人を殺した後に母親の優しさに触れるなんて思わなかった。
「一哉は昔から本当に手のかからない子だったわね。
我儘ひとつ言わず父親の言う通りに勉強を頑張ってまわりからの評判もすごく良くて」
懐かしそうに目を細めるも少し悲しそうに見えるのは気のせいだろうか。
……こんな風に母親とふたりで話す日が来るなんて思わなかった。
だって俺は桐生の家を継ぐためだけに生まれただけで、母親は俺を生んだら役目は果たしたとばかりに俺を家政婦に任せっぱなしで遊び回っていると聞いていたし、実際にその通りだと疑う事はなかった。
「良く出来た優秀な息子で羨ましい、さすがは桐生家の跡取りだ、なんてよく言われたけれど私はその言葉が大嫌いだったわ。
……一哉が一哉でいられなくなる呪いの言葉のようで」
「……え?」
母さんの言葉に心臓がドクンと大きく音を立てた。
だってずっと嫌だったんだ、親やまわりが望むいい子の仮面を被るのが、ひたすらに自分を押し殺していい子を演じるのが。
母さんの言葉は俺のそんな思いを分かってくれていたのかと、そう思うには十分な言葉だった。
「だって一哉には一哉の人生があるのに桐生の家を継ぐためのレールをまわりが固めていってるみたいじゃない?
……これじゃあ私と同じじゃないって反発心だけが自分の中でどんどん膨らんでいったわ」
「母さんと、同じって……?」
「私も生まれた時から人生のレールが敷かれていたのよ。
学校も友人も、結婚相手も全て用意されていたわ」
両親が政略結婚だとは聞いていた。
父親が経営者としてトップに立っている会社は父親の祖父、俺にとっての曾祖父が1から立ち上げた小さな会社だった。
その会社を大企業にまで大きくしたのは祖父と父だと聞いている。
そして母親の家もまた元華族の家系という華やかな出身だ。
しかし母親が子どもの頃から少しずつ金銭面で苦しむ事が増えてきたらしい。
収入に見合った生活をしたらいいだけなのだがそこは元華族としてのプライドや見栄、しがらみやらがあり難しく困っていたところに、ある小さなパーティーで知り合ったお互いの父親が自分達の子どもが歳も近く異性同士だと知りまだ幼い子ども達を結婚させようと決めたのだ。
桐生の家は元々は農家だった。
曾祖父は農家の生まれを誇りに思っていたが祖父は違った。
自分の出身を恥じそれなりの地位を持つ家柄を手に入れたがっていた。
そして母方の実家はとにかく金銭面での苦しみから逃れるためのお金を手に入れたがった。
企業が順調に成長し大きな財産を手にした祖父、
元華族という文句なしの家柄の母方の実家、
双方の利害が一致した政略結婚だ。
こうして桐生の家は元華族出身の妻を迎え入れ地位と箔を手に入れ、母方の実家は生活レベルを落とさずにすむ程のお金と生活を保障された。
お互いの父親が自分達の利益のためだけに決めた自分達の結婚、愛なんてなくても仕方がないだろう。
現に父親は仕事人間で家の事はもちろん、俺にも母さんにも興味はない。
たまに帰れば義務の様に、誰に向けてかは知らないが体裁を取り繕う様に家族で食事をして俺に跡取りとして勉強を怠る事のない様に、桐生の家の人間として相応しい振る舞いをする様にと言ってくるだけ。
そして、俺に分かるように遠回しに母さんへの嫌味をひと言付け加える。
「親の望む通りに桐生の家に嫁いだけれど、最初から諦めてた訳じゃないわ、例え政略結婚だとしても私がちゃんとあの人を愛してそして子どもも生まれたら幸せな家庭を築けるかも知れない、なんて希望もあった。
それにあなたが生まれた時は本当に嬉しかった。
そして思ったの、この子にだけは私と同じ思いをさせちゃいけない、この子には桐生の家なんて関係なく自分の人生を歩いてほしいって」
そう話す母さんはいつもとは違う穏やかな笑みを浮かべてはいたがやっぱり少し、悲しそうに見える。
「でも駄目だった。
私にはあなたを育てる権利なんて最初から与えられなかった。
あなたが物心つく頃にはすぐに桐生の家のやり方に沿うように家政婦や家庭教師がつけられて私はお役御免でお金だけ好きに与えられてあなたに桐生の者の許可なく近づく事を許されなくなった」
……正直、最初は母さんの話を疑う気持ちがなかった訳でもない。
だけど、悲しそうに話す母さんの表情、
そして何よりふと頬に添えられた母さんの手が暖かくて、その暖かさには確かに覚えがあって、
俺は母さんの話を素直に信じる事が出来た。
「本当は私の手で、私が育てたかった。
一哉に好きな事をたくさんさせてあげたかった。
たくさんの景色を一緒にみてたくさん抱きしめてあげたかった。
……本当にごめんなさいね」
本当に悲しそうにそう謝る母さんに居たたまれない気持ちになる。
それと同時に嬉しさも込み上げる、
俺は、ちゃんと母さんに愛されていたんだと。
でも、疑問もある、
どうして母さんは今こんな話を俺にしたんだ?
そう、率直に聞いてみるも母さんはやっぱり穏やかな笑みを浮かべ、そしてやっぱり少しの悲しみを浮かべながら言った、
「一哉が今、何か大きな事を抱えているからよ」
そう、はっきりと言う母さんにまた心臓がドクンと大きく音を立てた。
どうして、どうして分かったんだ……?
言葉に出来なくてただもじもじと指を動かすしか出来ない俺に母さんは話を続ける。
「分かるわよ、ずっと一緒にいられなかったけど私は一哉の母親だもの。
だから、これだけは伝えときたくて」
そう言って母さんは俺の両手をそっと包み込む様に握った。
「私だけは何があっても一哉の味方だからね。
例え世界中が一哉の敵になっても母さんだけはずっとずっと一哉の味方。
……今更って思うだろうけど、母さんは一哉の事だけは一生愛している。
桐生の家を気にする必要はないわ。
一哉には一哉の人生があるの、だからね、
安心して好きに生きなさい」
そう言って穏やかな笑みを浮かべる母さんに俺は耐えきれず泣いてしまった。
次から次へと止まる事がなく流れる涙。
あれだけ泣いたというのに、まだ流れる涙があったのかと驚く程に俺は幼い子どもの様に声を上げて泣いた。
そんな俺を母さんは優しく抱きしめてくれた。
まるで今までの分を埋めるかの様に。
……柚葉、
柚葉があんな酷い事をされても母親を庇っていたのは、もしかしたら母親の愛情を知っていたから?
今更愛情を確認出来た俺とは逆で柚葉は幼い頃からずっと受け続けていた愛情を確かに覚えていて刻み込まれていて、だから日常的に暴力や暴言を受けてもいつかはまた昔の様に自分を愛してくれると信じていたから?
だとしたら、俺はとんでもない過ちを犯した。
そうでなくても人殺しなんて最大の過ちで犯罪だ。
……自首しよう。
それが今俺に出来る柚葉と柚葉の母親へのたったひとつの贖罪だ。
母さん、俺に対しての愛情を話してくれて、気づかせてくれてありがとう。
母さん、俺、人を殺したんだ。
それでも母さんは俺の味方でいてくれるのかな?
世界中が俺の敵になっても、本当にたったひとりで味方になってくれるかな?
ごめんなさい、母さん。
ちゃんと愛してくれていたのに。
人を殺した俺が息子で、ごめんなさい。
人殺しの母親にしてしまって、
ごめんなさい。
この時の俺は、自首する気持ちを固めていた。
人殺しだとレッテルを貼られ一生人に後ろ指さされながら生きていく恐怖はあった。
母さんを悲しませる事も分かっていた。
だけど、卑怯だけど人を殺したという罪が誰にもバレずに一生自分の中で抱えて生きていく覚悟もなかった。
そして、自首する事が柚葉にとっても1番いいだろうと思った。
このまま俺が自首しなければ、柚葉にも秘密を抱えて生きていく苦しみを背負わせる事になる。
柚葉から母親を奪っておいて、その罪まで一緒に背負わせた挙げ句、俺の母親は生きてて俺の味方を約束してくれている。
そんなの許される訳がない。
ごめんね、柚葉。
柚葉から母親を奪って。
柚葉をひとりぼっちにして苦しめて。
俺、自首するよ。
そして罪を償うよ。
だから柚葉は、幸せになって。
そう、本気で思ってた。
だけど、柚葉は違ったんだ。
柚葉の思いも狙いも、俺は何も
知らなかったんだ。
それを思い知るのは、まだまだ後の事――。
「一哉は昔から本当に手のかからない子だったわね。
我儘ひとつ言わず父親の言う通りに勉強を頑張ってまわりからの評判もすごく良くて」
懐かしそうに目を細めるも少し悲しそうに見えるのは気のせいだろうか。
……こんな風に母親とふたりで話す日が来るなんて思わなかった。
だって俺は桐生の家を継ぐためだけに生まれただけで、母親は俺を生んだら役目は果たしたとばかりに俺を家政婦に任せっぱなしで遊び回っていると聞いていたし、実際にその通りだと疑う事はなかった。
「良く出来た優秀な息子で羨ましい、さすがは桐生家の跡取りだ、なんてよく言われたけれど私はその言葉が大嫌いだったわ。
……一哉が一哉でいられなくなる呪いの言葉のようで」
「……え?」
母さんの言葉に心臓がドクンと大きく音を立てた。
だってずっと嫌だったんだ、親やまわりが望むいい子の仮面を被るのが、ひたすらに自分を押し殺していい子を演じるのが。
母さんの言葉は俺のそんな思いを分かってくれていたのかと、そう思うには十分な言葉だった。
「だって一哉には一哉の人生があるのに桐生の家を継ぐためのレールをまわりが固めていってるみたいじゃない?
……これじゃあ私と同じじゃないって反発心だけが自分の中でどんどん膨らんでいったわ」
「母さんと、同じって……?」
「私も生まれた時から人生のレールが敷かれていたのよ。
学校も友人も、結婚相手も全て用意されていたわ」
両親が政略結婚だとは聞いていた。
父親が経営者としてトップに立っている会社は父親の祖父、俺にとっての曾祖父が1から立ち上げた小さな会社だった。
その会社を大企業にまで大きくしたのは祖父と父だと聞いている。
そして母親の家もまた元華族の家系という華やかな出身だ。
しかし母親が子どもの頃から少しずつ金銭面で苦しむ事が増えてきたらしい。
収入に見合った生活をしたらいいだけなのだがそこは元華族としてのプライドや見栄、しがらみやらがあり難しく困っていたところに、ある小さなパーティーで知り合ったお互いの父親が自分達の子どもが歳も近く異性同士だと知りまだ幼い子ども達を結婚させようと決めたのだ。
桐生の家は元々は農家だった。
曾祖父は農家の生まれを誇りに思っていたが祖父は違った。
自分の出身を恥じそれなりの地位を持つ家柄を手に入れたがっていた。
そして母方の実家はとにかく金銭面での苦しみから逃れるためのお金を手に入れたがった。
企業が順調に成長し大きな財産を手にした祖父、
元華族という文句なしの家柄の母方の実家、
双方の利害が一致した政略結婚だ。
こうして桐生の家は元華族出身の妻を迎え入れ地位と箔を手に入れ、母方の実家は生活レベルを落とさずにすむ程のお金と生活を保障された。
お互いの父親が自分達の利益のためだけに決めた自分達の結婚、愛なんてなくても仕方がないだろう。
現に父親は仕事人間で家の事はもちろん、俺にも母さんにも興味はない。
たまに帰れば義務の様に、誰に向けてかは知らないが体裁を取り繕う様に家族で食事をして俺に跡取りとして勉強を怠る事のない様に、桐生の家の人間として相応しい振る舞いをする様にと言ってくるだけ。
そして、俺に分かるように遠回しに母さんへの嫌味をひと言付け加える。
「親の望む通りに桐生の家に嫁いだけれど、最初から諦めてた訳じゃないわ、例え政略結婚だとしても私がちゃんとあの人を愛してそして子どもも生まれたら幸せな家庭を築けるかも知れない、なんて希望もあった。
それにあなたが生まれた時は本当に嬉しかった。
そして思ったの、この子にだけは私と同じ思いをさせちゃいけない、この子には桐生の家なんて関係なく自分の人生を歩いてほしいって」
そう話す母さんはいつもとは違う穏やかな笑みを浮かべてはいたがやっぱり少し、悲しそうに見える。
「でも駄目だった。
私にはあなたを育てる権利なんて最初から与えられなかった。
あなたが物心つく頃にはすぐに桐生の家のやり方に沿うように家政婦や家庭教師がつけられて私はお役御免でお金だけ好きに与えられてあなたに桐生の者の許可なく近づく事を許されなくなった」
……正直、最初は母さんの話を疑う気持ちがなかった訳でもない。
だけど、悲しそうに話す母さんの表情、
そして何よりふと頬に添えられた母さんの手が暖かくて、その暖かさには確かに覚えがあって、
俺は母さんの話を素直に信じる事が出来た。
「本当は私の手で、私が育てたかった。
一哉に好きな事をたくさんさせてあげたかった。
たくさんの景色を一緒にみてたくさん抱きしめてあげたかった。
……本当にごめんなさいね」
本当に悲しそうにそう謝る母さんに居たたまれない気持ちになる。
それと同時に嬉しさも込み上げる、
俺は、ちゃんと母さんに愛されていたんだと。
でも、疑問もある、
どうして母さんは今こんな話を俺にしたんだ?
そう、率直に聞いてみるも母さんはやっぱり穏やかな笑みを浮かべ、そしてやっぱり少しの悲しみを浮かべながら言った、
「一哉が今、何か大きな事を抱えているからよ」
そう、はっきりと言う母さんにまた心臓がドクンと大きく音を立てた。
どうして、どうして分かったんだ……?
言葉に出来なくてただもじもじと指を動かすしか出来ない俺に母さんは話を続ける。
「分かるわよ、ずっと一緒にいられなかったけど私は一哉の母親だもの。
だから、これだけは伝えときたくて」
そう言って母さんは俺の両手をそっと包み込む様に握った。
「私だけは何があっても一哉の味方だからね。
例え世界中が一哉の敵になっても母さんだけはずっとずっと一哉の味方。
……今更って思うだろうけど、母さんは一哉の事だけは一生愛している。
桐生の家を気にする必要はないわ。
一哉には一哉の人生があるの、だからね、
安心して好きに生きなさい」
そう言って穏やかな笑みを浮かべる母さんに俺は耐えきれず泣いてしまった。
次から次へと止まる事がなく流れる涙。
あれだけ泣いたというのに、まだ流れる涙があったのかと驚く程に俺は幼い子どもの様に声を上げて泣いた。
そんな俺を母さんは優しく抱きしめてくれた。
まるで今までの分を埋めるかの様に。
……柚葉、
柚葉があんな酷い事をされても母親を庇っていたのは、もしかしたら母親の愛情を知っていたから?
今更愛情を確認出来た俺とは逆で柚葉は幼い頃からずっと受け続けていた愛情を確かに覚えていて刻み込まれていて、だから日常的に暴力や暴言を受けてもいつかはまた昔の様に自分を愛してくれると信じていたから?
だとしたら、俺はとんでもない過ちを犯した。
そうでなくても人殺しなんて最大の過ちで犯罪だ。
……自首しよう。
それが今俺に出来る柚葉と柚葉の母親へのたったひとつの贖罪だ。
母さん、俺に対しての愛情を話してくれて、気づかせてくれてありがとう。
母さん、俺、人を殺したんだ。
それでも母さんは俺の味方でいてくれるのかな?
世界中が俺の敵になっても、本当にたったひとりで味方になってくれるかな?
ごめんなさい、母さん。
ちゃんと愛してくれていたのに。
人を殺した俺が息子で、ごめんなさい。
人殺しの母親にしてしまって、
ごめんなさい。
この時の俺は、自首する気持ちを固めていた。
人殺しだとレッテルを貼られ一生人に後ろ指さされながら生きていく恐怖はあった。
母さんを悲しませる事も分かっていた。
だけど、卑怯だけど人を殺したという罪が誰にもバレずに一生自分の中で抱えて生きていく覚悟もなかった。
そして、自首する事が柚葉にとっても1番いいだろうと思った。
このまま俺が自首しなければ、柚葉にも秘密を抱えて生きていく苦しみを背負わせる事になる。
柚葉から母親を奪っておいて、その罪まで一緒に背負わせた挙げ句、俺の母親は生きてて俺の味方を約束してくれている。
そんなの許される訳がない。
ごめんね、柚葉。
柚葉から母親を奪って。
柚葉をひとりぼっちにして苦しめて。
俺、自首するよ。
そして罪を償うよ。
だから柚葉は、幸せになって。
そう、本気で思ってた。
だけど、柚葉は違ったんだ。
柚葉の思いも狙いも、俺は何も
知らなかったんだ。
それを思い知るのは、まだまだ後の事――。