ぽつりぽつりと話してくれた梓葉の話に私はただただ胸が苦しくなった。
私と別れた後から結婚するまでは、おおよそは聞いていた通りだった。
結婚して子どもも生まれ幸せにしていると思っていた。
だが、その幸せは長くは続かなかった。

梓葉の結婚相手であり、梓葉を生涯かけて幸せにしなければならない筈のその男は、
梓葉を裏切り他の女と関係をもったのだ。

男は真面目だけが取り柄の様な男だった。
その真面目さに梓葉の両親は梓葉を託し、
梓葉も真面目で不器用な優しさもあるその男に少しずつ惹かれていった。

だが、高校を卒業し仕事に精を出し遊び回る事のなかった男はただ一度、仕事のつきあいでクラブへいった。
その時に出会った女にいとも簡単におとされ夢中なった。
朝帰りが増え梓葉との仲は冷え込む一方。

それでも梓葉は男を信じた。
浮気はただの気の迷い、きっとすぐに戻ってきてまた家族で幸せに過ごせると思い、毎日帰ってこない男の食事を作り娘と家をたったひとりで守っていた。 

男も娘は大事なのか、娘に対しては優しい父親でい続けた。
いつかまた3人で幸せに、
それだけを願っていたのに、
ささやかな、それでも確かな幸せを願っていたのに、
男は梓葉へ気持ちが戻る事はなかった。
そして告げられた、
『別れてくれ、柚葉は俺が引き取って相手の女性と一緒に育てる。
工場は亡くなった先代から俺が引き継いでいるのだから君が出ていってくれ』
と、何とも勝手過ぎる言葉を、それは無慈悲に。

それを聞いた瞬間、梓葉はもう何もかも信じられなくなった。
工場の経営自体は男が確かに取り仕切っていたが、工場も家も梓葉の父親が亡くなる時に梓葉に遺した物、名義は梓葉だ。
だが男はそれらの権利を娘の養育費代わりに自分に譲る様に言ってきた。

その話し合いの場には、男の相手の女も同席していた。
派手に着飾った女は梓葉を値踏みするようにジロジロと見て、笑ったそうだ。

それが梓葉をいっそう惨めな気持ちにさせた。

自分は毎日毎日ひとりで娘を育てて家を守ってきた、
着飾る事なんてない、
目の前の女は手入れの行き届いた髪に肌、綺麗なネイル、身に付ける物はブランド品、
それに比べて自分は……。

それでも、自分は守るべきものを守ってきた、
だからそう簡単に全て渡す訳にはいかない、
娘のためにも、戦う、
娘だけは絶対に渡さない、
そう思い2人の思い通りになんてさせないと決心した時、寝ていた娘が部屋に入ってきた。

すぐに気づき娘を抱いた梓葉の耳に非情な言葉が響く、

『わぁ〜、綺麗なお姉ちゃんだね、
お手々可愛いねぇ〜』

無邪気な子どもの素直なひと言、
そこに悪意なんてものは一切ない、
ただ見た通りに言葉が出ただけ。

だが、梓葉の心はズタボロになった。

ただただ願った小さな幸せ、
その幸せを取り戻すために必死でひとりで戦い、守ってきた、娘を、家を。
自分の身なりなんて最低限にしか出来なかった。
ただ、不潔でなく清潔であればいい。
長く伸ばしネイルした爪は家事をするのに向かない、何より娘を傷つける恐れがある、したがって爪は短く切り揃える、
髪の毛も染めたりせずただ、だらしなくはないようにカットだけはしていた、
ブランド品なんて一切買わない、そんな物にお金をかける位なら娘の将来のために貯金する、
工場も古くなってきた所を直さなければいけない、自分にかけるお金等必要ない、
全ては娘のためにもう一度、幸せな家庭を取り戻すために、
そう頑張ってきた自分が全て否定された気がした。

プツンと、何かが切れた。

ご飯を食べられなくなった。
眠れなくなった。
ただただ涙が流れていく。
それでも娘だけはとの思いから必死に立ち直ろうとした。
だが男は
妻の被害妄想が酷い、
娘をほったらかしで寝てばかり、
精神病だと言い張り梓葉を病院へ押し込んだ。

誰もこない、男も、娘も。
ただただ、栄養をおくる点滴を入れられ、ただただ、生かされている。

そんな中一度だけ男が来た。
梓葉は喜んだ、
ここから出してくれるんだ、
私を迎えに来てくれたんだ、
また家族3人で幸せに暮らせるんだ、
そう、思ったのに、
男は梓葉に告げた、

『柚葉は新しい母親に懐いている。
もう柚葉に君は必要ない』

そう言って1枚の紙だけを置いてさっさと帰った。
それは、既に片方が記入された離婚届だった。

その瞬間、梓葉の心は壊れた。

そして毎日考える様になった。
自分は誰からも必要とされていない、
娘にも忘れられている、
自分のしてきた事は全て無駄だった、
自分には何の価値もない、
もう、いなくなってしまいたい、
と。

「……何度も死のうとしたの。
だけどやっぱり娘が気がかりで。
……ちゃんとご飯食べてるかな、とか、
ちゃんとお世話してもらってるかな、とか
寂しい思いしていないかな、とか泣いていないかな、とか。
……馬鹿みたいでしょ?
そんな訳ないのに……」

そう言って寂しそうに、悲しそうに、
それでも無理して何とか笑う梓葉を私はたまらず抱きしめた。

「かず君……、
かず君、やっぱり優しいね、
あったかいなぁ……」

そう言って涙を流す梓葉に私はただただ怒りが沸いていた。
こんなにも梓葉を苦しめ、悲しませた男に、
そして相手の女に。

「……梓葉、僕に出来る事はない?」

「かず君に、出来る事……?」

「……ああ、何でもするよ。
ここから出たいならすぐに出よう。
梓葉が住む場所は用意する。
娘も一緒がいいならすぐに娘を引き取れる様に弁護士に言っておく。
梓葉と梓葉の娘は、僕が必ず守るよ。
だから……」

「だったら……」

私の言葉を遮り、私を真っ直ぐに見る梓葉。
その顔は昔、見た事がある。

梓葉が本当に強い決意をした時にだけ見せる、
その真っ直ぐで強い、表情。

「かず君、私と、
……私と一緒に死んで」


真っ直ぐに私を見て、
梓葉は静かに、だけど強く、
そう言った。




……思えばこの時の梓葉はまだ心を病んでいたのだろう。
正常な判断が出来なかっただろう。
それでも私は、

梓葉の強い思いに応えたい、それだけしか考えられなくなっていた。

自分を選んでくれたと、
自分と一緒に死にたいと、
そう、言ってくれた事に
喜びも感じていたのかも知れない。


この時の私も、
もう戻れなくなっていた。

ただ、ひと言、

僕には君が必要だ

そのひと言だけで良かったはずなのに。