「フィル、見て!海が見える!」
バルコニーに出ると、クリスティーナは興奮気味にフィルを振り返った。
「夕陽がキラキラして素敵。子ども達にも見せてあげたいなあ」
「ああ。いつかみんなで一緒に海を見に行こう」
「ええ!楽しみね」
にっこり笑うクリスティーナにフィルも微笑み返し、優しく肩を抱き寄せてキスをする。
「ちょ、フィル!よそ様のお城でなんてことを」
「あはは!キスくらいで何をそんなに赤くなってるの?」
「だから、なんてことを言うのよ!」
その時、コンコンとノックの音がして、クリスティーナは慌ててフィルから離れた。
「はい」
振り返って返事をすると、失礼いたしますと頭を下げ、執事らしき年配の男性がドアを開けて部屋に入って来た。
「王太子様、お妃様。今宵は国王陛下が晩餐会にお招きしたいとのことでございます。もしお疲れでなければ、ご臨席賜りますようお願い申し上げます」
フィルはクリスティーナに、どうする?と目で尋ねる。
クリスティーナは、大丈夫と頷いた。
先程、謁見の間では会えなかったが、晩餐会には国王の兄も来るかもしれない。
ここでの滞在日数も少ない為、少しでも早くお目にかかりたいところだった。
フィルも考えていることは同じらしく、クリスティーナに頷き返すと、執事に返事をする。
「お招きありがとうございます。喜んで伺います」
「かしこまりました。それでは19時にお迎えに上がります」
では後ほど…、とうやうやしくお辞儀をしてから、執事は部屋をあとにした。
時間になり、支度を整えたフィルとクリスティーナは、執事に案内されてダイニングルームへと向かった。
フィルは燕尾服、そしてクリスティーナは胸元が大きく開いたローブデコルテに身を包み、オペラグローブをはめた手でフィルと腕を組む。
現れた二人に、王妃は感嘆のため息をついた。
「まあ、お二人ともなんて美しいのかしら。美男美女で、本当にお似合いね」
そして王妃は、隣に座っている男の子二人を紹介した。
「長男のダニエルと次男のキースですわ」
「初めまして。フィリックス様、クリスティーナ様」
17才だというダニエルは、社交界デビューも果たしているらしく、にかやかに胸に手を当てて頭を下げる。
隣の弟、15才のキースも、「初めまして、キースです」と見よう見まねで兄に続いた。
「初めまして。フィリックスとクリスティーナです」
「どうぞよろしくね」
フィルとクリスティーナも、二人の王子に笑いかける。
早速四人で乾杯してディナーが始まった。
ステーキの他にも海の幸、山の幸と、立地の良さを活かした採れたての食材で作られた料理は、どれもこれもが新鮮で美味しい。
「頼もしい王子がお二人もいらっしゃって、スナイデル王国も安泰ですね」
料理を味わいながら、フィルがそれとなく話を振る。
「いやいや、コルティア国こそ。長らく男児一人だった血筋に、王子がお二人お生まれになったそうで」
「ええ。スナイデル王国も、長きに渡って王子お一人の時代が続いたのですか?」
「ああ、まあ、そうですね」
「それではダニエル王子とキース王子のご誕生は、本当におめでたいことでございますね。次期国王は、やはりダニエル王子が継承されるのですか?」
「王位継承順位からいくと、そうなりますね。コルティア国はいかがですか?」
「今のところ、長男の方が順位は上です。ですが我々は、必ずしも古いしきたりに縛られる訳ではありません。古き良きものを残しつつ、その時代ごとに新たに制度を整えていくことも、大切だと思っております」
フィルの言葉に、国王は、なるほど、と頷く。
「王位継承順位も、今後見直すと?」
「必要があればそうします。しきたりにとらわれず、子ども達の意見を聞きながら話し合いたいと思っておりますが、今の時点では何とも申せませんね。なにしろ次男は、まだ1才ですので」
すると王妃が、あら!可愛らしいと目を細める。
「お会いしたかったわ。お二人のお子様達なら、さぞかし愛くるしいでしょうね」
「ありがとうございます。いつかお目にかかれる日を楽しみにしております」
クリスティーナの言葉に、ええ、ぜひ!と王妃も微笑んだ。
食事のあとは、コルティア国から持って来た友好の証の品々を献上する。
そして明日の午後、互いに友好条約を結び、夜には盛大な舞踏会が開かれることになった。
「やっぱり国王陛下のお兄さんの話はタブーのようね」
部屋に戻り、寝衣に着替えると、ナイトガウンを羽織りながらクリスティーナはフィルに話しかけた。
「晩餐会にもいらっしゃらなかったし…。国王陛下も、長らく男児一人の時代が続いたのかって話を、気まずそうにしながらも否定されなかったしね」
「そうだな。やはりアンドレアの言った通り、この国には何かがある」
二人はソファに並んで座り、真剣に考えを巡らせる。
「ねえ、フィル。こんな状況で、本当に明日友好条約を結んでもいいの?」
「んー、確かに。けど今回の滞在は短いし、友好条約の内容も、既に国王同士で取り交わされている。俺はそれを確認して署名する役目でしかないからな」
「でももしこの国に何かがあるとしたら、友好条約を結ぶ前に知っておきたいわよね。事情によっては、そこで一旦ストップをかけることだってできる訳だし」
「それはそうだけど…。肝心の事情を探る時間はないぞ?なにせ明日条約を結んだら、明後日の午前中にはここを発つ弾丸スケジュールだからな。それとも滞在を少し伸ばす?」
その提案に、クリスティーナは即座に首を振る。
子ども達と離れる時間を最小限にしたくてスケジュールを組んだし、今も、少しでも早く帰りたかった。
「それなら、やっぱり明日の条約締結は避けられない。国王の意向でもあるしな」
「そうよね…」
仕方なく納得したクリスティーナだったが、頭の中では別のことを考え始める。
(明日の午前中、フィルはスナイデル国王陛下と条約の内容を確かめる為の密談をする。その時に私が…)
急に目つきを変えてニヤリと不敵な笑みを浮かべるクリスティーナに、フィルは嫌な予感がした。
「ちょっと、クリスティーナ?何か企んでるだろ」
「あら?企むなんて、そんなことはないわ。明日フィルがいない午前中に、お城のガーデンを案内してもらおうと思ってるの。楽しみだわー、綺麗なお花。うふふっ!」
絶対にそんなこと思ってるもんか!と、フィルは心の中で叫びながら眉をひそめる。
「さあ、フィル。明日に備えてそろそろ寝ましょ。おやすみなさい」
そう言うと珍しくクリスティーナの方からチュッとキスをしてきた。
不覚にもそれだけで、フィルの心はメロメロになる。
いそいそとクリスティーナの隣に横たわり、腕枕をして抱き寄せると、「おやすみ、俺のティーナ」とささやいて甘く口づける。
さっきまでの真剣な考え事はどこへやら、フィルはクリスティーナの寝顔にニヤニヤしながら、いつまでも優しく髪をなでていた。
「まあ、とっても綺麗なガーデンね。お花がたくさん咲き乱れていて、本当に美しいわ」
翌日の朝。
フィルが執事に連れられて国王との密談に向かうと、クリスティーナはケイティと名乗る若い侍女に案内してもらい、城のガーデンを見て回っていた。
「バラもたくさんあるのね」
「はい。バラはスナイデルの国の花なのです」
「そうなの?コルティア国の国花もバラなのよ」
「まあ、そうなのですか?」
「ええ。私達、そんなところも仲良くなれそうね」
クリスティーナが笑いかけると、まだあどけなさの残るケイティは少し頬を緩め、すぐまた真顔に戻った。
緊張しているせいかとも思ったが、どうやら違うらしい。
(何かに怯えている…?)
なんとなくそんな気がする中、クリスティーナはガーデンを抜けて広い庭園に出た。
「ここからお城が一望できるのね」
そびえ立つ白亜の城の全貌に、クリスティーナは圧倒されたようにため息をつく。
「素敵なお城ね。おとぎ話に出てきそうだわ」
「コルティア国の王宮はどんな感じなのですか?」
「そうねえ。こんなにメルヘンな感じではないわね。国のカラーのブルーを所々に取り入れてるの」
「そうなのですね、素敵!見てみたいです」
珍しく目を輝かせるケイティに、クリスティーナも微笑む。
「ケイティもいつか遊びに来て。今度は私が案内するから」
「まあ、もったいないお言葉ですわ」
歩きながら話していると、ふと、城の端の塔が目についた。
「あの塔は?見張り台かしら?」
え?とケイティがクリスティーナの視線を追う。
「あ、いえ。あちらは普段使われていない塔でございます」
「そうなのね」
何気なく返事をして、また歩き出そうとした時だった。
塔の窓にほんの少し人影が動き、誰かがそっとこちらの様子をうかがっているのが見えた。
(え、誰?男の人?なんだか不気味な雰囲気…)
「クリスティーナ様?どうかなさいましたか?」
「いえ、なんでもないわ」
結局大した情報は得られないまま、クリスティーナはなんとも言えない違和感だけを感じて、ケイティのあとをついて行った。
「それではこれより、我がスナイデル王国とコルティア国との平和友好条約締結の儀を執り行います」
外務大臣が高らかに宣言し、きらびやかな大広間に集められた要人達は、入場してきたスナイデル国王とフィルに注目する。
クリスティーナも、スナイデルの王妃と並んでその様子を見守った。
まずは、友好条約の内容を外務大臣が読み上げる。
「第一条
スナイデル王国及びコルティア国は、両国間の永久の平和及び永続する友好関係を維持するものとする。
第二条
両締約国は、他方の締約国の主権、独立及び領土の保全を尊重することを約束する。
第三条
両締約国は、両国間に生ずることがあるいかなる紛争をも、平和的手段によって解決し及び武力又は武力による威嚇に訴えないことを約束する。
第四条
両締約国は、他のいずれの地域においても覇権を求めるべきではなく、また、このような覇権を確立しようとする他のいかなる国又は国の集団による試みにも反対することを表明する。
第五条
両締約国は、善隣友好の精神に基づき、かつ、平等及び互恵並びに内政に対する相互不干渉の原則に従い、両国間の経済関係及び文化関係の一層の発展並びに両国民の交流の促進のために努力する。
第六条…」
ガクンと頭が揺れ、クリスティーナはハッと目を覚ます。
子守唄のような条約の読み上げは続いており、慌てて居住まいを正すと何食わぬ顔で微笑みながら顔を上げた。
と、フィルとバッチリ目が合う。
寝てたな?と言わんばかりのフィルの目つきに、何のことやら?と、クリスティーナはとぼけて視線を逸らした。
ようやく読み上げが終わり、スナイデル国王とフィルがそれぞれ羽のついた万年筆でサインをする。
固い握手を交わしたあと、記念撮影をして無事に条約は締結された。
部屋に戻って着替えると、ソファでお茶を飲みながら休憩することにした。
「ふう、無事に終わってなによりね」
「ああ。誰かさんが居眠りしている間にね」
フィルの嫌味にギクリとしながら、クリスティーナは素知らぬフリで話題を変える。
「ホッとしたらなんだかお腹が空いちゃった」
「寝てただけなのに?」
うぐっと言葉に詰まり、クリスティーナは唇を尖らせる。
「だってあんなに堅苦しい言葉を長々と述べられたって、頭の中に入ってこないんだもの」
「ヤレヤレ。王太子妃よ、頼むから今夜の舞踏会でそんなこと言わないでくれよ?」
「分かってるわよ。心配しなくても、美味しいお料理を食べるのに夢中で、居眠りしてる暇はないわ」
「そっちの話じゃないってば!」
フィルが頭を抱える隣で、「あー、楽しみ!たくさん食べよう」と、クリスティーナは満面の笑みを浮かべていた。
「コルティア国王太子、フィリックス=アーサー殿下と、王太子妃、クリスティーナ=アンジェ妃殿下にあらせられます」
夜になり、着飾った紳士淑女が集まる中、フィルとクリスティーナは腕を組んでにこやかに大広間に足を踏み入れた。
「まあ、なんて麗しいお二人ですこと」
うっとりとした感嘆のため息の中、二人は優雅にお辞儀をする。
早速グラスが配られ、皆で乾杯すると、軽やかに音楽が奏でられ始めた。
「王太子様、クリスティーナ様。どうかお二人のダンスをご披露くださいませ」
年配の婦人に前のめりに話しかけられ、フィルとクリスティーナは少し苦笑いしてからグラスを置いた。
「いいの?クリスティーナ。お腹が減って動けないんじゃない?」
「ちょうどいい準備運動だわ。あとでお腹がはち切れるまで食べるから」
「うわー、目が本気だな」
「当然よ」
小声でやり取りしながら、フィルはクリスティーナの手を取って、中央にエスコートした。
向かい合ってお辞儀をすると、周りの人達が二人に場所を譲って注目する。
フィルはクリスティーナのウエストをグッと抱き寄せ、軽快なワルツに合わせてステップを踏み始めた。
クリスティーナも微笑みながらフィルを見つめ、軽やかに息の合ったワルツを踊る。
クリスティーナのブルーのドレスがフワリと揺れて、皆はうっとりとその美しさに見とれていた。
「クリスティーナ。君がこんなにダンスが上手いなんて思わなかったよ」
フィルの言葉に、クリスティーナは首を傾げる。
「あら、どうして?」
「だって君は筋金入りの不器用で、女の子らしいことは全部苦手じゃないか。料理も刺繍もからっきしだし、読書もしなけりゃ勉強だって…」
「フィル?かかとで足を踏んづけて差し上げましょうか?」
ヒエッ!とフィルは首をすくめた。
クリスティーナはピタリとフィルに寄り添ったまま、華麗なステップでドレスを美しく揺らす。
「身体を動かすのは得意なのよ。乗馬や剣術と同じで」
「なるほどね。でも初めて君の女性らしさを垣間見たよ」
「ちょっと!さっきからもう…。褒めてるの?けなしてるの?」
「恋に落ちてるんだよ。改めて君にね」
「は?!もう、バカ!」
真っ赤になったクリスティーナは、恥ずかしさに思わずフィルの胸に頬を寄せる。
周りからより一層、うっとりとしたため息が聞こえてきた。
「ティーナ。俺の可愛いプリンセス」
耳元でフィルがささやき、クリスティーナは顔から火が出そうになる。
「ちょっと…。絶対面白がってるわよね?フィル」
「んー?違うよ。愛してるんだよ」
「何言ってるのよ、まったく」
「だって可愛いドレスを着たティーナがこんなに俺にくっついて、優雅に踊ってくれるなんてさ。俺、今夜はティーナに惚れ直したよ。心から君を愛してる」
真っ直ぐに告げられる言葉に、クリスティーナは何も言えずにうつむく。
「どうしたの?ティーナ」
「ど、どうしたって、その…。恥ずかしくて」
「なにが?」
「だから、フィルが、そんなこと言うから」
消え入りそうな声でそう言うと、フィルは嬉しそうに笑う。
「照れちゃって可愛いね。今夜のティーナは愛しくてたまらない。もうずっと俺の腕の中に閉じ込めておこう」
フィルは身を屈めてクリスティーナにささやき、優しく頬にキスをする。
「大好きだよ、ティーナ」
クリスティーナはもはや顔を上げられずに、ひたすらフィルの胸に額をくっつけていた。
舞踏会が終わり、部屋に戻ってソファで休憩していると、ノックの音がした。
「はい、どうぞ」
「失礼いたします」
入ってきたのは、いつもの年配の男性執事だった。
「お疲れのところ恐れ入ります。こちらは本日ご署名頂きました、平和友好条約でございます。どうぞ大切に祖国に持ち帰られますように」
「ありがとう」
フィルが受け取ると、執事は後ろに控えていたケイティの持つトレイから、ワイングラスを二つ取り上げた。
「それからこちらは、明日お二人がお帰りになる際にお持ち帰り頂く予定のワインなのですが。2種類のうち、どちらを差し上げようか迷っておりまして。よろしければテイスティングして頂けませんか?」
「いえ、そんな。お気遣いなく」
明るくフィルが断ると、執事は一歩前に踏み出してきた。
「そうおっしゃらずに、どうかひとくちだけでもお試しくださいませ。せっかく差し上げるのですから、お好みの物を選んで頂きたいのです」
穏やかな笑顔を向けられて、仕方なくフィルとクリスティーナはグラスを受け取った。
深みのある赤ワインのかぐわしい香りが鼻孔をくすぐる。
フィルがゆっくりとグラスに口をつけるのを見て、クリスティーナもグラスを傾けた。
次の瞬間ーーー
フィルが大きく目を見開いたかと思うと、「飲むな!」と叫んでクリスティーナの手からグラスを払い落とす。
パリンと床でグラスが割れる音がした刹那、フィルがその場に一気に崩折れた。
「フィル!」
クリスティーナが慌てて手を伸ばしてフィルを抱きしめるが、勢い余ってそのまま二人でソファに倒れ込んだ。
「フィル、フィル?どうしたの?フィル!」
ぐったりと目を閉じ、荒い息をくり返しているフィルに、クリスティーナは必死で呼びかける。
フィルの顔色はみるみるうちに青ざめ、額には大粒の汗が滲み出ていた。
「どうしてこんな…。フィル!お願い、返事をして」
するとフィルがほんの少し目を開けた。
「…毒だ」
ハッとクリスティーナは息を呑む。
恐る恐る顔を上げると、ニヤリと不気味にほくそ笑む執事がこちらを見下ろしていた。