始まりは愛のない契約でしたが、パパになった御曹司の愛に双子ごと捕まりました


満開の桜が咲き誇る緑道は一面ピンク色に染まり、晴れ渡った青空とのコントラストが美しい。

四月第一週の気持ちのいい春の日の朝、秋月萌は両手に二歳になったばかりの子供たちを連れて保育園へ向かっていた。

今月末に二十七歳を迎える萌は、セミロングの髪をチョコレートブラウンに染め、耳と同じ高さでひとつ結びにしている。

手入れを多少疎かにしても白くきめ細やかな肌は透明感があり、日焼け止めにパウダーをはたくだけのナチュラルメイクで出掛けられるのがありがたい。

身長は平均的な百六十センチ。細身ではあるものの、以前よりはかなり健康的な体形になった。

服装もメイクと同じくシンプルで、アイロンなしで着られる素材のオフホワイトのブラウスに、紺色のアンクル丈のテーパードパンツの組み合わせは、ほぼ毎日代わり映えしない。

双子の育児にかかりきりなため自分自身のことは後回しとなり、おしゃれに縁遠い萌だが、唯一ネックレスだけは毎日欠かさず身に着けている。

四つ葉をモチーフにしたデザインで、ホワイトゴールドとダイヤで形作られているネックレスは胸元で上品な輝きを放つ。

萌にとってこのネックレスはおしゃれをしたくて身に着けているというよりも、自分を奮い立たせるお守りのような存在だ。


「ママ! はぁく!」
「はやくー、ママぁ」
「陽太、光莉、慌てて走らないの。転ばないでね」

足取りはしっかりしてきたものの、テンションが上がるとすぐに転んでしまうのが二歳児。

保育園の門をくぐった途端、待ちきれずに走り出した双子の背中に呼びかけた。

陽太は白いTシャツにデニムのハーフパンツ、髪には寝癖がついたままだ。一方、光莉は陽太とお揃いのTシャツにデニムのミニスカートを合わせ、その下にレギンスを履いたスタイル。肩につく長さの髪は、最近お気に入りのツインテールにして朝からご満悦だった。

よくこうしたお揃いのコーディネートを着せるせいか、散歩や買い物中に「双子ちゃん可愛いですね」と声を掛けてもらうことが多い。

男女の双子なため二卵性ではあるが、陽太と光莉はよく似ている。同じサイズの小さな子供がふたり手を繋いでいるだけでも可愛いけれど、陽太と光莉は親の贔屓目を差し引いても整った顔立ちをしていると思う。

ふとした瞬間の横顔や、ご飯を食べて「おいちい!」と満足そうに笑う顔など、ハッとするほど彼らの父親に似ているのだ。

そう感じるたびに、萌は端正な顔立ちをしている彼の面影を頭の中から追い出し、必死に忘れようと努力しながらふたりを育ててきた。


金曜日でも疲れ知らずの双子は早く遊びたくて仕方がないようで、一目散に玄関ホールへ向かっていく。

萌は出迎えてくれた保育士に挨拶をしてふたり分の荷物を渡すと、靴箱で外靴から内履きに履き替えているふたりに「陽太、光莉、いってらっしゃい」と手を振った。

「ママも、いったっしゃー」

双子らしくぴったりと声を揃えて返事をするふたりの可愛さに微笑み、萌は今来た道を引き返す。

萌の勤める『田辺ネジ製作所』は、自宅と保育園の中間にある。従業員数二十名ほどの小さな会社だが、社長の人柄と才覚で業績は右肩上がりの優良企業。

萌はそこで経理などの事務として働きながら、大切な宝物である双子を育てるシングルマザーだ。

事務所に出勤すると、社長の田辺から早速頼まれ事をされた。

「萌ちゃん、おはよう。悪いんだけどお昼までに茶菓子を買ってきてくれるかな? 用意するのをすっかり忘れてしまってね」
「おはようございます。もちろんいいですけど、珍しいですね。お客様が見えるんですか?」
「そうなんだよ。まさかうちまで足を運んでくれるとは思わなかったから戸惑ってるんだけど、話だけでも聞こうと思ってね。じゃあよろしく。アポは十四時の予定だから」
「わかりました」


萌は午前中に済ませたかった業務を手早く終えると、最近評判だと噂の和菓子屋でどら焼きを買い、応接室の準備に取り掛かった。

ひとり掛けのソファがふたつと、向かいに三人掛けのソファがひとつ。その間にローテーブルが置かれている。窓際には観葉植物と、これまで会社が手掛けたねじがガラス張りのチェストに並べられているだけのシンプルな室内だ。

普段から綺麗に掃除をしているつもりだが、田辺の口ぶりから大切な客だと窺える。いつも以上に丁寧にテーブルを磨き、すぐに出せるよう給湯室で急須や湯呑みを準備しておく。

約束の相手は時間の五分前に到着したようで、お茶を淹れてどら焼きと一緒にお盆に乗せて応接室へ向かった。

ノックのあとに田辺が中から「どうぞ」と応答したのを聞き、萌はゆっくりとドアを開ける。

「失礼いたします」

中には三人の男性の姿があった。社長の田辺がひとり掛けのソファに、来客のふたりは彼の向かいに腰を下ろしている。

萌のノックに反応し、こちらに視線を向けた男性を見た瞬間。萌は目を見開き身体を硬直させた。

(うそ……!)

そこにいたのは日本屈指の大企業である『桐生自動車』御曹司、桐生晴臣。


三年前にお見合いで出会い、結婚の約束をしていたにもかかわらず、萌が酷い言葉で傷付けて別れた相手だ。

そして、双子の父親でもある。

けれど彼は萌が妊娠した事実を知らないまま海外へと旅立った。

この三年間、一度も連絡をとっていないし、彼との繋がりはすべて断ち切ったはずだった。

(どうして晴臣さんがここに……)

あまりの驚きに、動揺で全身に震えが走る。

懐かしさと愛しさ、押しつぶされそうな罪悪感といった様々な感情が溢れ出し、萌はお盆を持ったまま一歩も動けない。

そして萌を見て驚き固まっているのは、田辺の向かいに座っていた晴臣も同様だった。

オーダーメイドであろうグレーの細身のスーツを着こなし、簡素な事務所の応接室に不釣り合いなほどキラキラとしたオーラを纏った彼が、信じられないとばかりに言葉を失ってこちらを見つめている。


萌は冷静になろうと必死に浅い呼吸を繰り返した。

(大丈夫。あんなに酷い別れ方をしたんだから、きっと私のことなんて忘れて素敵な結婚をしてるはず)

そうだとすれば、万が一にも双子の存在を知られるわけにはいかない。

萌は混乱しながらもなんとか思考を働かせるが、自分の考えた仮説に胸が引き裂かれるほど苦しくなる。

けれど、そうなるように仕向けたのは萌自身だ。

(もう、あの頃には戻れない……)

目の前の彼から贈られた四つ葉のネックレスが、萌の胸元で煌めきながらふたりの再会を静かに見守っていた。



今から三年前。桜の散りきった四月中旬の土曜日。

初めて踏み入れた一流高級ホテル『アナスタシア』の地下一階、老舗の日本料理店『なでしこ』の個室で、萌は俯いたままひと言も口を利かずに身を小さくしていた。

紫綬褒章を賜ったほどの料理人が長を務め、芸能人や財界の要人などがこぞって利用するこの店内には、和楽器で演奏されたジャズが上品な音量で流れている。

普段はカットソーにパンツスタイルばかりの萌だが、今日は薄いラベンダー色のワンピースを身に着けていた。

七分袖から出た手首やレースで飾られたデコルテは少し力を加えれば折れてしまいそうなほど細く、ウエストが絞られたデザインであるにもかかわらず身体のラインを拾わないほどだ。痩せているというよりも、やつれているといった方が正しい。

量販店で購入した安物なため生地はぺらぺらで、とてもこの場に相応しい装いとは言い難い。

しかし、それよりも居たたまれないのは、鏡を見るのも躊躇われるほど酷い自分の髪の毛だ。