月の光る夜、星が空から降ってくる。
 今日は流星群の日だった。
 静かな聖堂の裏にある小さな花壇。空を見上げて、手入れされていないためにパサついた銀の髪を風に揺らし、空色の目を伏せたまま、ミリエルは囁くように言った。
「あなたを愛してるわ、ユアン」
 初めて口にした愛の言葉は、涙に濡れた、自分に自信のないものになった。
 幼馴染のユアンがその炎のように赤い目を丸くし、驚いたような表情でミリエルを──聖女の姉、ではなくて「わたし」を見ている。
 ユアンの、肩口で結わえた黒く長い、つややかな髪がさらりと背に流れた。
 騎士らしく鍛えられた彼は、視線までも鋭い。ユアンは食い入るように「わたし」を見つめ、ミリー、と彼だけが口にするミリエルの愛称を呼んだ。
 一歩近づかれ、急に詰められた距離にどぎまぎする。
 10年前、双子の妹がこの国の、宗教上の最高権威であり、教会の象徴でもある聖女として選ばれた日から、ミリエルは妹のセレナにすべてを奪われてきた。
 両親の愛も、期待も、ミリエル・クリスト・フララットとしての生活も。
 ミリエルのすべては聖女である妹のために存在し、そこに反感をもつことなど許されなかった。
 ミリエルは、聖女と言うには不品行な妹の不始末をすべて放り投げられ、罪も泥もかぶって生きていた。
 聖女の悪姉というのが、20歳になるミリエルの通り名だ。
 けれど、ユアンは──幼馴染で騎士のユアンだけは、ミリエルの無実をいつも信じて、調べて、本当のことを知ってくれた。そして、憐れんで、労わってくれた。
 そこに同情以外の感情があるだなんて思わない。
 けれど、この想いを、膨らみ切って、ふとしたときにあふれてしまいそうなこの初恋を、ただだまって胸の内にしまうことなど、もはやできなかった。
 魔物の大量発生──スタンピードを抑え込み、この国を平和へと導いた救国の英雄である騎士、ユアン・ミーシャ。その彼は、教会の象徴である聖女セレナとの婚姻を望まれていると聞いている。
 ユアンまでが妹のものになる。その事実に、ミリエルの心は張り裂けそうに痛んだ。これだけは、耐えられそうになかった。
 だから、せめてこの恋だけはここに置いていこう、と思ったのだ。そうすれば、きっとミリエルはこれからも聖女の「はきだめ」として生きて行けると思ったから。
 そうして口にした言葉──「愛している」は本当に単純な、どこまでも透明な一言だった。
 ユアンは驚いている。そうだろう、と思った。誰も彼も、聖女のはきだめでしかないミリエルに愛を打ち明けられたって、困ってしまうはずだ。
 だから、すぐに「ごめんなさい」と言って、撤回する予定だった。
『ごめんなさい、冗談よ。困らせる気はなかったの』
 そう言って、この恋を墓に埋めてしまうつもりだった。けれど、それを阻止したのはほかでもない、ユアンその人だった。
「僕から言おうと思っていたのに、先を越されてしまった」
「え……?」
 ユアンの目がゆるりと細まる。普段はこの世のすべてに怒っているとでもいうようにきつく吊り上げられているそれは、今はミリエルただ一人を一心に見つめて柔らかく瞬いている。
 そう、まるで、ミリエルが愛しくてならない、とでもいうように。
「じょうだ」
「冗談、なんて言わせない。僕は君の告白を本当のものだと知っている」
 戸惑うミリエルの髪を救い取り、ユアンがその先に口付ける。
 二人の吐息が混ざるような距離の中、ユアンが美しいテノールで囁くように言った。
「僕も、君を愛している」
「……え?」
 ミリエルの唇は震えた。きっと声もそうだっただろう。
 何もかも自分のものではなかった。そんなミリエルが一番大切だと思った存在を急に「贈り物だよ」とぽんと渡されたって、信じることができない。
 これは夢かもしれない、と本気で思った。あるいは、これはミリエルの幸福な願望なのだと。
 ユアンは、そんなミリエルを見て、まぶしそうに目を細めた。
「ずっと、君がそう思ってくれるのを望んでいた。僕は君よりずっと前から君を愛していて、告白だって僕からするつもりだったけれど、でも、ミリーはただ僕が愛を告げても信じないだろう」
 ユアンだけが呼ぶ、ミリエルの愛称が耳朶を打つ。ユアンの騎士たるたくましい腕がミリエルを抱きしめ、あたたかく包み込んだ。
 そうされると、ミリエルの小柄な体はユアンの黒いマントの中にすっかり隠れてしまう。
 ユアンの、森の中にいるような匂いに全身を包まれて、ミリエルは浅くしか息ができなかった。
「そんな、ことは」
「ミリー、僕の目を見て」
 ユアンの、やわらかな声が降ってくる。
 炎色の瞳と目が合って、ミリエルはいつの間にか涙に濡れていた目に力を込めた。
 ユアンの、炎の目。赤い、あたたかな色。なんてきれいなんだろう。
「僕はミリーが好きだ。愛している」
「ユアン……」
「だから君が、この告白を限りに、僕から離れていこうとしていた、ということも、わかっているんだよ」
 ひゅ、と音を立てて、ミリエルの呼吸が止まった。
 空に輝く三日月が雲に隠れて、あたりが暗くなる。
 何にも見えない中で、ユアンの視線だけをはっきりと感じた。
「それ、は」
「そんなのは嫌だ。君をやっとこの手に抱けたのに、君が砂漠の砂のようにすり抜けてどこかへ行ってしまうなんて耐えられない」
「……だって、あなたは、セレナと、婚約を……」
 言い訳のように呟いた言葉は、ユアンの抱きしめる腕の力が強くなったことで返事とされた。ミリエルを離すまいとかき抱くユアンの手に、他に向ける想いなど感じられなかった。
「そんなのとっくに断った。僕が愛しているのは君だけだから。ミリー」
 ほろほろと、目のふちから盛り上がった涙がいくつぶも零れていく。
 ミリエルが泣き続けているのを知らないはずはないだろうに、ユアンはミリエルを腕の中から解放することはしなかった。
「愛しているんだ、ミリー、君だけを……」
「……でも、あなたもいつか、わたしから離れていくわ。わたしは『聖女のはきだめ』だもの」
 はきだめとは、いつも聖女セレナが豪遊をしたとか、男遊びをしたとかの不始末の罪を擦り付けられ、身代わりになるミリエルをさしてセレナが言った言葉だ。
 その言葉は今もミリエルの胸に突き刺さって消えない。仲良くなった人々は、みなその罪を信じて離れて行った。
 だから愛されることが怖いのではない。手に入れた後、失うのが怖いのだ。
 手に入らないと思っていた。それが急に手の中にはい、どうぞと入ってきた。けれど、こうしていながら背を向けられれば、それは何よりもさみしい、悲しいことだ。
「ミリーにそう思わせたのは、あの女だね」
 ユアンが、ぞっとするほど冷たい氷のような声を落とす。
 ミリエルは否定も肯定もできないまま、ユアンから離れようとユアンの腕をほどき一歩後ずさった。
 けれど、その一歩を詰めて、ユアンはより一層強くミリエルを抱きなおす。
 離すまいとでもいうように、しかと。
「ユアン、離して。こんなところ誰かに見られたら」
「離さない。君がそう言うのは、これ以上奪われたくないからだ。なら僕は、君からこれ以上、何も奪わせない。なにからも守る。僕のミリエル──僕だけのミリー。そして僕は、ミリーだけのものだ」
 ユアンの力強い言葉に、ミリエルが目を見開く。仰いだ拍子にユアンの炎色の目と真っ向から視線が混ざり合う。
 その瞳は炯々と輝いていて、ミリエルにユアンの本気を否応なしに理解させた。
「ユアン」
「ミリー、信じて」
 そんな風に見つめられて、愛されてしまえば、もうだめだった。溢れそうだった恋心が決壊して、迷いも何もかもを押し流していく。
 ミリエルは恐る恐るユアンの胸に手を添えた。その手をしっかりと握られて、ぴたりとユアンの胸に当てられる。