邪竜の鍾愛~聖女の悪姉は竜の騎士に娶られる~

「聞こえる? ミリー、僕の心臓、こんなにドキドキしてる」
「聞こえる……。本当に、わたしを好きなの? ユアン」
 ミリエルのおびえた言葉に、ユアンが微笑む。
「ああ」
「わたしは、あなたを好きでいていいの」
「もちろん」
「わたし……」
 ミリエルは目を閉じた。頭の中にぐるぐると回るのは、双子の妹、セレナのことや、周りの言葉。でも、今大切なのはきっと、それじゃない。
 ミリエルは、荒れ狂う感情が収まるのを待って目を開けた。もう一度ユアンを振り仰いで、そうして、泣きながら、笑った。
「あなたを、愛してるわ、ユアン」
 それは、先ほど口にした諦観混じりの声音で塗りつぶされたものではなかった。
 未来を見た、希望を抱いた、心からの言葉だと、ユアンにもわかったのだろう。
「ああ、ミリー!」
 嬉しくてならない、とユアンがミリエルを抱き上げる。
 その拍子に顔が近づいて、ミリエルはあ、と思った。
 胸いっぱいにユアンの匂いが広がって、吐息が混ざっているのを理解した。
 キスされているのだ。ゼロになった距離で、目に映るユアンの長いまつ毛が幻想的にすら思えた。
 だけど、これは幻でも妄想でもない。もちろん、夢でも。
 どれだけそうしていただろう。酸欠になったミリエルを解放して、ユアンはその炎色の目をとろりと蜂蜜のように蕩けさせた。
「これで、君はの僕の恋人だ。……僕だけの、宝だ」
「宝……」
 ミリエルは、ぼんやりとした酸欠の頭で、ユアンの言葉を繰り返した。
 繰り返して、はにかむように笑った。大切なものを胸にしまいこむように、ユアンの言葉を噛み締める。
「ミリー、明日、スタンピードの件で功労者としての受勲式が終わったら、王に君との結婚を願い出るよ。そうしたら、もう君は『聖女のはきだめ』なんてする必要はない」
「うん……うん……ユアン」
「待っていて。ミリー。君には、もう、幸せな未来視か用意しない」
 ユアンの優しい言葉が、しんしんと、星の光のように降ってくる。
 ふと空を見上げると、本当に星が降っていた。流星群だ。
 そうやって降る雪はユアンの言葉のようで、風に押し上げられた雲から現れた月は、ユアンのように優しい光を纏っていた。
 ──ユアンは、わたしのお月さま。
 どこにいてもミリエルを見つめてくれる、ミリエルだけの月……。
 今日まで、妹ばかり見る両親と、毎日かぶせられる濡れ衣に、心が壊れかけていた。
 でも、もう、ユアンがいれば、この先には幸せがあると信じられる。
 幸せだ、本当に、本当に、本当に……。
 ──…………。
 ミリエルが、聖女セレナの暗殺未遂で囚われ、それに抗議したユアンが拘束されたのは、翌日のこと──すべては、ユアンの不在をついた一瞬の隙に行われ、そして、終わった。


 アトルリエ聖竜国では竜の神話が信じられている。雪深いアトルリエ聖竜国は、街灯が生み出される前は、長い冬に降る雪のせいで冬は常に暗かった。
 その暗さ──闇に紛れて犯罪が起きるのが、昔は魔物が生み出されるためだと思われていた。
 そう、闇は魔物を生む。その闇を打ち払うために天から遣わされたのが、竜だ。
 闇と戦い、世界を光の下に連れ出した竜はしかし、しかしその身を闇に浸食され、正気を失った。
 闇の化身となり、世界を滅ぼさんとする存在へと堕ちた邪竜を浄化したのは、ひとりの人間の少女だった。
 聖なる光の力を持ち聖女と呼ばれた少女は、その命と引き換えにして邪竜をアトルリエのいっとう高い場所まで届くステラ火山のうちに封印した。
 その竜は今もステラ火山のもとに眠っている……そういう神話だ。
 そのため、竜と聖女はともにこの国での信仰対象なのである。
 今代の聖女であるセレナ・リリス・フララットも当然、信仰される存在だ。
 ゆえに、アトルリエ聖竜国の象徴ともいえるセレナを害そうとした、殺そうとしたということは、この国では反逆罪となる。
 その拘束は、突然だった。
 聖女であるセレナ・リリス・フララットの暗殺を企てたとして、ミリエルは投獄された。
 聞けば、セレナが眠っているとき、セレナの部屋に侵入した何者かが、セレナの胸をナイフで突いたのだ。幸い、何重にも防護魔法を施している聖女セレナには傷一つなかったが、聖女が暗殺されかかったことが問題となった。
 現場には、髪が落ちていた。銀色の長い髪はミリエルの色だ。
 また、現場に残されていたナイフはミリエルの私物だった。安っぽい、木製のペーパーナイフが凶器だとされた。決定打となったのはセレナの証言。正直、これが一番の理由だろう。
「お姉様があたしを殺そうとしたのよ!」
 そのひとことで、ろくな弁明の機会も与えられず、「聖女のはきだめ」は犯罪者となった。
 聖女を殺そうとしたのだ。火刑が妥当だろうとのことだったが、身内ゆえにそれは聖女の名に傷をつけることになりかねない。この件は公にせず、かわりにミリエルは竜の眠るとされる火山への贄として火口に投げられることとなった。
 表向きには、聖女の悪姉が改心し、自分から生贄役を買って出た、と発表されるらしい。
 ぼろぼろの貫頭衣を着せられ、後ろ手に縛られたミリエルは、ステラ火山の火口に設置された、火口に飛び込むための──強制的に落とすための、簡単に壊れる台に載せられていた。
「ユアン……ユアン……」
 かさついた唇で呟くのは愛しい恋人の名前だ。
 ミリエルが暗殺などするはずがない、と抗議したユアンは、そのまま犯罪者の肩を持った共犯者として投獄された。
 牢に入れられ、はげしい拷問を受けている、とだけ、ミリエルは看守に聞いた。
「ユアン……」
 ミリエルのせいだ。ミリエルと恋人になったのが、いけなかったのだろうか。
 ……いいや、きっと、ユアンはミリエルが彼の恋人でなくともかばってくれただろう。けれど一介の騎士では聖女という権力に勝てない。
 英雄から一転して逆賊とされたユアンの輝かしい未来を奪ったのは、間違いなくミリエルという存在だった。
「気分はどう? お姉様」
「セレナ……」
 うなだれるミリエルの耳に、硬い石ころを蹴る音と、甘い砂糖菓子のような声が届いた。
 銀色の神秘的な髪に青い目をした、ミリエルと同じ色彩の、けれどミリエルより甘やかな容姿の彼女こそ、ミリエルの双子の妹、セレナだ。似ていない双子のミリエルたちだったが、セレナはおそらくミリエルのことが嫌いなのだろう。
 セレナはことあるごとに何か悪いことをミリエルのせいにした。
 両親もそれに倣ってミリエルを虐げた。
 聖女としてセレナが選ばれたのは、セレナとミリエルが候補となったとき、両親が金を積んでセレナをごり押ししたからだ。
 たしかに聖なる魔力を有しているセレナだが、その力がどれだけのものかは家族ですら知らない。修行をしているところすら、ミリエルは見たことがない。
 それでも、この国の権力はセレナのものだ。王子や宰相、騎士団長と懇意にしているセレナに集中した権力は、人ひとりを殺めることも、救うことだってたやすい。
 ミリエルはゆるゆると顔を上げた。かさついた唇を震わせる。縛られたまま、その場に膝をついてセレナに懇願した。
 尊厳なんてなくていい。プライドなんて捨てられる。ユアンのためなら。
 ──ユアンが、生きていてくれるなら。
「私のことが嫌いなんでしょう? 私はどうなってもいいから、ちゃんと死ぬから、だから……ユアンだけは助けて……」
「──ああ、あの騎士? 死んだわよ、今朝」
「え……?」
 ミリエルの言葉に、何でもないようにセレナが返す。当惑した声が、自分でも自覚できないまま、ミリエルの唇から漏れだした。
「あんたを救おうとでもしたのかしら、ミリーを助けないと国を滅ぼす、なんて言ったのが運の尽きね。揚げ足をとられて反逆罪確定、斬首刑よ」
 すい、とセレナの手が彼女の首に当てられる。そのまま横に引かれた手は、ユアンの首を切るような動作に見えた。今聞いたことが信じられなくて呆然とするミリエルに、セレナが口角を上げる。
「フフ、あはは! その顔、面白―い!」
 腹を押さえ、けらけらと笑うセレナは、その白い法衣から感じられる神秘的な雰囲気とは真逆の気配を放っていた。
 膝をついたまま目を見開くミリエルの顎をくい、とセレナが指先でもち上げる。ミリエルの目から流れ落ちる涙を見て、愉快そうに顔を歪める。
 反射的に、ミリエルは縛られた手のまま、セレナにと飛びかかっていた。頭突きの形になって、けれどセレナは少したたらを踏む程度で、特に痛がる様子はなかった。
 逆に、すぐに護衛に取り押さえられたミリエルが、河口近くの硬い岩に押し付けられて顎をしたたかに打った。痛みがミリエルの顎下から胸までを襲う。じわりと広がる熱い感覚は、鉄の匂いがした。どうやらどこかを切ったらしい。
 でも、頭に血が上りすぎて、痛みをうまく拾えなかった。
「う、ぁ……ッ」
「あーあ、なにするのよ。転んだら法衣が汚れちゃうじゃない。これ、絹でできてるんだからね」
 地面に散らばる長い銀髪が少しずつ赤く染まる。それを見降ろしたまま、セレナは言い聞かせるように言った。
「いい? お姉様。あんたはもう、差し出すものも持ってないの。何もできないのよ」
 視線だけが仰向く。セレナの顔は隠しきれない喜色に満ちていた。ミリエルは奥歯を噛む。噛みすぎてぎしぎしと音が鳴った。
「あんたのこと、嫌いか聞いたわね? 嫌いじゃないわ。どうでもいいんだもの」
「……どうでもいいなら、どうして放っておいてくれなかったの……」
 絶望が染み渡った胸から、肺から、絞り出すように声を吐く。セレナは自分の整えられた銀髪をくるくると指に巻き付けながら言った。
「あんたには役割があるからよ。この世界の人間にはみんな『役割がある』」
「やく、わり……?」
「そう、お姉様。あんたは聖女の悪姉。妹に嫉妬して、聖女の座を奪おうとするの」
 意味の分からない言葉だ。神にでもなったみたいに、運命を語るセレナに、背筋が冷たくなるのを感じる。
「嫉妬なんてしないわ」
「そう、あんたはそう思って、役割を全うしなかった。だからあの騎士も死んだのよ」
「──え……? いた……ッ」