体育祭はすでに中盤。
 グラウンドにはアップテンポのBGM。
 生徒たちは絶え間ない波のように、自分の座席とコースを慌ただしく行き来している。
 午前最後の競技を前に、A組は245点。E組は280点。
 2位の僕たちは明らかに、劣勢に追いこまれていた。

 A組は体力勝負に弱い。だから去年までは、みんなに無理をさせる必要はないって考えていた。
 僕も本気なんか出していなかったと思う。
 でも今回は絶対に負けたくないし、負けるつもりもない。

『芹七と天海が特別な関係でも……。オレ、引く気ねーからな』

 セリの家で、黒崎が僕に叩きつけた宣戦布告を思い出す。
 さすがにスルーはできない。
 今さら他の男なんかに、僕の宝物を奪われるわけにはいかないから。


 また大きく生徒が動き出して、入場門が騒がしくなる。
 次は……借り物競争?
 ああこれ、セリが出るって言ってたやつだ。
 コースに視線を伸ばす。
 探そうとしなくたってすぐ、集まっている選手たちの中にセリの姿を見つけた。
 華奢な体に、少し大きい体操着。
 アプリコットの長いふわふわの髪を、めずらしくポニーテールにしている。

「ねぇ、紫己。セリちゃんのあの髪、カワイイでしょ♡ オレがやったんだよ」

 横にいたすばるが腕をくんで、フフンッと得意げに鼻をならした。
 うん、さっきバッチリ見てたから知ってる。
 たしかに、ドキッとするほど可愛い。
 歩くたび、弾むように揺れる毛先。こんなに遠くにいるのに、手を伸ばしたくなる。
 まあ。セリの髪にすばるが触れたっていうのが、気に入らないところだけど。

「あの赤いバレッタも、めっちゃ喜んでたよ」
「そう。それは良かった」

 すばるにはセリと幼なじみだって事は、まだ話せていない。
 だからわざと興味なさげに、短い言葉で答える。
 でもあれは、絶対に気に入るって自信があった。

「え~でもさ。オレが選ぼうとしてたピンクのも、似合ったと思うけどな~」

 すばるが恨めしそうな声をあげる。
 3人で店に行った時、すばると御幸は別のものを推していた。
 それを振りきって僕は、赤いリボンがついてるアンティークなデザインを手にとった。
 で、絶対に正解。
 だってセリの好きなものを、僕以上に知ってる奴なんていないから。



 パンッ! 
 すばるとそんな話をしているうちに、借り物競争がスタートした。
 ピストルの大きな音が響いて、第1走者がトラックを駆け抜ける。
 この競技は100メートル走。
 そしてゴール手前の70メートル地点に、お題の書かれた紙が折りたたまれて置いてある。
 選手は内容を素早く判断して、校内の誰かに借りる交渉をしなければならない。

「けっこうみんな、苦戦してるみたいだね」

 ある意味、頭脳競技。
 セリが得意とは言えないやつだけど、大丈夫かな。

「鏡を持っている人、貸してくださ~い!!」
「筋肉ムキムキのヤツ~!! 早く出てこーい!!」
「冬生まれの人!? ったく~! 誰だよ、こんなお題用意したの~」

 選手たちの悲鳴ともいえる叫び声が、あちこちから聞こえてくる。
 探して、手にして、お題と共にゴールする。
 足の速さはあまり重要じゃないから、僕たちA組にも分がある。
 E組に逆転するには、ここでの1位は確実にしておきたい。

 とうとう、セリの番になった。
 ピストルの音と共に、軽やかなスタートを切る。
 足は速い方だから第1カーブまでは快走。問題は、お題を確認したここからなんだけど――。
 いったん足が止まるだろうと思っていたセリは、動揺する他の選手を尻目に、迷いなくこっちに向かってきた。
 
「紫己先輩! 早く来てください!!」

 そう叫びながら僕の前で立ち止まり、強引に腕をひっぱってくる。
 一緒に走っていいものか迷って、一瞬、躊躇ってしまった。
 
「え~、お題って何? オレが行こうか?」

 代わりに、すばるが立ち上がる。
 それに対して、セリはぶんぶんと大きく首を横に振った。

「紫己先輩じゃなきゃダメなんです!!」

 ……何、それ。
 このシチュエーションで放たれた深味のない言葉さえ、僕を簡単に喜ばせる。……なんて。
 セリはぜんぜん知らないんだろうな。

「分かったよ。ほら、急ごう」

 勢いに任せてセリの手を握り、生徒席からコースに入った。

「うんっ!」

 セリは元気よく頷いて、そのまま僕をゴールへと誘導する。
 観客席の前を走りぬけた時、好奇な視線が寄せられたのにも気づいた。
 でも今回ばかりはそんなの気にしていられない。
 目指すはセリとの1位。
 僕たちは歩幅を合わせながら、トップでテープを切る。

「では、履いている靴を見せて下さい。――A組さん、お題クリアーです!」

 判定係が僕のシューズを確認して、2本の指で〇を作った。



「けっきょくお題って何だったの? 迷いなく、僕のとこに来たみたいだったけど」

 2人きりになったのを見計らい、僕はセリに尋ねる。

「えーっとね。『27センチのクツを履いている人』だったの」
「あーなるほど。セリは僕のサイズ知ってたもんね。だからあんなに素早く反応できたのか」
「う~ん、それもあるけど……」

 歯切れの悪い言い方をする。
 
「実はね。何が書かれていても、しーちゃんのとこに走っていこうって決めてたの」
「何で?」
「だってしーちゃんならどんなお題だって、一緒に考えてくれるでしょ?」

 僕の顔を見上げ、セリは笑みを深くした。

「そういうとこが、好きなんだよ」
「え……?」
「だからこの前、ダメって怒られたけど。やっぱり、これからも何回だって言っちゃうと思う。しーちゃん大好き、って」

 セリの満面の笑顔がまぶしくて、僕は思わず目を細めた。
 そして気づく。
 セリはこんなふうに、いつも自分の気持ちを伝えてくれるのに。
 僕はまだ肝心なことを何一つ、口に出来ていないんじゃないかって。


 ☆★☆


「見て~! A組の応援団の学ランかっこいい~♡」
「写真欲しいよね! あとで【OQu(オーキュー)】にあげてくれるかな?」

 午後一の応援合戦。
 すばるとセリが飾りつけた学ランをビシッと身につけて、グラウンドの中央に立つ。
 セリの狙いどおりA組の演舞は、5チームの中でダントツに沸いた。
 大歓声のなか座席に戻ると、すばるが2年のエリアに座っていたセリを大声で呼びつける。

「芹七ちゃ~ん。いっしょに写真撮ろうよ!」

 セリは周りをキョロキョロして、身をかがめながら忍び足で近づいてくる。

「すばる先輩、声が大きくないですか? 競技中はスマホ禁止だって、先生が……」
「でも、脱ぐ前に撮りたいじゃん。タイムラインにも載せたいし。それにこれで、応援タップ数爆上がりだと思わない?」
「う~ん……たしかに。……ねえ、御幸くん?」

 セリはおねだりするような上目づかいで、となりにいた生徒会長に許可を求めた。

「OK。ただし、3分」
「やった~! じゃあまず、私がみんなを撮るんで並んで下さ~い」

 セリは楽しそうにすばるのスマホを預かって、まずは団員の集合写真を撮る。
 それから僕たち3人にカメラを向けて、何度もシャッターを押し続けた。

「ほら、次は芹七ちゃんも入って!」

 すばるは近くにいたクラスメイトに写真を頼むと、セリを自分の隣に招きよせる。
 そしてさりげなく肩を抱いてポーズをとった。
 もともと男女の垣根が1ミリもないのが、すばるのスゴイとこなんだけど。
 セリに対しては特に最近、距離が近いのが気になっていた。

「うんうん。芹七ちゃんってやっぱイイよね。可愛いし、ノリいいし。何か本気になっちゃいそうだな」

 自分の席に戻っていくセリを、ヒラヒラ手を振りながら見送るすばる。
 横にいた御幸が何とも含みのある憎らしいカオをして、僕にチラリと視線を投げてくる。

「――だって、紫己。すばるがこんな事言ってるけど、どうするんだ?」

 ああ、やっぱり。最初からちゃんと話しておくべきだった。
 僕はフッと短く息をつく。

「すばる、ゴメン。あの子だはダメなんだ」

 親友でも譲りたくない。

「セリは僕が世界で一番、大切な女の子だから」


 ☆★☆


 そして最後のチームリレーを前に、事件は起きる。


「セリちゃん、その脚どうした!?」

 各クラスの選手が集合する中、御幸がめずらしく狼狽えながら声をあげた。
 慌てて目をやると、短パンから伸びたセリの両膝から、赤黒い血がにじみ出ている。

「あはっ……すみません。今そこで、転んじゃいました」

 選手として走る予定のセリは、申し訳なさそうに肩をすくめた。
 こんな何もないところで、そんな派手に流血する?

「違います……私見てました! 芹七が転んだのって、絶対にあれ女の先輩がわざと……」

 セリに肩をかしていた友達が、口をまごつかせながら訴える。
 どうやら嫌味を言われて、足を引っかけられたらしい。借り物競争と応援合戦で、ちょっと目立ちすぎたか……。
 こういう状況で傷つくのは、いつもセリばっかり。
 だから距離をおくことも了承したのに。
 また守れなかったことを悔しく思う。
 でも今は、後悔してる場合でも、躊躇ってる場合でもない。

「ちょっと、見せてみて」

 脚に触れて、セリの傷の具合を確認する。
 見かけより傷は浅いけど、しばらくはちょっと痛そうだ。

「走れそう?」

 僕が聞くと、セリは強い目でコクンとうなずく。

「走りたい。でもいつもよりタイムが出ないかも……。だからもしダメなら、補欠の人に……」
「……」
 
 僕たちA組の陣営だけが、重々しい空気につつまれていた。
 最終判断は、団長の御幸にゆだねられる。

「せっかくここまで練習してきたんだ。セリちゃんが大丈夫なら、このメンバーでいこう」

 御幸は晴れやかな表情で、力強くこぶしを握った。

「うん、だね! 芹七ちゃんがもし抜かされたとしても、誰も責めたりしないよ。みんなでフォローするから安心して」

 すばるはセリの前にしゃがみ込んで、いつも以上に大きく笑う。
 セリを選抜から外そうとは、誰も言わない。
 みんなの士気が今まで以上に、高まっているのがはっきりと感じられた。

 そして僕の気持ちは最初から決まっている。

「何位でバトンを渡されても、絶対にトップでゴールする」

 セリの前髪をいつものようにクシャリと撫でて、前だけを向いた。