体育祭が週末にせまった月曜日の朝。
 どこかすっきりしない灰色の空を見上げていると、しーちゃんがいつものように家の前まで迎えにきてくれた。

「おはよう、セリ。傘は持ってきた? 夕方から雨みたいだけど」
「そうなの? じゃ、ちょっと待ってて」

 回れ右をして、もう一度家に戻ろうとすると――。

「ほら、芹七。これ持っていきなさい!」

 ドアがタイミングよく開いて、お母さんが傘を差しだしてくれた。
 ありがとうって受けとるや否や、お母さんは奥にいたしーちゃんに声をかける。

「おはよう、しーちゃん。じゃあ、今夜はよろしくね」
「はい。了解です」

 ん? 何だろう、今夜って。
 歩き始めたしーちゃんの袖をひっぱって、「何かあるの?」って聞いてみた。

「セリさ、最近1人だと、夕飯も食べずに寝ちゃうんだって?」

 ギクッ。何でそんなこと知ってるのかなぁ。

「セリのお母さんから昨日メッセージ来て、心配してたよ。今日も夜勤だから一緒に食べて欲しいって」
「そうなんだ。最近ちょっと、食欲がなくて」
「体調悪いの? それともオヤツの食べ過ぎ?」
「う……どっちも違うけどぉ」
「とりあえず、今夜は僕が家に行くから。ちゃんと食べるように、和風ハンバーグ」
「はぁ~い」

 うちの夕ご飯のメニュー、私よりもよく知ってるなぁ。
 感心しながら顔を見上げると、しーちゃんはニコッと笑んで、頭をポンポンと撫でてくれた。
 好きだなぁ、この優しい手。
 でも通学路を10分ほど進んだところで、スッと私から距離を置いた。

「じゃあ、ここで。放課後は早く帰ってくるようにね」

 しーちゃんは横断歩道をわたって、裏道に消えていく。

 あの日――しーちゃんが私に『ただのファン』として接した日から。
 学校では徹底的に、他人のふりをしてくれている。
 朝も帰りも、秀麗の生徒とすれ違う場所は一緒に歩かない。
 学校でもただの先輩と後輩で、体育祭の準備で集まった時には挨拶をするていど。
 だから女子の先輩に陰口を言われることもなくなった。
 
 穏やかな理想の学校生活。
 これは私がしーちゃんに求めたことで、望んでいた結果なんだけど。
 今更ながらにすごく寂しくて、毎日がなんだか味気ないの。
 それが原因で、私はご飯が食べられなくなっているんだ。


 ☆★☆


 2年A組の教室に入るとすぐに、すばる先輩が上機嫌で私のもとにやってきた。

「芹七ちゃん、おっはよ~。ねーねー【OQu(オーキュー)】確認した? ここんとこタップ数、めっちゃ増えてるんだよ」

 やばい、最近パタパタもさぼってたかも。
 体育祭の前にこれはいけないと思い直して、私はスマホのアプリをひらく。

「一時期、ファン離れが見えて心配してたんだけど」
「あ、そうでしたね」

 私のせいで、取り消されちゃった時だ。

「でも3-Aのタイムライン、現在ダントツじゃないですか! すばる先輩が広報活動を頑張ってくれたおかげですね」
「うん、あと紫己もね」
「え?」
「珍しくファンサ用の写真にも協力的でさ。パタパタが増えたのは、それも大きいかも」
「そっ……そうなんですね」

 うぅ……何かその情報、聞きたくなかったなぁ。
 私がただのファンでしかない間、きっと誰かがしーちゃんの隣にいるんだよね。
 また胸がモヤモヤしたものに覆われて、せっかくすばる先輩が嬉しそうにしているのに、私は作り笑いしかできなかった。


 ☆★☆


 6時間授業のあと、放課後はクラスのみんなとリレーの練習をする予定だった。
 でも午後から空はどんどん薄暗くなってきて、現在、バラバラと轟音をひびかせる大雨。
 私たち2年A組は今日は帰宅! って決めて、電車通学の葵ちゃんたちと昇降口でバイバイする。

 うわぁ、すごい大雨!
 しーちゃんに言われて、傘を持ってきて良かったけど。
 歩いても走っても、どのみちすごく濡れちゃいそうだな。

 1歩を踏みだせず躊躇っていると、少し左に、黒崎先輩が同じようにたたずんでいるのが見えた。
 腹立たしそうに黒い空を睨みつけながら、通学リュックで頭をおおうようなポーズをする。
 もしかして、傘を持ってないんじゃないかな?
 むりむり! このどしゃぶりで駅まで走ったら、教科書もノートもびしょびしょだよ!
 周りを見ても、友達と一緒ってわけでもなさそうだし……。

「黒崎先輩、1人ですか?」

 思い切って話しかけると、先輩はパッと表情を明るくした。

「おお、芹七。今帰りか?」
「はい、今日は自主練が中止になっちゃって」
「だよなー、オレんとこもだ。もうすぐ体育祭だってーのに、ツイてねぇ。っていうかそもそも、昼から雨なんて天気予報で言ってたかよ?」

 黒崎先輩は恨めしそうな顔で、雨粒が激しくはねあがる足もとに目をやる。
 やっぱり先輩、カサを忘れたみたい。私もこれ1本しかないけど……。
 この前、女の先輩から助けてもらったお礼もかねて、え~い! 貸しちゃう!!

「先輩、はい! 良かったらこれ使って下さい」

 私は思い切ってラベンダー色の折りたたみ傘を差し出す。
 黒崎先輩は驚いた顔をして、手を顔の前で横にふった。

「いや、いいって! って言うか、お前はどーすんだよ」
「私は歩いて20分だしどうにかなりますよ。それか、誰かに入れてもらうので」
「誰かって……誰だよ?」

 そう聞かれて、一番最初に頭に浮かんだのはしーちゃん。
 きっとしーちゃんなら呆れた顔をしながらも、自分より私を気遣って傘を差しかけてくれるはず。
 でも……。
 そっか、ここはまだ学校だった。
 ただのファンに、そんな特別なことはしてくれないよね。
 う~ん、どうしよう。
 少し考えこんでいると、黒崎先輩は「じゃあ、さ」と、私の手から傘をスルリと引き抜いた。

「オレが芹七を家まで送ってく。で、それから貸してもらうんでイイか?」


 ☆★☆


 う~ん。何か申し訳ないことになったぞ。

 自宅までの道を、黒崎先輩とおなじ傘に入って歩いている。
 秀麗の最寄り駅とは反対方向の我が家。
 先輩にとっては間違いなく遠まわりだし、時間だって倍はかかっちゃうんじゃないかなぁ。
 
 貸すなんて言っちゃってゴメンナサイ!
 そう心の中で謝っていたんだけど、どうやら黒崎先輩も同じ気持ちだったみたい。

「悪い。何かよけいなことして」

 そうぽつりと呟いて、きまりが悪そうに傘を私の方にばかり傾ける。
 せ、先輩……それじゃあすでに体半分が水浸しですよ?
 すでに意味がないんじゃ……。
 前髪から大粒のしずくが落ちる姿がおかしくて、私は声を出して笑ってしまった。
 第一印象はガラが悪くて怖いだけの人だったのに。
 今は黒崎先輩が『西のナイト』なんて呼ばれている理由が、よく分かる。

「もうこうなったら、雨は諦めません? ウチに着いたらタオルを貸すので」

 私の言葉に肩の力が抜けたのか、黒崎先輩ははにかんだように笑った。

「芹七って案外タフだよな。見かけはふわふわで、温室育ちっぽいのに」
「あはっ。似たような事をこの前、すばる先輩にも言われました」
「早乙女か……」
「あと御幸くんには、犬っぽいとも言われますけど」
「……仲いいな。お前ら」
「そうですね。A組の先輩とはちょこちょこ交流があって」

 私がそう答えると、黒崎先輩の表情が微かに曇る。

「じゃあ、天海は?」
「え?」
「芹七とアイツって、あれから2人で会ったりしてんの?」

 黒崎先輩に真剣な声で質問されて、返事に困ってしまった。
 聞かれているのはきっと、学校での私としーちゃんの関係だよね?
 だから、イエスともノーとも上手く答えられない。



 気まずい空気をまとったまま、気づいたら自宅前に到着。
 リビングの窓からはオレンジ色の灯りがもれている。
 良かった。お母さん、もう帰って来たんだ。
 私は黒崎先輩を手招きした。

「風邪をひくと困るので、いったんウチに寄ってって下さい」
「いいのか?」
「はい! 乾燥機を回してる間に、オヤツでも食べましょう」

 ガチャリと鍵を回して、飛びこむように玄関に入って――。
 私はそこで初めて、とっても重要なことを思い出したんだ。

「セリ、お帰り」

 そう。今日はしーちゃんと、夕飯の約束をしてたってこと。

「あ……天海!? 何でここに!?」

 家で迎えてくれたしーちゃんは、学校で見せるいつものクールな顔。
 反対に黒崎先輩は、今にもひっくり返るんじゃないかってくらい驚愕して、猫目を大きく見開いていた。