すると、晴臣の優しい声が頭上から落ちてきた。
「俺はそんなに頼りないかな」
「……え?」
「萌が言う〝迷惑〟なんて、君を失う苦しみに比べればなんでもない。たとえあの一家がなにをしてこようと、俺も会社も少しも揺らがないよ」
萌の考えなどお見通しだと言わんばかりのセリフに顔を上げると、吸い寄せられるように彼の瞳を見つめた。その眼差しには一点の曇りもない。
「秋月社長がなにか言ってきても無視を決め込めばいいし、彼らが逆恨みして萌や子供たちに手を出そうとするのなら、俺が全力で守るよ。もちろん手は打ってある。それに俺の両親には、萌と再会したこと、君が結婚直前で姿を消した理由、双子の存在、すべて話した上で今必死に口説いている最中だと伝えてある」
「え……っ?」
「勝手なことをしてごめん。でもどうしても俺が本気だと知ってほしかったんだ」
萌が絶句していると、彼は勝手に双子の存在を明かしたことを謝りつつ、晴臣の両親は萌との結婚を心待ちにしているのだと語った。
「なにも心配はいらない。だから、萌の気持ちを聞かせてほしい」
萌と家族になりたいと訴える晴臣の熱情が、萌の不安を溶かしていく。
「……三年前からずっと、晴臣さんだけが好きです」
無意識に、勝手に口が動いた。どう言おうとか、ちゃんと伝えようとか、そう思う間もなく気持ちが溢れ出た。
「迷惑をかけるくらいなら自分から離れようって、ひとりで勝手に決めて……それなのに晴臣さんが別の女性と結婚しているかもって考えるだけで、苦しくて息ができなかった……。自分で決めたのに、どうしてもあなたを忘れられなかったんです」
一生、心に秘めておかなくてはならないはずだった。
しかし奇跡のような再会を果たし、彼もまた、まだ萌を想ってくれているのだと知った。
すべてを知った上で萌を求めてくれているのならば、晴臣を信じてついていきたい。
「私も、あなたと家族になりたい」
ようやく本音を打ち明けた萌を、晴臣がもう一度抱き寄せる。
「ありがとう。俺も、ずっと萌だけが好きだ。光莉と陽太にも、受け入れてもらえるように頑張るから」
「はい……」
「俺にあの日の約束を果たさせてほしい。毎年、一番近くで君の誕生日を祝いたい」
晴臣は萌の左手を取り、永遠を誓うように薬指に唇を寄せた。
「愛してる」
「私も、晴臣さんを愛しています」
彼の顔がゆっくりと近づき、口づけの予感に心臓がうるさいほど高鳴る。
そっとまぶたを伏せた瞬間、陽太の「んんー」という唸り声が聞こえ、反射でぱっと晴臣から離れた。
どうやらベビーカーの中で寝返りをうっただけらしい。親指をくわえてそのまま眠ったが、今のでようやくここが水族館の中だと思い出した。
慌てて周囲を見渡したが、出口付近のためあまり人はおらず、暗がりなので誰にも見咎められてはいなさそうだ。
萌がほっと胸を撫で下ろすと、隣で晴臣がおかしそうに笑った。
「残念。誓いのキスはお預けだな」
「は……晴臣さんっ」
「萌からはじめて『好き』だと言葉にしてもらって浮かれてるんだ。このくらいは許して」
そう言うと、唇ではなく頬にキスを贈られた。たったそれだけの触れ合いも、三年ぶりとなれば恥ずかしくて堪らない。
「う、嬉しいですけど、外ではダメです。ドキドキしすぎて歩けなくなっちゃいますから」
顔を真っ赤に染めて頬を押さえ、潤んだ瞳で恨めしげに晴臣を見上げる。すると彼は「そうだった……いつもこうやって返り討ちにあってたんだった」と目元を押さえて天を仰いでいる。
なんだかむず痒い空気が流れ困惑していると、晴臣が「行こうか」とベビーカーを押し始めた。
「ふたりはあとどのくらいで起きるかな」
「一時間くらいだと思います。だいたいおやつの時間に目が覚めるので」
「じゃあ、それまでは恋人同士のデートを楽しもうか」
甘い声音と眼差しで誘われ、萌ははにかみながらもようやく彼に笑顔を向けて頷いた。
ふれあいパークへ出かけた日以降、晴臣は毎日連絡をくれる。
時間が合えば電話で話し、タイミングが合わない場合も必ず朝と晩にメッセージが送られてくる。双子の様子を聞いたり、体調を崩していないか心配したり、たわいないやり取りだ。
仕事で忙しいにもかかわらず自分たちに時間を割いてくれるのは、彼こそ体調を崩さないか心配になるけれど、やはり嬉しい。
三年前は一緒に暮らしていたため、あまり電話やメッセージのやり取りを頻繁にしていたわけではない。なんだか新鮮な気分だった。
陽太は晴臣から電話が来ると「よーた、もしもししゅる!」と張り切って電話口に出たがる。興奮でほとんどなにを言っているのかわからない陽太の話にも晴臣は時折相槌を入れながら聞いてくれるため、晴臣への好感度は上がる一方だ。
なかなかスマホを離そうとしない陽太をなだめて電話を代わってもらい、近況を報告し合う。
そして最後には必ず「萌、愛してるよ」とチョコレートよりも甘い言葉を贈られ、毎回嬉しさと恥ずかしさで頬が真っ赤に染まるのだった。
会えない分、以前にも増して甘い言葉で萌を翻弄する晴臣に、萌は電話越しにもかかわらずドキドキしっぱなし。彼は容姿だけでなく声も抜群にいいため、耳元で響く甘い声音に全身がとろけそうな気がした。
そんな電話のやり取りの中で、東京を離れた萌が生活できているのも、双子を無事に育ててこられたのも、田辺夫妻がとても親身になって助けてくれたからだと話すと、彼は萌がプロポーズに頷いて二週間も経たないうちに田辺家へ挨拶に行く段取りをつけた。
『俺が萌と再会できたのも、双子に会えたのも、彼らのおかげなんだな。だったらきちんと挨拶に行きたい。萌の夫として、ふたりの父親として、これまでの経緯をきちんと説明して、改めて感謝を伝えたい』
そう話す彼の考えに異存はなく、自分からも改めて感謝を伝えようと思い、萌は晴臣と双子とともに田辺の自宅へやって来た。
四月下旬。ゴールデンウィークの初日の今日は、雲ひとつない晴天で行楽日和だ。気温も二十度を超え、初夏の陽気に世間の人々が浮き立つ中、晴臣はカッチリしたスーツ姿。夫妻はいつものように穏やかに出迎えてくれたが、なんだか妙に緊張する。
晴臣と萌の向かいには田辺と理恵が座っており、光莉と陽太は隣のリビングで遊んでいる。頻繁に訪れるため、ふたりにとっては自宅と同じくらいに慣れた環境だ。
「改めて、萌と子供たちを守ってくださり、ありがとうございました」
晴臣が和室の応接間で手をつき、深々と頭を下げた。
「彼女がどれだけ大変な思いをしたか、そしてどれだけ田辺社長や奥様が彼女を支えてくださったか、色々な話を伺いました」
そして晴臣の口から、改めて当時の話が語られた。
双方の父が旧友だったのを理由にお見合いの席で出会ったこと、当初は恋愛感情ではなく互いのメリットのために結婚をしようとしていたことまで、晴臣は包み隠さずに話した。
叔父一家からの不当な扱いについては萌から伝えていなかったため、その部分に話が及ぶと田辺は顔をしかめて聞いている。
「萌ちゃんが、社長一家からそんな扱いを……」
「打算で女性に結婚を申し込むなど非常識だと理解しています。でも見合いの席での秋月家の歪さを見て、この方法なら彼らから救えると思ったんです。そして一緒に過ごすうちに、いつしか私は彼女に想いを寄せるようになりました。萌を愛しているからこそ、結婚したいと思ったんです」
ちらりと隣を盗み見る。萌への想いを口にする晴臣の横顔は胸が熱くなるほど真剣で、息を呑むほど美しい。
自分たちの経緯の説明を聞くのは少し恥ずかしいけれど、お世話になったからこそきちんと説明すべきだと思って話しているのがわかるため、すぐに視線を逸らして目を伏せた。その様子を理恵がにこにこしながら見守っているのが、なおさら照れくさい。
しかし会社の不正に気づいた萌が告発を決意し、晴臣に迷惑をかけまいとひとり東京を離れたのだと彼が続けると、理恵はハンカチで涙を押さえながら「本当に大変だったのね」と萌の気持ちに寄り添い労ってくれた。
「そのあとのことは、おふたりが知っての通りです。私が不甲斐ないせいで彼女にはとても大変な思いをさせてしまいましたが、田辺社長や奥様のおかげで、ここまで光莉と陽太を育てられたと聞いています。本当にありがとうございました」
晴臣が感謝を述べる横で、萌も一緒に頭を下げた。その胸元には再び四つ葉のネックレスが輝いている。
「十年ぶりに会った私を受け入れてくださって、本当に感謝しています。私ひとりだったら、とてもあの子たちを育てられませんでした」
双子の妊娠が発覚し、相手の男性に連絡を取った方がいいのではと助言をくれたにもかかわらず、萌は頑なにそうしなかった。それでも彼らは萌を責めず、相手を詮索することもなく、ただ親身になって助けてくれた。両親を亡くした萌にとって、田辺と理恵が第二の親のような存在だ。
「ふたりとも、頭を上げて」
「そうよ、そんなにかしこまらなくていいんだから」
田辺は穏やかにそう言うと「秋月には本当に世話になったんだよ」と昔を懐かしむように目を細めた。
大学を卒業後、一度は大手の製鉄会社に就職した田辺は、あまりのブラック企業ぶりに体調を崩して退職した。その後、なかなか転職先が見つからず焦っているところに声をかけてきたのが、萌の父だったらしい。
「『ものづくりの根幹を支える会社を一緒につくらないか』って誘われたんだ。熱い男で、仕事に一切の妥協がない。一緒に開発したねじの特許を取って、会社をどんどん大きくしていった。仕事が楽しいと感じたのは、あの時が初めてだったよ」
田辺から語られる父や会社の話は、まさに萌の記憶にある秋月工業そのものだ。
「秋月と奥さんが亡くなったあと数年は今の社長のもとで働いたけど、あの人は金儲けしか考えていなかった。古株の俺たちの進言もことごとく無視されて、結局耐えきれずに出てきたのを、秋月に申し訳ないと思ってたんだ」
「そんなこと……」
「だから彼がなによりも大切にしていた萌ちゃんのことは、ずっと気掛かりだった。大変だったのに気づいてあげられなくて申し訳ない。僕を頼ってくれて本当によかったよ」
田辺の横で、理恵も大きく頷いている。
「ありがとうございます。たくさん助けていただいて、本当にどうやってお礼をしたらいいのか」
「やぁね。いつも言ってるでしょう? 私たちは萌ちゃんやあの子たちと過ごすのが楽しいのよ。本当の娘みたいに思っているんだから」
いつものようにカラッとした笑顔の理恵が、「それで?」と話の続きを促してきた。
「ふたり揃って挨拶に来たってことは、そういうことなのかしら? 主人から萌ちゃんを追いかけてきたイケメン副社長の話を聞いて、ずっと気になってたのよ」
まるで続きの気になるドラマを見ているかのようなワクワクした表情に、緊張していた萌の身体から少し力が抜ける。
「えっと、いずれは彼と……家族になれたらなって」
「まぁまぁ! いいじゃない! よかったわね、萌ちゃん」
「ありがとうございます」
手をたたいて喜んでくれる理恵にも、妻の大きなリアクションに苦笑しながらも頷いてくれる田辺にも、何度感謝してもしきれない。
結婚を祝福してもらえるのがこんなに照れくさくて、泣きたくなるほど嬉しいなんて初めて知った。
「でも寂しくなるわね。いつ頃東京へ行く予定なの? もうふたりには話した?」
リビングにいる双子は、ふたりで積み木のおもちゃで遊んでいる。ちらりとそちらに視線を向け、萌は首を横に振った。
「いえ。まだ子供たちにはなにも話していないんです。それに社長と理恵さんにはとてもお世話になったのに、なんの恩返しもできないままここを離れるなんて」
「私たちのことは気にしなくていいのよ。ねぇ、あなた」
「あぁ。実は近々大規模な求人募集を出す手配をしてあるんだ。人を増やす余裕も出てきたし、どこかの熱い副社長さんが厄介な案件を持ちかけてきてね。今の人数じゃとても対処しきれないんだ」
茶目っ気たっぷりに田辺が微笑んだ。
これには萌だけでなく、晴臣も目を見開いて田辺の顔を見つめている。