隠し通路を抜け城外に出た時には、午後の日が西に傾き始めていた。
ベッド脇のサイドテーブルに用意されていた新しい服に着替え、草原に掘られた壕から外に出る。
支給されるはずだった城での給金も、パン屋に残しておいた荷物も取りに戻る勇気はなかった。

「あはは。本当に一文無しになっちゃった」

 それでも、気分は晴れやかだった。
もう過去に囚われる必要がないって、なんて自由なんだろう。
私はくるりと回って、スカートの裾を翻す。
それは午後の穏やかな風に吹かれ軽やかに舞い上がった。

「ま、何とでもなるでしょ。これまでも何とかなってきたんだし」

 ここから一番近い国境はどこだっけ? 
ランデルの部屋に飾られていた地図を思い出す。
あぁ、北西に向かう国境が一番近いな。
私たち一家が捨てられた国境は、城から一番遠い北東にあった。
自分で自分の行き先を決められるなんて、こんな素敵なことってある?

 枯れ草の茂る草原をしばらく歩いて、フェンザーク城を振り返る。
灰色の城は、もう遠くに霞んでいた。

「さようなら! 元気でね!」

 これでもう、思い残すことは何もない。
私はこれから進む深い森に向かって、真っ直ぐに顔を上げた。
どんな困難が待っているか分からない。
だけど、もう何があっても平気。
生まれ変わった気分だ。
ここから国境までの道のりを考えると、気分は憂鬱になるけど、新しい国での新しい自分に期待を膨らます。
ズキリと痛む胸の傷も、その頃にはすっかりよくなっていることだろう。

「さ、行くわよ。リアンネ」

 私の本当の名を知る人は、私だけでいい。
そうね、次の名前はなんにしよう。
流行の可愛くて斬新な名前がいいな。
誰もが聞いて驚くような呼び名にしよう……。

 胸元まで伸びた枯れ草の草原を、森へ向かって歩く。
日が落ちる前には森の手前で休もう。
そして夜明けと共に森に入り、日があるうちに国境まで向かいたい。
そんなことを考えながらのんびり歩く私の耳に、激しく馬を駆り立てる一群の蹄が聞こえた。

「まさか!」

 咄嗟に草むらに身を潜め、隙間からのぞき込む。
ランデルが兵士たちを引き連れ、馬を走らせていた。

「お前たち、彼女の顔は覚えてるな! 必ず見つけ出せ。絶対に傷つけるな!」

 どうしよう。
こんなにすぐ見つかるなんて思ってもいなかった。
即位式は? 
もう終わったの? 
ちょっと早すぎじゃない?

 私は耳を塞ぎ草むらに身を潜める。
じっと隠れていたつもりだったのに、ランデルの率いる騎馬隊はすぐ真横を駆け抜けた。

「きゃあ!」
「リアンネ!」

 馬に蹴飛ばされそうになって、思わず悲鳴を上げる。
私に気づいたランデルは、馬上から飛び降りた。

「待って! なんで逃げるんだ!」
「なんで追いかけてくるの!」

 もう無駄だって分かっていても、足は止まらない。
私は枯れ草の草原を懸命に走った。

「話したいことがあるって、言っただろ!」
「そんなもの、私にはないの!」

 すぐに追いつかれ、ランデルが私の横に並ぶ。
それでも止まらない私に、彼は飛びついた。

「だから話を聞けって!」

 ランデルと一緒になって、地面を二度三度転がる。
彼は私の両手首を掴むと、そのまま地面に組み敷いた。

「部屋で大人しく待ってろって、言っただろ!」
「それは聞いたけど、待つとは言ってない!」
「なんで逃げる?」
「どうして追いかけて来たのよ!」
「リアンネ!」

 その名を呼んだ彼に、私は口をつぐむ。

「リアンネ。キミはリアンネなんだろ? 一目見てすぐに分かった。城で見かけた時、心臓が止まるかと思った。俺に会いに戻って来てくれたんじゃなかったのか?」
「……」

 なんて答えよう。
「そうじゃない」と言っても「そうだ」と言っても、どちらも嘘になる。

「ずっと探していた。忘れたことなんてない。リアンネ。キミもそうだと言ってくれ」

 答えられない私は、返事の代わりにぎゅっと目を閉じる。
目から涙の滴がこぼれ落ちた。

「どうしてキミが答えられないのか。なんで逃げ出したのか。言いたくないのなら言わなくていい。リアンネという名が気に入らないのなら、マノンのままでもいい。どうか俺のそばに居てくれ。もう離れたくないんだ」

 ランデルの手が、こめかみを流れる涙をすくい取る。

「式から戻ったら、キミに伝えたいことがあるって言ったよね。それを今、ここで言ってもいい?」

 山裾の草原を吹き抜ける風が、私たちを取り囲む枯れ草を揺らした。

「父王にね、お願いしたんだ。俺が王太子に即位したら、叶えてほしい願いがあるって。それはね、先の内戦で処罰を受けた人たちを、許してほしいってこと。もう十分な年月が経ち、王宮の内部は随分と整理された。もちろん、俺や王の命を狙う者はまだ耐えない。だけど、俺はもうこんなことを全部終わりにしたいんだ」

 ランデルの手が、私の頬を撫でた。

「だから、即位に際して、恩赦を出してほしいって。俺がこれから王となって作る国には、敵も味方も必要ない。みなが平穏に暮らせる、穏やかな時代にしたいんだ。父王は、許してくれたよ。だからもう、キミは罪人じゃない。この国にいて、城にいて、俺の側にいていいんだ」

 見上げるランデルの顔が、涙で歪んで見える。
それはランデルも同じみたいだった。

「ねぇ、俺とした約束覚えてる? 結婚しようって。その返事として贈られたハンカチを大切に置いてあったの、キミも見たんだろ?」

 彼の額が、私の額にコツンと当たった。

「キミには亡くなった母上の前で約束した通り、結婚してもらう。これは俺が王太子として、初めて下す命令だ。逆らうことは、キミでも許さない」

 ランデルの唇が、私の唇に重なった。
絡みつく彼の熱い想いが、私の全てを押し流す。

「リアンネ、返事は?」
「……。はい。王子の命に、従います」
「はは。ここが俺の部屋じゃなくてよかった」
「え?」
「ううん。こっちの話し!」

 彼は私を助け起こすと、ふわりと自分の馬に乗せた。

「さぁ、城に戻ろう。すぐに婚約発表の準備を始めなきゃな」

 ランデルが手綱を引く。
草原に遠く見えるフェンザーク城に向かって、私たちは走り出した。


【完】