萌は午前中に済ませたかった業務を手早く終えると、最近評判だと噂の和菓子屋でどら焼きを買い、応接室の準備に取り掛かった。
ひとり掛けのソファがふたつと、向かいに三人掛けのソファがひとつ。その間にローテーブルが置かれている。窓際には観葉植物と、これまで会社が手掛けたねじがガラス張りのチェストに並べられているだけのシンプルな室内だ。
普段から綺麗に掃除をしているつもりだが、田辺の口ぶりから大切な客だと窺える。いつも以上に丁寧にテーブルを磨き、すぐに出せるよう給湯室で急須や湯呑みを準備しておく。
約束の相手は時間の五分前に到着したようで、お茶を淹れてどら焼きと一緒にお盆に乗せて応接室へ向かった。
ノックのあとに田辺が中から「どうぞ」と応答したのを聞き、萌はゆっくりとドアを開ける。
「失礼いたします」
中には三人の男性の姿があった。社長の田辺がひとり掛けのソファに、来客のふたりは彼の向かいに腰を下ろしている。
萌のノックに反応し、こちらに視線を向けた男性を見た瞬間。萌は目を見開き身体を硬直させた。
(うそ……!)
そこにいたのは日本屈指の大企業である『桐生自動車』御曹司、桐生晴臣。
三年前にお見合いで出会い、結婚の約束をしていたにもかかわらず、萌が酷い言葉で傷付けて別れた相手だ。
そして、双子の父親でもある。
けれど彼は萌が妊娠した事実を知らないまま海外へと旅立った。
この三年間、一度も連絡をとっていないし、彼との繋がりはすべて断ち切ったはずだった。
(どうして晴臣さんがここに……)
あまりの驚きに、動揺で全身に震えが走る。
懐かしさと愛しさ、押しつぶされそうな罪悪感といった様々な感情が溢れ出し、萌はお盆を持ったまま一歩も動けない。
そして萌を見て驚き固まっているのは、田辺の向かいに座っていた晴臣も同様だった。
オーダーメイドであろうグレーの細身のスーツを着こなし、簡素な事務所の応接室に不釣り合いなほどキラキラとしたオーラを纏った彼が、信じられないとばかりに言葉を失ってこちらを見つめている。
萌は冷静になろうと必死に浅い呼吸を繰り返した。
(大丈夫。あんなに酷い別れ方をしたんだから、きっと私のことなんて忘れて素敵な結婚をしてるはず)
そうだとすれば、万が一にも双子の存在を知られるわけにはいかない。
萌は混乱しながらもなんとか思考を働かせるが、自分の考えた仮説に胸が引き裂かれるほど苦しくなる。
けれど、そうなるように仕向けたのは萌自身だ。
(もう、あの頃には戻れない……)
目の前の彼から贈られた四つ葉のネックレスが、萌の胸元で煌めきながらふたりの再会を静かに見守っていた。
今から三年前。桜の散りきった四月中旬の土曜日。
初めて踏み入れた一流高級ホテル『アナスタシア』の地下一階、老舗の日本料理店『なでしこ』の個室で、萌は俯いたままひと言も口を利かずに身を小さくしていた。
紫綬褒章を賜ったほどの料理人が長を務め、芸能人や財界の要人などがこぞって利用するこの店内には、和楽器で演奏されたジャズが上品な音量で流れている。
普段はカットソーにパンツスタイルばかりの萌だが、今日は薄いラベンダー色のワンピースを身に着けていた。
七分袖から出た手首やレースで飾られたデコルテは少し力を加えれば折れてしまいそうなほど細く、ウエストが絞られたデザインであるにもかかわらず身体のラインを拾わないほどだ。痩せているというよりも、やつれているといった方が正しい。
量販店で購入した安物なため生地はぺらぺらで、とてもこの場に相応しい装いとは言い難い。
しかし、それよりも居たたまれないのは、鏡を見るのも躊躇われるほど酷い自分の髪の毛だ。
一度も染めたことのなかった艶やかな黒髪は、自宅で無理やり市販のブリーチ剤で染められたため、黒と金色のまだら模様となっている。
初めて自分で染めて失敗した学生すらここまで酷くはならないだろうという出来栄えだが、美容院に行って染め直す時間的猶予はなかった。
かといってこの場に帽子をかぶってくるわけにもいかず、できるだけ目立たないように後ろでお団子にしてまとめている。
このみっともない髪型を、向かいに座る初対面の家族にどう思われているか想像するだけで気分が塞ぎ込み、とても食事を楽しむ気にはなれない。
それに今日こうして一流老舗ホテルの高級店にやってきたのは、素晴らしい料理を楽しむためではないのだ。
萌は現在、父方の叔父である健二の命令によって、日本有数の大企業である桐生自動車の社長子息とのお見合いに臨んでいた。
健二は萌の亡き父、陽一から『秋月工業』の株式を相続し、現在社長を務めている。そして妻の翔子は名ばかりの副社長だ。
秋月工業は陽一が興した会社で、強度の高いネジなど締結部分の部品の製造、販売を行っている。
中でも陽一が友人とともに開発して特許を取得したというネジはこれまでにないほどの軽量化に成功し、車の製造部品として桐生自動車へ卸しているため、秋月工業にとってとても重要な取引先相手だ。
陽一から健二へ経営が移って早十年。業績が右肩下がりの今、桐生自動車への売上が命綱でもある。
その大企業の社長直々に見合いの打診を受け、現秋月工業社長の健二が断るはずがない。
「あらぁ! では晴臣さんは近いうちに取締役に就任されますのね」
「えっ、その若さで? すごーい!」
場違いなほど甲高い声が個室内に響いた。健二の妻で萌の叔母である翔子と、その娘の玲香だ。
翔子はひと目で高級ブランドだとわかるロゴの入ったワンピースを着用し、玲香は真っ赤な振袖姿。
なにも事情を知らない人が見れば、桐生自動車の御曹司と見合いをしているのは玲香だと思うだろう。
実際、現在の秋月工業の社長のひとり娘は玲香である。彼女は萌とは真逆の派手な美人で、交友関係も華やかだ。
しかし桐生自動車から見合いの打診を受けたのは、前社長の娘であり玲香とは従姉妹である萌だった。
それを知った翔子と玲香は憤りをあらわにし、桐生自動車の御曹司について調べた。
桐生晴臣、二十九歳。桐生自動車社長のひとり息子で、彼自身も非常に優秀だと評判だ。現在は第一開発部の部長を務めている。
いずれ会社を継ぐであろうその肩書きに加え、なによりも彼女たちの目を惹いたのはその美しい容姿だった。
ダークブラウンの髪はサラサラと指通りがよさそうで、長めの前髪を左目の上で分けている。
大きく意思の強そうな目は知性を感じさせ、口角の上がった唇は初対面の相手にも威圧感を与えず優しげな印象だ。
細身だが長身なためスーツがとてもよく似合い、写真からも品のよさが滲み出ている。
普段、自分たちよりも格下だと蔑んでいる萌に、大企業の御曹司、それも類稀な容姿の持ち主との縁談が持ち上がるなど、翔子と玲香にはとても許せなかった。
『なんで萌なのよ! 秋月工業の社長令嬢は私よ! なにかの間違いに決まってるわ!』
『そうね、きっと名前を勘違いしたのかもしれないわ。あなた、すぐに確認してちょうだい!』
ふたりの剣幕に健二が渋々先方に問い合わせたが、何度確認しても玲香ではなく萌で間違いないとの返答がくるばかり。なんでも陽一と大学時代に交流があったらしい。
普段は萌になんの興味関心も持たない健二だが、金になりそうな話とあれば目の色を変える強欲な性格だ。萌に拒否権はなく、問答無用で見合いに出るように命じられた。
その上で『さすがに秋月家側から見合い相手の変更を申し入れるような真似はできないが』と健二は玲香に提案する。
『見合いの場にお前も来ればいい。そこで相手に気に入られれば、話が変わることもあるだろう』
父の提案を聞いた玲香は、見合い前日の夜に萌の帰宅を玄関で待ち伏せ、翔子とふたりがかりで萌の美しい黒髪を市販のブリーチ剤でまだらに染め上げた。
『あんたが桐生自動車の御曹司と見合いなんて、分不相応なのよ。せいぜい私の引き立て役になることね』
満足げに微笑む玲香の髪は昨日までの明るい茶色ではなく、艷やかな黒色に染められていた。
そんな昨日までの一連のやり取りを思い出し徐々に俯きがちになる萌とは裏腹に、翔子と玲香のおしゃべりは止まらない。
「うちの玲香は職場では秘書のようなお仕事を任されているんですよ」
「ええ。おそばにいられれば、きっとお役に立てると思います。少なくとも、こうした場に相応しい格好くらいはできますわ」
そう言って玲香は隣に座る萌に視線を向け、蔑むような笑顔を見せた。
玲香が実家から通える女子大を卒業して就職したのは、中堅の塗料メーカーだ。
一流商社や大手ゼネコンと呼ばれる大企業ばかりを何社も受けたが採用通知は一通も来なかったため、健二の口利きで入社した会社だ。玲香本人は大企業以外では働きたくないとごねていたようだが、社会人経験はあったほうがいいと窘められ渋々就職した。ペンキ臭くなるのが嫌だと毎日のように愚痴を零している。
普段、家で聞いている苛立ちを含んだ人を蔑む低い声も萌を身震いさせるが、店の落ち着いた雰囲気の中で聞く彼女たちの媚びに満ちた声音は、他人にも不快に聞こえるらしい。
向かいに座った晴臣の母親は美しい口元を引き攣らせているが、当の本人たちはそれに気付かずに話し続けている。