玲志(れいし)くんへ。


 いつも勉強を教えてくれてありがとう。

 いつも優しくしてくれてありがとう。

 ずっと言えなかったけど、玲志くんに恋しています。

 大好きです。

 誰よりも大好きです。

 玲志くんの気持ちを聞かせてくれるとうれしいです。


 香蓮(かれん)より。



 木枯らしが吹き荒れる秋の日。

 文京区にある葉山式場の一角にあるシロツメクサの群集が、無力になびいていた。

 雑草さながらの扱いを受ける花だが、何度人に踏まれても息絶えることなく、その気高い白を残したままそこにあり続けている。

 目の前にあるチャペルから高らかな祝福の鐘の音が響き渡り、さらにシロツメクサを揺らした。

 今日この時、永遠の愛を誓った彼女たちは、果たして一生涯を添い遂げることができるだろうか。

 あの頃と同じように、深い愛で心を通い合わせることはできるのか――。

 音が止み元通りの形に戻ったシロツメクサだったが、やってきた参列者たちに容赦なく踏みつけられた。




 「では、誓いのキスを」

 チャペルに響いた神父の声に、肩を震わせた香蓮は呼吸を止める。

 薄いベールの向こうにいる彼が一歩こちらへと近づき手を伸ばすが、とっさに後ずさってしまった。

 (あ……私ったら、つい……)

 目の前にいる夫に恥をかかせてはならない。

 妻としての義務を果たさなければならないというのに、なんてことを。

 焦る香蓮のベールをそっと捲りあげた玲志は、にこやかな笑みで彼女を迎える。

 「香蓮、落ち着いて」
 彼は目を細め、慈悲深い眼差しを偽装していた。

 嘘だと分かっているのに、胸がときめく。

 雑念を払わなくてはと言い聞かせ、香蓮は近づいてくる口元だけを見つめ続けた。

 (私。この笑顔を独り占めしたかったんだわ……)

 誰にも明かしたことがないが、香蓮は玲志の口元がとても好きだ。

 桜色の薄い唇は口角がきゅっと上がっており、うっすらとえくぼが刻まれるところが、愛おしかった。

 同時に心をかき乱され、胸を切なくさせる彼の笑み。

 何度反芻したか分からない。今に始まったことではなく、それはもう、何年も前からだ。

 「ん……」

 胸の痛みを感じながら、キスを受け入れる。

 こちらの様子を固唾をのんで見つめていた参列者は、一斉に温かな拍手を彼らに送った。

 だれひとり、ふたりの嘘には気づいてはいない。

 そこに愛の欠片さえもなく、〝復讐〟で結ばれているだけだなんて。

 香蓮は複雑な心持で、離れていく唇を目で追った。

 顔を傾けた玲志は、かすかに息をあげた彼女の耳元でくすりと笑う。

 「これじゃ昨日の意味がないじゃないか、香蓮」

 「れいし、さん……」

 「ちゃんと思い出せ」

 玲志は昏い声で囁くと、骨ばった手で彼女の頬を引き寄せ一度目よりも甘美な口づけを落とした。


 四か月前――飛鳥馬(あすま)香蓮は世田谷区にある自宅の郵便ボックスの前で、大きなため息を吐いていた。

 「今日もこんなに届いてる……」

 彼女の手にはハガキが二通、封筒が三通。それらすべて代金の未払いや借金の返済を求める督促状だった。

 宛先からして、クレジットカード会社と自宅の住所は伝えていないはずの取引先から。

 創業時からお世話になっている取引先に恩を仇で返すような行いをしてしまっており、身が縮まる思いだ。

 しかし、支払いの目途は一切立っていない。会社の業績は最悪で、倒産が目前だからだ。

 「お嬢さま、お帰りなさいませ」

 「ただいま。遅くなってごめんね」

 自宅の門をくぐり、庭園の小道を歩いて玄関の扉を開けると、飛鳥馬家の家政婦の月島(つきしま)が柔和な笑顔で香蓮を迎えた。

 彼女は還暦を迎えているが、とても働き者で若々しく、香蓮は亡き母を重ねて月島に懐いていた。

 そのまま洗面所に直行した香蓮は手を洗い自室に入る。

 仕事着のジャケットとシャツ、タイトスカート、ベージュのストッキングを脱いで、部屋着である花柄のシフォンワンピースに着替え、化粧台の前に腰かけた。

 鏡に映った自分を凝視する。もともとぱっちりとした二重が、疲れからなのかくぼんでやや三重になっており、薄ピンク色の小さな唇は少しカサついている。

 (私、まだ二十四歳なんだけど……もっと老けて見えるわ)

 愛想笑いなら毎日嫌というほどしているが、最後に心から笑ったのはいつだろう。

 この生活になってから、真っ暗なトンネルを手探りで歩いているような気分だ。かすかな光さえも、今は見えない。

 家族も、愛する人も、夢も希望も、香蓮は失ってしまったから。

 「香蓮さま、顔がお疲れになっていますよ。今日も無理をなさったんじゃないですか」

 「仕方ないの。みんないなくなってしまったし、私がなんとかしないと本当に会社は動かなくなってしまうから……」

 リビングにやってきた香蓮は、ダイニングテーブルの椅子に腰かけ、月島が作ってくれた魚介のトマトスープに舌鼓を打った。

 香蓮が勤務している会社は祖父が創業した『ASUMA』はお掃除サービスや外食産業を手掛ける中小企業。

 創立して以降好調に業績を伸ばしていったが、十年ほど前祖父が亡くなり、香蓮の父親が経営者として就任して以降徐々に下降を辿っていった。

 今は倒産寸前で長らく会社を支えてくれていた上層部の社員たちはほとんど辞めてしまい、父親の側近であった秘書までいなくなってしまったため、もともと経理部の社員として入社を強いられていた香蓮が、雑務も経理を行いながら父親の秘書まで担っている。

 そんな生活をもう二年ほど過ごしており、香蓮は疲弊していた。

 しかし香蓮を一切思いやるそぶりのない父親は、現実に目を背け逃避行ばかりを繰り返し、出費が減る気配はなく、むしろ自暴自棄になっているのか豪遊している始末。

 父の改心を信じ今まで目をつむっていた香蓮だったが、取引先から会社ではなく自宅へ督促が届いてしまい、いよいよまずい状況だ。

 気は重たいが海外旅行から戻ってくる父に、彼女は今日こそしっかりとお香を据えなければならないと思っていた。

 「おーい、月島ー! 荷物が大量なんだ。玄関まできてくれー!」

 香蓮が丁度夕食を終え席を立ったタイミングで、玄関に低いどら声が響く。

 「旦那さま、少々お待ちください」

 月島は大急ぎでぱたぱたとスリッパの足音を立てながら、玄関へ走っていく。

 ピリッと張り詰めた緊張感が部屋に漂い、香蓮はごくりと息を飲んで背筋を伸ばした。

 (息が苦しい……)

 いくら疲弊していたとしても、ここ一週間は普段より断然平穏に過ごせていた。

 それは自分を疎ましいと思っている父親と、義理の母、義理の妹が自分の世界にいなかったからだ。

 「はぁー、すっごい疲れた! 月島さーん、今日の夜ご飯なにー?」

 大きな麦わら帽子を被り、派手な花柄ワンピースを着た香蓮の義理の妹――飛鳥馬愛理(あすまあいり)がリビングの扉を思い切り開ける。

 彼女の後に続いてショートボブカットにサングラスをした義理の母――飛鳥馬由梨枝(あすまゆりえ)が続いて入ってきた。

 「お、おかえり、お母さん。愛理ちゃん」

 ぎこちなく笑う香蓮の存在に気づいた愛理と由梨枝は、目をぱちくりと動かし、怪訝な顔でどすんっとソファに腰を下ろす。

 「ただいま、お姉ちゃん」

 「留守番。ご苦労さまだったわ」