないが、自分からは何も言うまいと香蓮は思った。
あれから一週間。
香蓮にとって大きな出来事があった。それは玲志の個人秘書のケガが完治し、現場復帰を果たしたのだ。
香蓮がそのまま居座る選択もできたが、もともとの個人秘書の面子を立てるためと、体調不良が続いていたのを理由に元の生活に戻る方向になったのだ。
「香蓮。何かあったらいつでも連絡してくれ。夜にでも俺から電話するから」
「分かりました、玲志さん。お電話楽しみにしていますね」
今日は玲志が結婚して初めて、二泊三日の地方出張で家を空ける。
ふたりは玄関で会話を交わし、当然のように甘いキスをした。
どちらとも名残惜しくしばし見つめあっていたが、玲志から思い切って彼女に背を向ける。
「じゃ、行ってくる」
「いってらっしゃいませ。玲志さん」
ばたんと扉が閉まり彼の姿が見えなくなると、香蓮は悲しい表情でくるりと踵を返す。
「寂しい。もう玲志さんに会いたいわ……」
職場でも家でも一緒だったので、玲志と丸二日離れて過ごすというのは香蓮にとって果てしなく感じる。
しかし子供のように駄々をこねるわけにはいかないので、なんとか見送るまで明るく振舞ったのだ。
SKMコーポレーションの手伝いを機に習い事も辞めてしまった香蓮は、玲志に家事をさせてほしいと頼んでいた。
元々飛鳥馬家で家事代行サービスを運営していたというのもあり、彼女も家事や料理が得意なのだ。
玲志も香蓮の希望を尊重し、すでにハウスキーパーの利用を停止していた。
「なにこれ……すごく気持ち悪い……」
玲志が家を出てしばらく水場を中心に掃除をしていた香蓮だったが、ふいに激しい吐き気に襲われる。
急いでトイレにかけこみ、気分が落ち着くまでその場にしゃがみ込む。
最近めまいが頻発したり、体が重かったりしていたが嘔吐するのは初めてでさらに不安が大きくなる。
現場復帰した個人秘書の引継ぎがあり、彼女はまだ病院を受診していなかった。
風邪のような喉の痛みや鼻水があるわけでもなく、起きている症状がなんの病気なのかまったく見当がつかない。
一旦、気分が落ち着いた香蓮はスマホで自分の症状を調べてみる。
「……え? 妊娠初期症状?」
検索結果で出てきた文言を見て、香蓮は妙に納得した。
玲志と毎晩のように愛し合っているのだから出来たとしても不思議ではない。
それに多忙で気づかなかったが生理も一週間以上遅れているのだ。
香蓮は掃除を中断し、しばらく吐き気が収まるまで体を休めてから、産婦人科を受診した。
当日予約だったので、待ち時間がとてつもなく長かったが夕方過ぎには診察をしてもらえた。
「はい。しっかり赤ちゃんの心臓も見えますね。七週に入ったところでしょうか」
香蓮の子宮を映し出したモニターを見ながら女医が告げ、香蓮は診察台の上で満面の笑みを浮かべる。
(赤ちゃんが将来できたらいいと思っていたけど、こんなにも早くきてくれるなんて……!)
「ただ、まだ今の時期はお母さんの体もお腹の子も不安定な時期にあたるので、無理はしないでくださいね。激しい運動や強いストレスがかかることからは離れてください」
「分かりました」
女医の忠告に香蓮は気を引き締める。
病院でお会計を済ませてすぐ、玲志にメッセージで報告しようとスマホを手に取ったが思い直した。
(メッセージよりも、自分の口から伝えたい)
玲志が夜に電話をかけてくれるのを思い出し、香蓮はスマホをバッグにしまう。
それから香蓮は帰りの電車で、家族三人が幸せに生活する姿を頭の中で何度も何度も思い浮かべた。
今まであまりにも自分の不幸な生い立ちから、子供なんて考えられなかった。
しかしエコーに映っていた我が子の心臓が動く姿を見て、ちゃんと自分の体の中に生命が宿っていると実感できた。
(私ママになるんだ。この子を、ちゃんと産んであげたい)
偶然だったが、玲志の個人秘書が戻って来てくれたおかげで、香蓮は家で過ごすことができる。
医師の言う通り無茶はしないよう、家事も無理はしちゃいけないと言い聞かせた。
浮足立った気分で夕食と入浴を済ませ、あとは眠るだけ。
その間、香蓮が玲志に送ったメッセージの返信はない。
(きっと移動や会食などでバタバタしているんだわ。落ち着いた頃に電話がかかってくるでしょう)
気分がすぐれないのもあって、香蓮はベッドに寝ころびながら玲志の電話を待つことにした。
「んっ……」
ふと香蓮が目を覚ますと、カーテンの隙間から太陽の光が差していた。
玲志の電話を待ちながら眠ってしまったらしい。焦った香蓮は、急いで枕もとに置いていたスマホに手を伸ばす。
「あれ……。電話、きてない」
昨晩、玲志から電話がくるものだと思っていた香蓮は拍子抜けしてしまう。
確認すると夜中にメッセージが一通届いていた。
【ごめん、トラブルがあって電話できなかった。体調は大丈夫か?】
玲志がメッセージを送って来たのが夜中の二時近く。こんなに遅い時間までトラブルとはいったい何があったのだろう。
香蓮は気になったが彼が体調を気遣ってくれたので、その件にだけ返事をする。
(この流れで赤ちゃんのことを言うか迷うな。今日の夜は電話できるかしら……)
迷ったが、香蓮は今晩自分から電話をすると決めた。
【今日、玲志さんに大事な話があるので電話してもいいですか?】
香蓮はメッセージを送ると、やや遅れて【もちろん。今晩話そう】と連絡がきた。
出張先では忙しくなると玲志が言っていたのを思い出し、すでに出勤しているのだろう。
約束を取り付けた香蓮は安心し、身支度を始める。
昨日産婦人科の医師から、子供の心拍が確認できたので、区役所に母子手帳を受け取りに行くようにと助言されたのだ。
香蓮は気持ちを弾ませたまま、笑顔でパジャマを脱ぎ捨てた。
それから数時間後。無事に区役所で母子手帳を受け取った香蓮は、肩から下げていたバックに目をやる。
彼女の視線の先には、区役所で母子手帳と一緒に受け取った、マタニティマークと言われる妊婦と子供のイラストが描かれたキーホルダーが取付けられている。
これは公共交通機関で周囲が妊婦に対して配慮を示しやすくするものらしい。
お腹がまだペタンコの香蓮は妊婦だと気づかれにくいが、つわりと眩暈がとてもひどい。
移動中、万が一何かあったときのためにと、身に着けると決めたのだ。
(スーパーに寄って帰ろう。食べられるものを買いだめておかなくちゃ)