相模原商事からの帰り道、叔父が「灯、あんな条件飲まなくていい」と言ってくれた。

「いいえ。やっとこれまでの御恩を返せる時が来たのだと……思います」
「だが! あの社長、酒癖が悪くて暴力を振るうって噂だ。実際、前妻とも離婚してるんだ! そんな奴に灯を……!」

 叔父さんのこんなにも深い愛情を、全部繭のものだった一部を、私にも与えてくれた。それは、何にも変えがたい恩だ。
 会社でも大した役にも立たない私が、やっと叔父さんの役に立てる。それはとても嬉しい。

 社用車の中、拳を握りしめて悔しそうに顔を歪める叔父さん。その手にそっと手を重ねた。

「いいの。きっと大丈夫です」
「っ! それでは兄さんに申し訳が立たない! 灯を引き取って、幸せに、幸せにしてやりたかったのに……!」
「きっと幸せになります。結婚したら社長夫人ですよ? しかも小笹コーポーレーションの得意先です。この繋がりが強固になれば、叔父さんの会社を私も盛り立てていける。やっと、役に立てるんです」
「灯……」
「お願い叔父さん。親代わりになってくれた叔父さんの力になりたいの。私に親孝行をさせてください」

 叔父が悔しそうに涙した。叔父の涙を見たのは、両親の葬儀以来のことだった。

***

 帰宅すると、スパイシーな香りが部屋中に充満していた。今日はカレーだ。なんだかホッとする。緊張の糸が、ぷつりと切れた気がした。

「おかえり、灯ちゃん」
「ただいま、聡さん」

 キッチンでカレーを混ぜていた聡さんは、火を止めて私の方へ寄ってくると、ちゅっとキスをした。嬉しくて、悲しくて、涙がじわりと目に浮かぶ。

「どうしたの? また元気ない?」
「あの……」

 言わなくちゃいけない。

 相模原社長との縁談を打ち明け、この生活を終わらせなければならない。でもまだ……本当は、終わらせたくない。

「また何かあったんだね?」

 優しい問いかけにコクリと頷く。その続きを説明しなければならないのに、後から後から涙が溢れて嗚咽が漏れ、言葉にならない。

「……っ。あ、あのっ……! ううっ」
「今は何も言わなくていい。明日は仕事休みでしょ? 職場の出来事はもう忘れて、俺とゆっくり過ごそう?」

 聡さんの長い指が、私の濡れた頬を優しく拭う。慈しむような眼差しが近づいてきて、私は目を閉じた。

 この週末までは夢を見させて。彼に打ち明ける勇気がたまったら、ちゃんと言うから。

 誰に許可を得るわけでもない、ただの言い訳を頭の中で並べながら、私はそのまま聡さんに全てを委ねたのだった。