「何を言って……うぉ!? 体が……浮いてる!?」

キルシュの魔術により、俺たち三人の体は地上から10mほどの高さに浮かび上がった。

空に浮かび上がり高速移動を可能とする移動の魔術“飛翔”である。

恐らく生まれて初めてこの魔術をかけられたであろうディートリヒは言うに及ばず、城門の警備兵から門を行き来している商人たちまでが、空を飛ぶ俺たちの姿を目にしてあんぐりと口を開いている。

そしてキルシュはといえば空の風を感じて子供のようにはしゃいでいた。

「空は見晴らしが良くていいねぇ。やっぱり空を飛ぶのが一番気持ちがいい!」

キルシュが飛行好きなのはマニアいや中毒者といっていいレベルで、魔術で空を飛ぶことが大好きな魔術師なのだ。

久しぶりの“飛翔”は彼の心をいたく高揚させているようで、しばらくその気持ちに浸らせておきたかったが、生憎俺たちにはあまり時間がない。

俺はキルシュに制止の声をかけた。

「キルシュ、今は急いだほうがよいのでは?」

おっと、そうだね。楽しんでいる場合じゃなかった。ナビは任せるよ、ザイ!」

「了解です、キルシュ」

キルシュが“飛翔”の状態を浮遊から高速移動に切り替えると、風に乗った俺たちの体は一気に南方に向けて飛び出した。

「え、ちょ、何……ぎゃあああああああああ!!」

「移動中に口を開けていると舌を噛むぞ」

「そ、そういうことは先に言って……いて、舌噛んだ!」

大口を開けて絶叫しているディートリヒに忠告をしたが、間に合わなかったようだ。

「キルシュ、そこを少しだけ右に移動してください。変わらず周囲に魔物の影はありません」

「少し右だね、了解!」

先ほどギルドマスターから受け取っておいた地図を手に、俺は方向指示と周囲の索敵に徹する。

「いいねいいね。お互い疲れるけど、緊急時は飛翔に限るよねぇ! あ、ディートリヒ君、眠れる竜の遺跡はあっちの山でいいの?」

はしゃぎながらキルシュが指し示す山を見て、ディートリヒを顔をガクガクさせながら頷いた。

「あ、ああ……あそこのはずだ」

「あの山が白銀山だね。噂に違わず綺麗な山じゃないか。よし、着陸するよ。ザイ、周辺の様子は?」

「はい。地上も含めて周辺に魔物は見当たりません。どうぞ」

キルシュは高速移動を終了させ、空中に浮遊している状態の切り替えると、ゆっくりと地面に俺たちの体を地面に降ろす。

俺たちの地面に足が着くと、ディートリヒはその場でうずくまり嘔吐した。

「えぇぇぇ……。あんたら、いつもこんな無茶な移動してるのかよ」

「いや、これが無茶な移動であることは同意するが、いつもはこんな移動はできない。緊急事態ゆえの行為だ」

ディートリヒの顔色が真っ青になっていたため、俺は彼の背中をさすりながら背負い袋から粉薬を包んだ薬包紙と水袋を取り出し服用を勧めた。

「これを飲むといい。吐き気に効く薬だ」

「これは……うっ、なかなかにきつい匂いだな」

「あぁ、これは牛胆汁と黄柏、甘草、桂皮、生姜、それから牡蛎の貝殻を粉末にした胃薬だ」

「なんだその牛胆汁とか、黄柏っていうのは……」

聞きなれない薬草の名前に首を傾げたディーリヒに、キルシュがこの薬の効能を説明する。

「胆汁の分泌を促進させて消化吸収を盛んにする牛胆汁と、出すぎた胃酸を中和して胃の調子を整える牡蛎の貝殻エキス、それから胃腸の機能を整える甘草、桂皮、生姜を混ぜている。胃酸の逆流、胸やけ、胸つかえ、胃もたれなどの症状に効果があるから、今のキミの症状にぴったりの薬だよ」

旅先などで急に発生する嘔吐の症状を緩和するために俺がいつも持ち歩いている薬の一つだ。

ディートリヒは胃薬を一息に飲むとその苦みに顔を顰めながら深く息を吐いた。

「かなりひでぇ味だが、少し楽になった気がする……。マジで腹の中が逆さまになったような気分だったぜ」

「これは想定外でしたねキルシュ。“飛翔”の魔術を一般人にかけると、こんなに辛い事になるとは思いませんでした」

「ザイとか他の護衛士にかけた時は全然平気だったんだけどね。なるほど一般人にそのまま“飛翔”をかけるとこうなるわけか。何か対策を考えておいたほうが良さそうだね」

治癒系以外の魔術を魔術師と護衛士以外にかけることはほとんどないため、今回のケースは俺たちにとって想定外だった。

魔術師や護衛士は魔素を魔力に転換するときに、それが体の毒とならないように耐性がついているのだが、一般人には耐性がないため魔力中毒にならないよう調整された魔術のみが使用される。

俺たちは、体に直接魔力をかけるわけではなく魔力によった風を操ることで空中の高速移動を可能とする“飛翔”であれば普通の人にかけても問題ないと考えていたのだが、移動時のかかる風圧が負担になることを失念していたようだ。

ディートリヒが恨みがましい目で、今後の対策について話し込んでいる俺たちを睨みつけた。

「……俺で魔術とやらの実験をするんじゃねぇよ」

「いや、ごめんごめん。これはボクたちの考えが浅かったね。とはいえ、だよ。その実験のお陰で君がいっていた徒歩で二日の旅程は踏破できたから結果オーライじゃない?」

「まぁ……それはそうなんだけどな」

不承不承頷くディートリヒと俺たちの目の前にあるのは、山頂に輝く白雪をまとった美しく雄大な山“白銀山”である。

町からここまで徒歩で二日かかる道を、俺たちは“飛翔”によって凡そ三十分ほど踏破できたのだ。

魔術による高速移動がもたらすアドバンテージは緊急時において圧倒的と言える。

しかしこの移動について、他に代償がないわけではない。

俺は頭痛を感じて、額に指を当てた。

「どうしたんだ、あんた?」

「この索敵は多少無理をするんでな……頭に疲労が蓄積するんだ」

感覚強化した体に魔術でさらに感覚を増幅しているため、五感から得られた情報を処理する脳が限界に達するのだ。

今の俺の脳は茹っているかのように熱を帯びている。

「負担をかけてすまないね、ザイ」

「いえ、飛翔するのであれば索敵強化は欠かせませんので。少し休めば回復できます」

「索敵にそんなに力を入れないといけないのか?」

俺たちの話を聞いていたディートリヒが不思議そうな顔をして尋ねてきた。

確かに地上を移動する時にはこれほど厳重に索敵を行う必要はまったくないので、彼の疑問は最もなものだ。

「空中を高速移動するということは有翼系の魔物にとって非常に目立ってな。連中からすると人間の俺たちは恰好の餌が飛んでいるように見えるわけだ」