気怠い雨が降っていた。
それによって齎される湿度は、あたかも足元から体にまとわりつくようだ。梅雨の始め。私はこの季節が大嫌いで、けれどもどうしようもないほど嫌いにはなれない。この雨は、私の隣で寝ている妙に鼻筋の通った憎たらしい男とよく似ている。
朝日屋頼という。出会ったのも梅雨のこんな雨の日だった。
私は丁度早番で、勤務していた神津駅前交番から傘をさし、疲れた足を踏み出した時。その男は傘もささずにスマホを片手に道端に立ちすくんでいる。どうやら道に迷っているらしい。ほっといても交番に聞きに来るのかもしれないけれど、見かけたのもなにかの縁。
「どうかされましたか」
仕事の常で、思わず声をかけた。
「その、区役所ってどう行ったら」
区役所など、通りの案内を見ても辿り着けるだろうにと思って見上げた整った顔は、どこかしょんぼりとした大型犬を思わせた。既に時刻は16時半を過ぎ、急がなければ窓口が閉まってしまうかもしれない。
「ではご案内しましょう」
「あの、いいんでしょうか」
「ええ」
そうすると男は鬱々とした雲間に日がさすように破顔した。交番から区役所はさほど遠くない。だから急いで送って、帰ろうと思った。私だけ傘をさすのも憚られ、自然、男に傘を預けて一緒に入ることになった。男からはハーブのいい香りがした。
「あの、住民の届を出したらすぐ終わるので、よければお茶をしませんか」
その言葉に警戒とともに混乱した。道案内なんて私にとっては仕事の延長で、そんな大したことはしていない。
「ちょっと待ってて」
「あの」
返事をする間もなく男はさっさと区役所に入り、その窓からは男が台で用紙に何かを書き込んでいる姿と、それを見る私の姿が反射していた。立ち去ろうと思えば男は不意に振り返り、こちらに手を振る。
「あの」
再び声をかけようと思っても、間を隔てる窓ガラスと雨の音にかき消されるだろう。仕方がなく待つことにしようと思ってついたため息は、思いの外暖かかった。
男の言う通り、用はまもなく終わり、出てきた男に断ろうと思った矢先だ。ザラリと大量の雨粒が落下してきた。見上げた空の暗さは濃い雨雲のせいなのか、その先で夜が訪れたせいかはわからない。
「凄い雨ですね。来る途中にあった喫茶店はどうですか、雨宿りを兼ねて」
こちらを覗き込む男のその指差す先を思い出せば、確かに喫茶店がコーヒーのよい香りを漂わせていたことを思い出す。この雨の中、男を傘のないまま置いてきぼりにするのも気が引けた。
雨宿りを兼ねて。その言葉が背中を押す。
カラリとその喫茶店の扉を押し開ければ、落ち着きのある木製の古く懐かしい佇まいが広がっていた。男は自然と私の背中を押して、入店を促す。その様子は酷く場馴れしているような気がして、警戒心が湧く。
「今日は本当にありがとうございます。あ、俺はカルボナーラ。なんでも頼んで」
喫茶店の初老の店主は頷き、私を見る。
「その、大したことでは」
「いいのいいの、お金はあるから」
お金は、ある? その言葉にやはり警戒心が沸き起こる。けれども入った以上、何かを頼まないわけにはいかないだろう。男が食事を頼んだ以上、飲み物だけというのもそぐわない気がする。なんとなくメニューで目についたグラタンとサラダのセットを頼めば、男は朝日屋頼と名乗った。作曲家で、動画サイトで配信をして、それなりのお金を稼いでいるそうだ。それで今日この神津に引っ越してきて、引越し作業の後に急いで転入届を出しに来たらしい。
そんなもの、法律でも14日以内なら構わないのに。
「でも、すぐに出した方がいいものなんでしょう?」
「それはまぁ」
妙に真面目なところがある反面、頼の話す暮らしは公務員の私にとって胡散臭く、困惑しかなかった。
ともあれこのカフェ・アイリスの食事はとても美味しかったけれど、眼の前の頼はその外国の俳優のように整った顔にあいまって、同じ世界の人間とは思われなかった。あまりに生活が違いすぎたのだ。
だから、きっともう二度と合わないのだろうと思った。
けれどもまた会った。
頼は週に2,3度、交番に現れた。とはいえ、私が仕事を終わって交番を出たら声をかけてくる。ストーカーかと思ったけれど、断ればすぐに去っていく。その日もそうだった。
「岡野さん、暇? 暇ならご飯いこうよ、奢るから」
「結構です」
「わかった。じゃあ、またね」
「あの、もう話しかけないで欲しいんですが」
「そう? そっか。すごく残念です。では、さようなら」
その表情に浮かんだものは馬鹿馬鹿しいほどの絶望で、まさに親しい人でも亡くしたかのような様相にぎょっとした。このまま放っておけば、命でも立ってしまうんじゃないかと思うほどだ。
「ちょ、ちょっと待って。じゃあご飯だけね」
「本当? ありがとう」
その直後に浮かべた太陽のような嬉しそうな表情の急落が、なんとも言えない不安定さを醸し出していた。手近に済ませようと思って、駅前の喫茶店でハンバーガーを注文する。お洒落な喫茶店。
「何かあったの?」
「え、何かって?」
「さっきすごく悲しそうだったから」
「あの、岡野さんと会っちゃ駄目って思うと悲しくなったから」
その言葉はなんだか酷く子供じみていて、混乱する。
「どうして?」
「どうしてって、友達になりたかったから」
「どうして?」
「岡野さん、親切だし」
「親切って道を案内しただけでしょ?」
「親切だよ。今も一緒に御飯してくれるし」
頼はずっと私の目を見て話す。なんとなく、頼がどんな人間かわかってた。おそらく発達障害かなにか。仕事柄、そういう人間はたまに見る。けれども、頼ほど屈託のない人間というものも珍しい。
「あの、それで御飯はこれで最後なのかな」
食事が終わって店を出て、頼は再び不安そうに私を見た。なんだか酷く頼りない。話を聞けば、やはり友達と呼べる友達はほとんどいないらしい。最初はすぐに仲良くなれるけれど、しばらくすると話しかけてこないでと言われる。
つまり私も、同じルートを辿っている。
頼は他人との距離感がうまく取れないんだ。けれどもその原因を頼は理解できない。頼自体は酷く明るくて、好感が持てる。結局のところ、私は頼を拒むことはできなかった。一緒に夜を過ごすようになるのもそんなに先の話ではなかった。それに何々をするなといえばしないし、何々をして欲しいといえば喜んでしてくれるけれど、言わなければ何もしない。
それ以前に、そもそも恋愛関係というものもよく理解できないようだった。
警らの途中で頼が女の子と一緒にデートしているのをよく見かけるし、カラオケや、酷いときにはホテルに入っていくのを見かけることもある。多分、女の子に誘われたのだろう。そうでもなければ頼は食事にしか誘わない。けれども誘われればどこにでもついていく。
そんな時に頼が私に気がつけば最悪で、頼は私に手を降って空気を読まずに私に楽しそうに話しかけるものだから、女の子も怒ってどこかに行ってしまう。そして頼にはそれが何故だかわからない。わからないというよりは、他人との距離感の適切さが測れない。
頼との関係はそれなりに快適で、というか暖簾に腕押しだった。
頼が求めているのはそれなりに楽しく時間を過ごすことで、頼のたまにする無意識の常識を疑う行為を怒れば反省してすぐに謝るし、全く同じことはしないけれど、全く同じでないことはする。
他の女の子とラブホに行くなといっても、頼にはラブホと普通のホテルの区別も、プライベートと仕事の区別もつかない。そして恋人と恋人じゃない女性との区別もつかない。
「さっきの女の人ともう会わないでほしい」
「どうして?」
「どうしてって……」
私はうまく答えることができなかった。
結局、私は真実の意味で、私は頼の彼女でもなかった。どこまでいっても多分、友だちだ。
それでも色々心配して、先回りして、その関係に疲れ果てて、それで別れを切り出しても、酷く悲しそうな表情を見れば突き放すのに躊躇してしまう。その別れすら、頼にとって恋愛的なものとは観念されないのだろう。そのことが酷く悲しかった。
私は頼にとって、厳密な意味で彼女ではない。それは早い段階でわかっていても、妙な居心地の良さとその危うさに、突き放すことなんて出来なかった。ようは結局、私のほうが頼に惚れていたわけだ。そのシンプルでわかりやすいところと、とてつもなく優しいところに。
頼との関係は次第に海の底にぶくぶくと沈んでいくように息苦しくなった。まるで出会ったときの六月の雨に世界が埋まってしまうよう。この先に、例えばどうしてもと望めば結婚したりもできるのだろうけれど、頼はきっと変わらない。だからその先に家族のような関係は築きようがないことをに気づいていたから。
そして暑い夏が過ぎてまた気だるい長雨が降り始めた秋。
プルプルとした振動に反応してもそりと隣で動く音がして、頼が体を起こして通話する。小さく女の声がする。私が隣にいても、何も気にしない。
「うん、頼だよ。そう」
「やっぱり、そうなの?」
「灯ちゃん、大丈夫?」
けれどもこれまで、気だるい朝に他の女の電話を取ることはなかったと思う。だからその電話は、私のこの生活の終わりという意味で、悲しみと開放感をもたらした。
頼はスマホを切って、申し訳無さそうに私を見た。
「岡野さん、俺、岡野さんと会えない」
「えっと、どうして」
「八坂さんに岡野さんに会わないでって言われたから」
八坂灯。その名前は頼から聞いたことがある。香水屋で働いていて、頼がつけているハーブのような香水も八坂灯が頼に販売しているのだ。頼は私と同じように、八坂灯とも付き合っているのだろう。けれども頼は、八坂灯に決めたのか。けどきっと、頼が積極的に誰かに決めることもないだろう。だからその八坂灯が頼に迫ったんだ。
そして私にはすでに、頼をつなぎとめる気力もなかった。
そう思うとなんだか悔しくもあり、腹立たしくもあり、何故今いうという憤りもあり、様々な複雑な黒々しい表情が私の中から飛び出し、けれども最後に小さなため息と一緒に残ったのは、これまで感じたことのない安堵感だった。
もう、これで終わりにできる。
「そう、八坂さんと仲良くね」
「うん」
私が先に、八坂さんと合わないでって言ってたら、合わなかった?
そう尋ねたかったけれど、きっとそれでも同じことだ。頼が他の女と会って、その女に八坂灯に会うなといわれれば、きっと頼は八坂灯に会わなくなるだろう。
頼はいつもの通り、まっすぐに私を見た。
その表情はいつも私から別れを切り出したときのような絶望的な表情ではなかった。
私はこのずぶずぶとした将来性の全くない関係に随分嫌気はさしていて、何度別れようかと思ったか知れない。だから、完全に決別するには渡りに船なのかもしれない。
けれども結局、私の口から出たのはこんな言葉だった。
「じゃあ元気でね」
「うん、岡野さんも」
それから、頼の姿を見ていない。
私は頼の連絡先を消そうと思ってスマホを開いていたけれど、もともと頼の番号は入っていなかった。いつも頼が交番近くまで迎えに来ていて、それからしょっちゅう頼と町中であっていたものだから。
Fin
それによって齎される湿度は、あたかも足元から体にまとわりつくようだ。梅雨の始め。私はこの季節が大嫌いで、けれどもどうしようもないほど嫌いにはなれない。この雨は、私の隣で寝ている妙に鼻筋の通った憎たらしい男とよく似ている。
朝日屋頼という。出会ったのも梅雨のこんな雨の日だった。
私は丁度早番で、勤務していた神津駅前交番から傘をさし、疲れた足を踏み出した時。その男は傘もささずにスマホを片手に道端に立ちすくんでいる。どうやら道に迷っているらしい。ほっといても交番に聞きに来るのかもしれないけれど、見かけたのもなにかの縁。
「どうかされましたか」
仕事の常で、思わず声をかけた。
「その、区役所ってどう行ったら」
区役所など、通りの案内を見ても辿り着けるだろうにと思って見上げた整った顔は、どこかしょんぼりとした大型犬を思わせた。既に時刻は16時半を過ぎ、急がなければ窓口が閉まってしまうかもしれない。
「ではご案内しましょう」
「あの、いいんでしょうか」
「ええ」
そうすると男は鬱々とした雲間に日がさすように破顔した。交番から区役所はさほど遠くない。だから急いで送って、帰ろうと思った。私だけ傘をさすのも憚られ、自然、男に傘を預けて一緒に入ることになった。男からはハーブのいい香りがした。
「あの、住民の届を出したらすぐ終わるので、よければお茶をしませんか」
その言葉に警戒とともに混乱した。道案内なんて私にとっては仕事の延長で、そんな大したことはしていない。
「ちょっと待ってて」
「あの」
返事をする間もなく男はさっさと区役所に入り、その窓からは男が台で用紙に何かを書き込んでいる姿と、それを見る私の姿が反射していた。立ち去ろうと思えば男は不意に振り返り、こちらに手を振る。
「あの」
再び声をかけようと思っても、間を隔てる窓ガラスと雨の音にかき消されるだろう。仕方がなく待つことにしようと思ってついたため息は、思いの外暖かかった。
男の言う通り、用はまもなく終わり、出てきた男に断ろうと思った矢先だ。ザラリと大量の雨粒が落下してきた。見上げた空の暗さは濃い雨雲のせいなのか、その先で夜が訪れたせいかはわからない。
「凄い雨ですね。来る途中にあった喫茶店はどうですか、雨宿りを兼ねて」
こちらを覗き込む男のその指差す先を思い出せば、確かに喫茶店がコーヒーのよい香りを漂わせていたことを思い出す。この雨の中、男を傘のないまま置いてきぼりにするのも気が引けた。
雨宿りを兼ねて。その言葉が背中を押す。
カラリとその喫茶店の扉を押し開ければ、落ち着きのある木製の古く懐かしい佇まいが広がっていた。男は自然と私の背中を押して、入店を促す。その様子は酷く場馴れしているような気がして、警戒心が湧く。
「今日は本当にありがとうございます。あ、俺はカルボナーラ。なんでも頼んで」
喫茶店の初老の店主は頷き、私を見る。
「その、大したことでは」
「いいのいいの、お金はあるから」
お金は、ある? その言葉にやはり警戒心が沸き起こる。けれども入った以上、何かを頼まないわけにはいかないだろう。男が食事を頼んだ以上、飲み物だけというのもそぐわない気がする。なんとなくメニューで目についたグラタンとサラダのセットを頼めば、男は朝日屋頼と名乗った。作曲家で、動画サイトで配信をして、それなりのお金を稼いでいるそうだ。それで今日この神津に引っ越してきて、引越し作業の後に急いで転入届を出しに来たらしい。
そんなもの、法律でも14日以内なら構わないのに。
「でも、すぐに出した方がいいものなんでしょう?」
「それはまぁ」
妙に真面目なところがある反面、頼の話す暮らしは公務員の私にとって胡散臭く、困惑しかなかった。
ともあれこのカフェ・アイリスの食事はとても美味しかったけれど、眼の前の頼はその外国の俳優のように整った顔にあいまって、同じ世界の人間とは思われなかった。あまりに生活が違いすぎたのだ。
だから、きっともう二度と合わないのだろうと思った。
けれどもまた会った。
頼は週に2,3度、交番に現れた。とはいえ、私が仕事を終わって交番を出たら声をかけてくる。ストーカーかと思ったけれど、断ればすぐに去っていく。その日もそうだった。
「岡野さん、暇? 暇ならご飯いこうよ、奢るから」
「結構です」
「わかった。じゃあ、またね」
「あの、もう話しかけないで欲しいんですが」
「そう? そっか。すごく残念です。では、さようなら」
その表情に浮かんだものは馬鹿馬鹿しいほどの絶望で、まさに親しい人でも亡くしたかのような様相にぎょっとした。このまま放っておけば、命でも立ってしまうんじゃないかと思うほどだ。
「ちょ、ちょっと待って。じゃあご飯だけね」
「本当? ありがとう」
その直後に浮かべた太陽のような嬉しそうな表情の急落が、なんとも言えない不安定さを醸し出していた。手近に済ませようと思って、駅前の喫茶店でハンバーガーを注文する。お洒落な喫茶店。
「何かあったの?」
「え、何かって?」
「さっきすごく悲しそうだったから」
「あの、岡野さんと会っちゃ駄目って思うと悲しくなったから」
その言葉はなんだか酷く子供じみていて、混乱する。
「どうして?」
「どうしてって、友達になりたかったから」
「どうして?」
「岡野さん、親切だし」
「親切って道を案内しただけでしょ?」
「親切だよ。今も一緒に御飯してくれるし」
頼はずっと私の目を見て話す。なんとなく、頼がどんな人間かわかってた。おそらく発達障害かなにか。仕事柄、そういう人間はたまに見る。けれども、頼ほど屈託のない人間というものも珍しい。
「あの、それで御飯はこれで最後なのかな」
食事が終わって店を出て、頼は再び不安そうに私を見た。なんだか酷く頼りない。話を聞けば、やはり友達と呼べる友達はほとんどいないらしい。最初はすぐに仲良くなれるけれど、しばらくすると話しかけてこないでと言われる。
つまり私も、同じルートを辿っている。
頼は他人との距離感がうまく取れないんだ。けれどもその原因を頼は理解できない。頼自体は酷く明るくて、好感が持てる。結局のところ、私は頼を拒むことはできなかった。一緒に夜を過ごすようになるのもそんなに先の話ではなかった。それに何々をするなといえばしないし、何々をして欲しいといえば喜んでしてくれるけれど、言わなければ何もしない。
それ以前に、そもそも恋愛関係というものもよく理解できないようだった。
警らの途中で頼が女の子と一緒にデートしているのをよく見かけるし、カラオケや、酷いときにはホテルに入っていくのを見かけることもある。多分、女の子に誘われたのだろう。そうでもなければ頼は食事にしか誘わない。けれども誘われればどこにでもついていく。
そんな時に頼が私に気がつけば最悪で、頼は私に手を降って空気を読まずに私に楽しそうに話しかけるものだから、女の子も怒ってどこかに行ってしまう。そして頼にはそれが何故だかわからない。わからないというよりは、他人との距離感の適切さが測れない。
頼との関係はそれなりに快適で、というか暖簾に腕押しだった。
頼が求めているのはそれなりに楽しく時間を過ごすことで、頼のたまにする無意識の常識を疑う行為を怒れば反省してすぐに謝るし、全く同じことはしないけれど、全く同じでないことはする。
他の女の子とラブホに行くなといっても、頼にはラブホと普通のホテルの区別も、プライベートと仕事の区別もつかない。そして恋人と恋人じゃない女性との区別もつかない。
「さっきの女の人ともう会わないでほしい」
「どうして?」
「どうしてって……」
私はうまく答えることができなかった。
結局、私は真実の意味で、私は頼の彼女でもなかった。どこまでいっても多分、友だちだ。
それでも色々心配して、先回りして、その関係に疲れ果てて、それで別れを切り出しても、酷く悲しそうな表情を見れば突き放すのに躊躇してしまう。その別れすら、頼にとって恋愛的なものとは観念されないのだろう。そのことが酷く悲しかった。
私は頼にとって、厳密な意味で彼女ではない。それは早い段階でわかっていても、妙な居心地の良さとその危うさに、突き放すことなんて出来なかった。ようは結局、私のほうが頼に惚れていたわけだ。そのシンプルでわかりやすいところと、とてつもなく優しいところに。
頼との関係は次第に海の底にぶくぶくと沈んでいくように息苦しくなった。まるで出会ったときの六月の雨に世界が埋まってしまうよう。この先に、例えばどうしてもと望めば結婚したりもできるのだろうけれど、頼はきっと変わらない。だからその先に家族のような関係は築きようがないことをに気づいていたから。
そして暑い夏が過ぎてまた気だるい長雨が降り始めた秋。
プルプルとした振動に反応してもそりと隣で動く音がして、頼が体を起こして通話する。小さく女の声がする。私が隣にいても、何も気にしない。
「うん、頼だよ。そう」
「やっぱり、そうなの?」
「灯ちゃん、大丈夫?」
けれどもこれまで、気だるい朝に他の女の電話を取ることはなかったと思う。だからその電話は、私のこの生活の終わりという意味で、悲しみと開放感をもたらした。
頼はスマホを切って、申し訳無さそうに私を見た。
「岡野さん、俺、岡野さんと会えない」
「えっと、どうして」
「八坂さんに岡野さんに会わないでって言われたから」
八坂灯。その名前は頼から聞いたことがある。香水屋で働いていて、頼がつけているハーブのような香水も八坂灯が頼に販売しているのだ。頼は私と同じように、八坂灯とも付き合っているのだろう。けれども頼は、八坂灯に決めたのか。けどきっと、頼が積極的に誰かに決めることもないだろう。だからその八坂灯が頼に迫ったんだ。
そして私にはすでに、頼をつなぎとめる気力もなかった。
そう思うとなんだか悔しくもあり、腹立たしくもあり、何故今いうという憤りもあり、様々な複雑な黒々しい表情が私の中から飛び出し、けれども最後に小さなため息と一緒に残ったのは、これまで感じたことのない安堵感だった。
もう、これで終わりにできる。
「そう、八坂さんと仲良くね」
「うん」
私が先に、八坂さんと合わないでって言ってたら、合わなかった?
そう尋ねたかったけれど、きっとそれでも同じことだ。頼が他の女と会って、その女に八坂灯に会うなといわれれば、きっと頼は八坂灯に会わなくなるだろう。
頼はいつもの通り、まっすぐに私を見た。
その表情はいつも私から別れを切り出したときのような絶望的な表情ではなかった。
私はこのずぶずぶとした将来性の全くない関係に随分嫌気はさしていて、何度別れようかと思ったか知れない。だから、完全に決別するには渡りに船なのかもしれない。
けれども結局、私の口から出たのはこんな言葉だった。
「じゃあ元気でね」
「うん、岡野さんも」
それから、頼の姿を見ていない。
私は頼の連絡先を消そうと思ってスマホを開いていたけれど、もともと頼の番号は入っていなかった。いつも頼が交番近くまで迎えに来ていて、それからしょっちゅう頼と町中であっていたものだから。
Fin