翌朝起きると、聡さんの姿はなかった。

 やっぱり私の側にはいられないと思ったのかもしれない。彼は画家で、お金もないし家もない。それでも一緒にいたかったけれど、叔父の会社のことを考えれば、相模原社長の提案を飲むしかないのだ。彼にもそれが分かったのだろう。

 未完成の絵は置いたままだった。絵の中の私も、夕陽の中、まるで泣いているかのように佇んでいる。なんて心を打つ作品なのだろう。餞別にくれたのだろうか。それともこんな女との思い出なんていらないということだろうか。

 昨夜の温もりがまだ鮮明に思い出せてしまい、それが心を締め付けて苦しい。彼の置いていった絵を眺めながら、私は泣いて過ごした。

 
 それから数日が経ち、ついに相模原社長に返事をする日がやってきた。
 聡さんとの思い出は宝物にして、心の中にしまうことにした。本当はとても辛い。彼に会いたくてたまらない。だけど、叔父に恩返しをするために、私は相模原社長と結婚すると決めていた。だから、彼の行方を探ることもしていない。

「灯……」
「叔父さん。お嫁に行っても時々は会いたいな」
「あたりまえだ! 君だって、私の娘同然なんだ」
「ふふっ。嬉しいです。ありがとうございます」

 叔父に御礼を言う。これから叔父とともに相模原商事に向かうのだ。社長室を出てエレベーターに乗り、一階ロビーから外へ出る。ロビーに何故か繭がいて、私の姿を捉えると気味悪く微笑んでいた。その表情を見て、隣で叔父が息を飲んだ。

「灯。私は長年、もしかしたらとんでもない見落としをしていたんじゃないか?」

 小声で叔父が問いかけてきたが、私はゆっくり首を振る。

「繭は私が嫌いなだけで、みんなから好かれる魅力的な子です」
「灯……」

 それ以上何も叔父は追求しなかった。過去のことを蒸し返したりはしない。これでいいのだ。

 二人でロビーを抜けて外に出たその時、黒塗りの高級車が会社の目の前に停められた。運転手が降り立ち、後部座席のドアを開く。降りてきたのは、予想にもしていなかった人だった。