背中まである髪を一つに束ねて、口に咥えていたヘアゴムで結ぶ。
 緊張のあまり手が震えているのが自分でも分かる。それくらい、今日は重要なことをしに行くんだ。

 「星奈ちゃん、準備できたー?」

 「うん、待たせてごめん。行こう」

 また、傷つくかもしれない。あのときのように。でもきっとスグルが傍にいてくれるなら大丈夫だ。そう思いながら呼吸を整える。
 ――今日はお母さんの妹、私にとっての叔母さんに会いに行く。私のことを “可哀想” だと思っている、本人に。

 どうしてこういうことになったのかというと、スグルの一言が理由だった。


 「星奈ちゃんはさ、その可哀想だって言った叔母さんに会いに行かないの?」

 「……行って、どうなるの」

 できるだけそのは話題は避けたかったものの、どうしても嫌だと言えなかった。
 叔母さんに会ったら、きっとまた裏切られるのが怖くなってしまう。最近少しだけ人間不信を克服してきたのに。

 「行きたくないよ。ていうか、行けないの。勇気が出ないの、怖いんだよ……」

 「えぇ、だってひどくない? 話聞いてるだけの僕ですら怒りが湧くんだから、星奈ちゃんは相当ムカついてるよね。ガツンと言ってやろうよ」
 
 スグルがそんなに怒っているなんて珍しい……とは思ったものの、私のために一生懸命なところが本当に優しい。
 確かに二人のことがすごく嫌いだし、怒りはとっくに湧いている。
 拳を握りしめて、口を開いた。

 「――分かった。私、叔母さんに会いに行ってみる」


 そして今日、叔母さんに急遽会いに行くことになったのだ。
 叔母さんが留守にしていたら話せないから、それはそれで嬉しい気がするけれど……。
 確かにスグルが言っていた通り、私は怒りでいっぱいだと思う。

 「じゃあ行こっか、星奈ちゃん!」

 「本当にいいの? スグルも一緒に来てもらって」

 「もちろんだよ。俺は星奈ちゃんを助けるのが責務なんだからね」

 何度も別に一人で行くからいい、と言ってはみたものの、私のことは一切聞いてくれなかった。
 本当はスグルがいてくれたほうが心強い。いてほしいと思っている。けれど私のせいで迷惑をかけたら……なんて考えるだけで不安になってしまう。

 「あ、星奈ちゃん、いま俺に申し訳ないなぁ〜なんて思ったでしょ?」

 「……そんな可愛くは思ってないけど」

 「あははっ、星奈ちゃんは冷たいもんねぇ」

 「ちょ、どういう意味!?」

 私っていつもそんなに冷たいかなぁ、なんて思う。スグルには素を出しているつもりだから、私は優しくしていないのかもしれない。
 今度からは優しく接しよう。真面目にそう考えていたら、スグルはぷっと吹き出した。

 「星奈ちゃん、いまの嘘だよ。わざと言ったんだ」

 「えっ、わざと? ……どういうこと?」

 「星奈ちゃんはそれでこそ星奈ちゃんだからね! いつも俺に対してちょっと冷たいのが本当の星奈ちゃんでしょ?」

 ……そっか。私は遥花ちゃんや東間さんの前ではまた裏切られるのが怖いから、優しく接するように心がけている。
 でもスグルの前だと “優しくしなきゃ” なんて考えることがない。これが本当の素の私なんだ――。

 「ありがと、スグル。今日頑張る」

 「うん! 頑張ろう!」

 あれほど拒否してきた人に会うのだから、それなりには緊張している。というか、不安でいっぱいだ。
 でも大丈夫。隣には大好きな人が、お星さまが傍にいてくれるから……!


 電車に乗って二時間程で、叔母さんの家に到着した。ここ数年来ていなかったけれど、確かにこんな家だったなぁなんて懐かしくなる。
 今日はありのままの気持ちをぶつけに来たのだから、ちゃんと本音を伝えないと……。
 深呼吸をして、家のインターホンを鳴らした。

 「はーい」

 ちっとも変わっていない、明るくてトーンが高い叔母さんの声が聞こえた。
 家からドタドタと走る足音も聞こえてくる。それと同時に頭の中まで響くぐらい、私の心臓の鼓動も早い。

 「変わってないなぁ」

 誰にも聞こえないような声量で、スグルはボソッと呟いた。
 スグルは叔母さんのことを知っているのだろうか。でも、どうして――?

 「星奈ちゃん、大丈夫だから。星奈ちゃんがあのとき抱えていた感情を伝えてね。俺はここで待ってるから」

 コソッ、とスグルが耳打ちしてきた。疑問を忘れるくらい、また胸がぎゅーっと締め付けられる。
 あぁもう、こんなときにドキドキしてどうするの……!
 今日は逃げてしまったあのときの感情を、ありのまま言わなきゃ。そのために来たのだから。

 「こんにちはー……って、うそ、星奈ちゃん?」

 叔母さんは私を見て、薄暗い険悪な顔をしていた。やっぱり私のこと、まだ嫌っているのだろうか。可哀想だと思っているのだろうか。
 怖い。怖くて、怖くて、怖くて……不安で押し潰されてしまいそうなくらい。
 でも逃げてばかりじゃだめだ。私自身が変わらないと……!

 「お久しぶりです、星奈です。今日は急に押しかけてしまってすみません。叔母さん、お時間ありますか?」

 「……ええ。もちろん。どうぞ上がって」

 あれから二年ほど経った今でも、声だけでなく叔母さんの雰囲気は変わっていなかった。ほわほわとした陽だまりのような優しい存在……。
 小さい頃から、叔母さんが大好きだった。お母さんの妹だからというのもあるけれど、私にとても良くしてくれていたから。
 だからこそ、叔母さんと旦那さんの会話を聞いたとき、とても辛かったのだ。

 「星奈ちゃん、本当にお久しぶり。もう何年会っていなかったかしら」

 「だいたい二年くらいです」

 「あら、もうそんなに時が経っているのね。早いわ……」

 そっか……叔母さんは、私がいなくなってからの二年間は、早いと感じていたんだ。
 その時が経つのが早いと思っている二年間、私はずっと苦しめられてきたんだよ。ずっと人を信じることができなかったんだよ。
 心のなかの気持ちをつい出してしまいそうだったけれど、何とか抑えることができた。

 「星奈ちゃん、急にいなくなったじゃない? 心配したのよ」

 突然なその話題に体をビクッ、と震わせる。
 軽々と『心配した』だなんてどうして言えるのだろう。そんなに心がこもっていない言葉は初めて聞いた。

 「だから、また元気な顔を見れて安心したわ」

 「元気じゃ、ない、です」

 「えっ? でも……」

 「全然、元気なんかじゃありません。元気だと言われるように、振る舞っているだけです」

 人に機嫌を伺われないように。もう二度と “両親がいなくなって可哀想” なんて言われないように。
 私はずっと自分の心を押し殺して頑張ってきたんだ。

 「星奈ちゃんは、あの頃からずっと変わってしまったのね」

 「あの頃、って……?」

 「星奈ちゃんがまだ、幼かった頃。無邪気で、明るくて、ほんと元気の塊って感じの子だったのよ。それがもう高校生にまでなっちゃって、すっかり変わっちゃったのね」

 違う。違う、変わったのは私じゃない。変わったのは私の運命だ。私は昔のまま、ずっと変わっていない。
 両親がいない世界を生きなければならなくなった、運命が変わってしまったんだ――。

 「あのさ、星奈ちゃん。一つ聞きたいんだけどいい?」

 「……はい。何ですか」

 「星奈ちゃんはあの日、どうして急にいなくなってしまったの?」

 不安で不安でたまらない。正直、上手く本音を話せる自信がない。
 でもきっと、スグルが私のことを応援してくれている。だから大丈夫だ。
 呼吸を整えてから、私は口を開いた。

 「聞いちゃったんです。叔母さんと旦那さんが、私のことを “可哀想” だと言っていたのを」

 そう言うと、叔母さんは目を丸くして驚いていた。
 それでも私の話を真剣に聞いてくれている。

 「転校する前も、叔母さんたちにも、戻ったあとも可哀想だと言われ続けました。両親がいない私は、普通じゃない、変わっているんだって。そう思い始めるようになりました」

 みんなは両親がいて、私は両親がいなくなった。
 みんな違ってみんないい、という言葉はあるけれど、これには絶対に通用しない。だから私は変わり者なんだと思い始めたんだ。

 「すごく辛くて、悲しくて、寂しくて。私だって普通の人間なのに……っ。どうしてお母さんもお父さんもいなくなっちゃったんだって。今思うと、中学生で一人暮らししてたなんて異常ですよね。ほんと、当時はそんなの考えないくらい “可哀想” が辛くて」

 話し始めたら、ずっと止まらなかった。
 本音を伝えているうちに、自分はこんなことを思っていたのか、なんて新たな発見もあった。

 「私はそれ以来、人間不信になって。また裏切られるのが怖くて――」

 「落ち着いて、星奈ちゃん」

 はぁ、はぁ、と息が荒くなっていく私の背中を、叔母さんが擦ってくれた。
 ――あぁ。温もりのある、叔母さんの手だ。小さい頃、危ないからといって手を繋いでくれたこともあったっけ。
 ……私、どうしていままで、叔母さんのことを考えずにいたのだろう。

 「叔母さんは、私のこと可哀想だって思ってるんですよね? みんなとは違う、変わっている私のことを……っ」

 「思ってないよ、星奈ちゃん」

 涙が零れ落ちながら、私は叔母さんの表情を見た。
 確かに嘘は吐いていなそうな、真っ直ぐな瞳だ。私のことを真剣に考えてくれているのが分かる。

 「で、でも、可哀想って……」

 「星奈ちゃんのこともあるけど、星奈ちゃんのお母さん――仁美(ひとみ)の気持ちも考えたの。二人のことを考えると、やっぱりすごく辛いだろうなって。私が星奈ちゃんだったら、ほんとに立ち直れないから」

 叔母さんは――私のことを変わり者だと思って、侮辱した意味で “可哀想” と言ったのかと思った。
 でも本当は、私がどれだけ辛い思いをしているか考えてくれていた。そういうこと……?

 「ごめんなさい、星奈ちゃん。私のせいでこんなに辛い思いを抱えさせてしまって」

 「……ううん。私のほうこそ、勝手に出ていっちゃってごめんなさい。叔母さんは私が小さい頃から優しくて、すごく――大好きだから。私のことを考えてくれていたなんて知らなかった……っ!」

 叔母さんの “可哀想” という言葉は、私への愛情で溢れていた。それを私は、ただ勘違いしていただけなんだ。
 こんなに泣いたのは両親が亡くなってから初めてだろう。私は何粒もの涙を零しながら、叔母さんの腕の中で抱きしめられていた。