通話ボタンを押した瞬間、「あ、彩葉」と苛立った声に嫌な予感がした。

『彩葉。お前、友人の麗奈を見捨てて帰るなんて、何考えているんだよ?』
「見捨ててないわ。カフェに入りたいと言ったのも麗奈だし、自分で注文したのも彼女。私は仕事があるから先に帰っただけだもの。見捨てたってまた、お財布を忘れたとか?」
『そうだよ。いつもはお前が奢っていたんだろう?』
「全然違うわ。毎回、お財布を忘れて『次に返す』って言うだけで返したことも一度もなかったもの。奢ってあげるって私一度も言ってないわ。『貸す』とは言ったけれど」

 日頃から麗奈に対して貯まっていた鬱憤が、ここで爆発してしまった。私の剣幕に大雅は少しだけ怯んだが、『友達だろう』と言い返す。
 
『だいたい毎回と言っても何十回でもないだろうし、友達なら気前よく奢ってやってもいいんじゃないか? 彩葉だって店を持って金もあるだろう。アイツ、あのあと俺のところでバイトだったのに、無銭飲食で警察沙汰になりかけて大変だったんだぞ』
「友達だからって、毎回奢る関係なんて私は嫌よ」
『はあ。彩葉はもっと優しくて人として度量があると思っていたのに、失望したかも』

 心底残念そうな口調に、頭が痛くなった。それから一時間ほど説教めいたことを言いながら、友達は大事にしたほうが良いと頓珍漢(とんちんかん)な言葉を言い続けた。なんで恋人じゃなくて麗奈を庇うわけ? 
 友達──そう言いながらも大雅が言っているのは、麗奈のことばかりだ。

 こんなに価値観が違うのに、どうして二年も付き合っていられたのかしら。
 私は麗奈のように華やかではないし、黒髪で地味な服を着ているけれど気が弱い──とは違う。お節介は多少しても、自分の意見はしっかり持っている。
 本当は今後のことを大雅と話がしたかった。でも、それ以前の話だわ。

『俺が間を取り持つから、麗奈と仲直りしよう、な』

 この言葉でブチンと、私の中で何かが切れた。

「失望されてもいいわ。大雅、私たち今日で別れましょう。結婚を前提に色々考えてみたけれど、貴方と一緒に暮らしていくには価値観が違いすぎるもの」

 心臓バクバクで、それでも勇気を出して別れを告げたのだが、返ってきたのは笑い声だった。それもお腹を抱えて笑い転げるような、異様にテンションの高い。
 え、な──?

『あはははっ、あー、残念だけど彩葉。この間、プロポーズをして婚姻届にサインしただろう。あれもう提出したんだよ』
「はい?」

 意味の分からない言葉の羅列に、脳がフリーズする。
 婚姻届?
 サインした記憶も無いし、お酒を飲んだ勢い──ないわ。

『なんだ、覚えていなかったのか。でも家や店の名義、遺産関係も全部俺の名義にしていいって話もしてくれただろう』
「そ、そんな話、一度もしていないわ」
『それも忘れていただけだろう。大丈夫、すでに弁護士に頼んで書類の準備も終わるから。その証拠に印鑑を俺に預けてくれただろう』
「印鑑? そんなこと」

 そういえば私にプロポーズをした日、仕事の書類をテーブルに置いていたわ。大雅が片付けてくれていたけれど、あの時に判子を盗んだ?

「もしかして盗んだの!?」
『人聞きが悪い。俺がそんなことするわけないだろう。……ああ、結婚じゃなくて離婚ならしてあげるよ。もちろん、結婚期間中に俺の名義になった物は、俺の物になるけれど問題ないよね』

 まるで全て予定通りといわんばかりに語る口調は、妙に饒舌で慣れていた。この声の主が本当に、あの大雅なのかと疑わしく思うほど別人だった。
 それと同時に、こんなどうしようもない最低な人が彼氏だったのかと、頭が痛くなる。

『今は彩葉が住んでいても良いけれど、そのうち手紙が届くだろうから期日までに家を明け渡してくれよ』

 通話が切れた後も数分は、その場から動けなかった。
 現実とは思えない。なんだか悪夢を見ているよう。

「──っ、そうだ。印鑑!」

 情報量の多さに眩暈がしたけれど、まずは印鑑と通帳、必要な書類の確認だわ!
 豹変した大雅の言動にショックだったけれど、プロポーズされた直後ではなく別れを決めた後だったから、そこまでダメージはなかった。
 落ち込んで動けなくなるよりもずっといい。悲しむのは後からでもできる。

「うーん、印鑑もある。シャチハタはないけれど……あれは認印用には使えないだろうし……」

 家の中の貴重品の確認をしたが、基本的に遺産関係は弁護士さんと相談して銀行の貸金庫に預けてあるので、盗まれたものはシャチハタだけ……。
 そういえば最近は印鑑がなくても、婚姻届って出せたはず……。──って待って。婚姻届の偽装って罪になるし、土地の相続手続きって法務局に提出だったような? 
 ああ、でもその当たりは先生に──。
 そこで両親が亡くなった時に親身になってくれた弁護士先生の存在を思い出す。

『困ったことがあったら、頼ってくれて良いんだからな』

 その言葉を思い出した時に、両親の死後から二年という月日が経っていたと改めて実感する。本来なら先生にお礼を言うべきだったのに、この二年疎遠になっていた。両親が健在だったときは、私のヌイグルミや小物をよく褒めてくれていたのに……。

 携帯を操作して、先生の事務所に連絡を入れる。
 大雅との電話よりも緊張していたと思う。本当はもう少し気持ちが落ち着いてから相談すべきなのだろうけれど……。
 五回目のコールで繋がった。

『はい、神堂弁護士事務所です』