「秋月の口癖でした。萌ちゃん、覚えていたんだなぁ」
「……萌は、いつからこちらに?」
つい堪えきれずに尋ねてしまったが、田辺は嫌な顔をすることなく、萌を思う優しい瞳のまま晴臣に微笑んだ。
「三年前かな。東京で色々あったようで、僕を頼って来てくれたんです」
「あの、萌は――」
「なにか事情があるようだけど、あとは僕じゃなく萌ちゃん本人と話した方がいい」
田辺は、さらに質問を重ねようとした晴臣の言葉を遮った。
当然の言い分ではあるが、萌の先ほどの様子では話をしようにも難しそうだ。それに彼女を連れ去っていったのは、他でもない田辺の息子である。
その思いが顔に出ていたのか、田辺は晴臣の表情を見ると肩を竦めて苦笑した。
「僕はもちろん、息子の康平も彼女を大切に思っているんです。なにしろこの三年間、家族のように過ごしてきましたから。無理強いは困りますが、彼女は話をしたいと切望する相手をいつまでも無視できるような子じゃないでしょう」
晴臣が萌と過ごしたのはたった三ヶ月ほど。それでも有無を言わさず晴臣を拒絶するような真似はしないと思えるのは、人を思いやるあたたかい優しさを持っている女性だと知っているからだ。
田辺に「来週、お待ちしていますね」と見送られ、晴臣は小倉が事前に呼んでいたタクシーに乗り込んだ。
ゆっくり車が発進すると、晴臣よりも先に隣に座る小倉から「はぁぁぁ」とため息とも感嘆ともとれない声が漏れた。
「……なんですか」
「あの女性が、副社長が毎回見合い話を断るたびに言う『心に決めた女性』ですか。てっきり穏便に断る方便だと思ってました」
興味津々といった感情を隠さず話す小倉は、今年三十六歳になる秘書室の室長。
先月帰国してすぐに副社長に就任した晴臣についた専属秘書で、晴臣の多忙なスケジュール管理や慶弔業務などはもちろん、各部署との調整や資料の作成など多岐にわたる業務をこなしている。
まだ一緒に仕事を始めて一ヶ月ほどだが、晴臣が仕事をしやすいようにすべて整えてあり、一言えば十理解して動く。短期間でもかなり有能な男だと知れた。
「何人もの女性を泣かせてきた副社長が、まさか見合い相手に逃げられていたなんて……」
「語弊のある言い方をしないでください。俺は誰も泣かせていません」
「逃げられはしたんですね」
今日見られていた場面はもちろん、三年前についても否定できないのが悔しい。
小倉の〝桐生自動車の御曹司〟に対して媚び諂いをしない人柄や、遠慮のない物言いをするところは気に入っているが、さすがにプライベートに踏み込みすぎた軽口にジロリと睨みつける。
しかし彼は晴臣の視線など物ともせずに可笑しそうに続けた。
「田辺社長の息子さんと随分親しそうでしたし、これは前途多難ですね」
「小倉さん、面白がってませんか?」
「嫌ですね、副社長。桐生自動車の御曹司でイケメン、仕事もできてついに満を持して副社長就任。そんな完璧な男が目の前で意中の女性を別の男に掻っ攫われてるのを間近で見るなんて、滅多にできる経験じゃないですからね。面白いに決まってるじゃないですか」
「……もういいです」
これ以上話していてもからかわれ続けると判断した晴臣は口を噤み、背もたれに身体を預けて目を閉じた。そうすれば浮かんでくるのは当然、萌のことだ。
(三年前よりも綺麗になってたな)
服装やメイクは簡素で華やかさはないが、相変わらず肌は雪のように白く美しく、チョコレート色に染められた髪は艷があった。以前よりも女性らしさが増し、清楚で清廉な雰囲気を纏っているのに不思議な色気がある。
なによりも晴臣を見つめる瞳は吸い込まれそうなほど綺麗で、身動きが取れないほど魅入られた。
(萌、どうしても君を諦められそうにない)
右手の甲を額に当て、首を反らした。
運命的な偶然によって再会し、ぷつんと切れてしまいそうなほど細くとも繋がりが出来た今、萌を諦めるという選択肢はない。彼女が誰のものにもなっていないのなら、もう一度やり直したい。
今度は互いにメリットがあるなどという打算的な結婚ではない。ただ萌を愛しているから、彼女の夫という立場がほしいのだ。
晴臣は望みを繋いだ四つ葉のネックレスを思い出す。
あのネックレスをプレゼントした時に交わした約束を果たしたい。萌の両親に代わり、これからはずっと自分が誕生日を祝うのだ。
そのためには、まずはふたりだけで話をしなくては。
晴臣は額に乗せた手をグッと握りしめ、萌をもう一度抱きしめるために自分を奮い立たせた。
唐突な再会の翌週。四月の第二火曜日。週末の雨で桜はほとんど散ってしまったが、今日はうってかわって初夏の陽気を感じさせる快晴だ。
「光莉、陽太。いっぱい遊んでおいでね」
土日は雨のせいで外遊びができなかったため、今朝は早くから「しゅー、する!」「ぶらんぶらん!」と、すべり台やブランコで遊ぶのだとテンションが高い。
保育園の靴箱の前でひとりずつハグとハイタッチをして見送ると、いつものように「ママも、いったっしゃー」と手を振ってから駆けていく。
今日も無事に双子を保育園へ預けると、来た道を引き返して職場へ向かった。
四月といえば、萌が担当する経理の仕事は決算処理で忙しい時期である。日々の通常業務に加え、一年間の伝票データからその年の損益を集計し、年次決算資料を作成しなくてはならない。
以前は事務員の竹内が事務所や工場の備品の管理や来客対応、経理、さらに社員旅行の手配までひとりでこなしていたらしいが、萌が入社してからは経理と来客対応は萌が彼女のあとを引き継いでいる。
以前の会社でも同じような業務を担当していたため、仕事を引き継ぐ際に竹内を煩わせずにできたのが幸いだった。
「萌ちゃんが来てくれたから、私は随分楽させてもらってるわ」
竹内はよくそう言って萌を褒めてくれるが、従業員が二十人ほどの小さな会社とはいえ、事務関連の仕事を一手に引き受けていた竹内の優秀さは計り知れない。いつだったかそう本人に伝えたところ、彼女は「年の功ってやつよ」と不敵に笑った。
その頼もしさがどこか母親を思い出させ、萌は田辺一家と同じくらい竹内を慕っている。
三年前までは誰にも頼れずひとり孤独に生きていたというのに、名古屋に来てからは周囲の人にとても恵まれていた。
田辺や理恵はもちろん、心配性の康平も、親子ほど年が離れているが気さくに話してくれる竹内も、他の従業員もみんな萌によくしてくれる。なによりも萌にとっての宝物、光莉と陽太がいる。
守りたいものができた今、これまでの弱い自分から脱却し、地に足をつけた自立した女性にならなくては。
そう思ってこの数年努力してきたのに、ここ数日はなにをしていても上の空だ。
今も決算資料を作成しているが、ふと先週の出来事が頭をよぎるたびにパソコンのキーボードをたたく指が止まり、なかなか集中できないでいる。
先週の金曜日、三年ぶりに再会した晴臣から声を掛けられた際、その場で固まった萌を康平が連れ出してくれたおかげで会話をせずに済んだ。
田辺いわく、田辺ネジの製品を気に入った桐生自動車から共同開発を持ち掛けられているが、あまりにチャレンジングな要望で品質が担保できないと感じ、折り合いがつかなかったらしい。
ホッとしたのもつかの間、『どうしても諦められないから、また来ると言っていたよ。若いのに骨のある副社長さんだね』という田辺の発言を聞き、次はいつここに晴臣がやってくるのかと気もそぞろだった。
(晴臣さん、副社長に就任したんだ。いつ日本に帰ってきたんだろう)
気づけば、また彼のことを考えている。
あのあと、彼から貰ったネックレスをつけているのに気付いて慌てて外した。未練がましく毎日身に着けていると知られては、きっと不快に思われてしまう。それ以降、家のクローゼットに大切にしまったままだ。
それに目ざとく気付いた康平に「いつものネックレス、外したのか」と尋ねられたが、飽きてきたから外したのだとはぐらかした。まさかあのネックレスが、先週やって来た大企業の副社長からプレゼントされたものとは思いもしないはずだ。
康平には晴臣について、父親同士が親しい関係だった縁で知り合った人物とだけ伝えた。見合い相手であり双子の父親だと伝えていないだけで、決して嘘ではない。彼は眉間に皺を寄せて「ふぅん」と頷いただけだった。
集中しきれないながらもなんとかミスなく業務をこなし、終業時間を迎えた。
このあとは双子を保育園へ迎えに行き、スーパーに寄って夕飯の買い物をしなくてはならない。見るものすべてに興味津々の二歳児をふたり連れてスーパーに行くのは、仕事以上に体力がいる。
萌は竹内に「お先に失礼します」と声を掛けて事務所を出た。
廊下を渡り二重の自動ドアの前まで来ると、傘立てなどが置かれている風除室でひとり佇む男性の姿がある。
(晴臣さん……!)
先週からずっと頭から離れない彼が再び目の前に現れ、思わず声が出そうになる。
そんな萌の気配に気付いた晴臣は、顔を上げるとすぐにこちらへやって来た。逃げる間もなく対面することになってしまった萌は、ただその場に立ち尽くすしかできない。
「どうして……」
唐突な再会からまだ一週間も経っていない。近い内にまた来ると聞いていたものの、まさかこんなにすぐだとは思わなかった。
今日は田辺に商談の予定は入っていなかったし、周囲を見る限り秘書らしき男性の姿も見えない。そもそも晴臣はスーツ姿ではなく私服姿だ。ということは仕事で来たわけではないだろうと想像がつく。
「ごめん。職場で待ち伏せなんて非常識だとわかってる。でもどうしても話がしたいんだ。時間をもらえないか」
なぜ。どうして。萌の頭の中に疑問符ばかりが浮かぶ。
あんなにもたくさん幸せを与えてもらったにもかかわらず、萌は一方的に約束を反故にして晴臣の元を去った。
副社長に就任したのならば以前にも増して忙しいはずなのに、わざわざ東京から名古屋まで来て、必死に萌と話したいと懇願する彼の意図がまったくわからない。話の内容の想像がつかず、不安ばかりが募っていく。
それなのに晴臣の真剣な眼差しに見つめられると、三年前に封印したはずの愛おしさが溢れ出してくるのが自分でも止められなかった。萌の中の彼への想いは消えず、色濃く残っている。
その証拠に、どれだけ双子が大切で愛おしく感じても、職場や周囲の人々に恵まれていると幸せを噛み締めても、萌の心にはぽっかりと大きく開いたままの空洞がある。
晴臣を愛し愛され、幸せで満たされていた日々を自らの手で壊したあの日からずっと、消えない喪失感を抱えて生きてきた。
彼の元を離れ、後悔しなかったと言えば嘘になる。
晴臣を愛しているがゆえに、迷惑をかけてはならないと身を切る思いで別れを選んだけれど、叔母や玲香の浅ましい欲望や秋月工業の不正を彼にすべて打ち明け、相談すべきだったのではないかと何度も頭をよぎった。
そのたびに、あれだけ悩み抜いて決断したのにくよくよと考えてしまう自分の弱さに辟易した。
けれど今さらなにを悔いてもあとの祭り。もう晴臣は恩知らずな萌など忘れて、素敵な女性を妻に迎えているに違いない。そう考えて自分を律した。
彼は会社を継ぐ立場にあり、社会的信頼を得るために結婚すべきだと考えていたのだ。副社長に就任したのなら、当然結婚しているだろう。陽太と光莉の存在を晴臣に知られるわけにはいかない。
萌は宝物であるふたりの愛らしい笑顔を思い出し、気持ちを強く持って晴臣に対峙した。
「ごめんなさい。私にはお話することはありません」
「君になくても俺にはある」
淡々と断ろうとしたが、より強い口調で返されてしまった。
本来、晴臣はとても穏やかで優しい人だ。彼が語気を強めたのは、萌が自分自身を『私なんか』と卑下し続けていた時と、別れを切り出した時の二回だけ。
そんな彼が、焦燥を孕んだ感情的な声で言い放つ。
「頼む、少しの時間でいい。今度は俺の願いを聞いてくれないか」
そう告げられ、萌は言葉に詰まる。
晴臣は萌の『縁談をなかったことにしたい』という唐突な願いを聞き入れてくれた。話をするための時間を作るなど、彼が受け入れてくれた萌のワガママに比べればとても小さな願いだ。