「リカルド様……」
「エスティーナ、すまない」

 マリアンヌの言葉を遮りリカルドが頭を下げた。腰を折り、なんなら土下座までしそうな勢いだ。

「俺はエスティーナをずっと裏切っていた。親同士の決めた婚約者といえど、貴女を蔑ろにするつもりはなかったし、結婚までに気持ちにケリをつけるつもりでいた。でも、やはり」

 そこで、リカルドは顔を上げるとライトブルーの瞳を真っ直ぐマリアンヌに向けた。マリアンヌは話途中で口を半開きにしていたけれど、それに構う事なくリカルドはキッパリと言い切った。

「俺はイーリアスを愛している」

 マリアンヌは目を見開く。話の内容に驚いているのではない、それはもとより知っていた。その勢いと潔さに気圧されたのだ。でも、それも束の間、堂々と愛を述べたリカルドにマリアンヌは思わず笑みを溢す。

「エスティーナ?」

 思いもよらぬ反応に、虚をつかれたように目を瞬かせるリカルド。マリアンヌはエスティーナを演じるのをやめ、強気な眼差しで凛とリカルドと対峙した。

「私はエスティーナじゃないわ」
「……えっ?」

 暫く沈黙が続いたあとで、リカルドは縋るような視線をジークハルトに向ける。パチリ、とライトブルーの双眸が瞬く。その後ろで、胸の前で手を組んだイーリアスが固まったまま動けないでいた。

「リカルド殿、すまない。エスティーナは一年前にトランバス子爵家から姿を消した」
「それは、……事件に巻き込まれたとか?」
「いや、居場所は把握しているし命に別状もない」

 ジークハルトはそこで言葉を詰まらせる。予定外のリカルドの謝罪で、段取りが変わってしまった。

「リカルド様、まず私のことから説明させてもらってもいいかしら」

 マリアンヌはスカートの端を持ちカーテシーをする。エスティーナとは違う雰囲気と話し方に、リカルドは改めて目の前にある人物がエスティーナでないと思った。

「私はマリアンヌ、『劇団蒼い星』の元女優よ」
「女優……」

 呆然としつつ、噛み締めるように言葉を繰り返すリカルドと、まだ動けないでいるイーリアス。
 マリアンヌはエスティーナが庭師と姿を消した事、ジークハルトがマリアンヌをエスティーナと間違えたこと、雇われてエスティーナを演じていた事、そして自分が連れ去られたツィートン令嬢だということを話した。

「……とりあえず、座ろうか」

 話が終わり、始めに出た言葉はリカルドのもの。座るタイミングを逃し、全員が立ったままだった。

 用意していたテーブルにそれぞれが座る。イーリアスは躊躇っていたけれど、リカルドに促されておずおずと椅子に腰掛けた。

 テーブルにはすっかり冷めてしまった紅茶。新しく用意するというのを断り、マリアンヌは乾いた喉を紅茶で潤した。

 さて、ここからが本題。
 マリアンヌは首から下げたおくるみの切れ端をテーブルに置いた。

「イーリアスさん、申し訳ないけれど貴女のことはリリから聞いたわ。生まれたのは王都から丸一日馬車を走らせた村。十歳でご両親を亡くし教会に預けられたけれど、三年後教会が焼けて王都に出てきたのよね」
「はい、教会にいた時に親切にしてくれた人が、貴族の家でメイドとして雇ってくれるよう口利きをしてくださって、ターナ伯爵家で働き始めました」

 当初は掃除婦だったけれど、読み書きができ真面目な性格を買われ、侍女の仕事を覚えていったという。俯き身を小さくしているイーリアスの手に、リカルドの手が重なるのを、マリアンヌは視界の端に捉えながら切り出した。

「ねえ、イーリアスさん。私の代わりにツィートン令嬢にならない?」
「はい?」

 言われた言葉の意味が分からないと、唖然とするイーリアスに、マリアンヌは悪戯な微笑みを浮かべる。

「ツィートン伯爵はもう積極的に娘を探してはいないわ。彼らにしてみれば、見つかることは喜ばしいけれど、それ以上に厄介でもあるの。親のいない平民の娘が二十五歳までどうやって暮らしてきたか、きっと皆面白おかしく噂をするでしょうね。愛人、娼館、盗人、碌でもない話ばかりのはず」

 嫁の貰い手がないどころか、ツィートン伯爵家の醜聞ともなりえる娘。複雑な気持ちで持て余すのは目に見えている。

「でも、あなたがツィートン令嬢だと名乗りをあげたなら、そんな噂は流れないわ。教会の前に捨てられたあなたはシスターに育てられた。教会が焼けた後はターナ伯爵家のメイドとして働き、その働きぶりが買われ侍女となる。そして、リカルド様に見染められた」
 
 生まれてすぐに攫われ、平民として育った少女が働いていた伯爵家の令息に見染められる。しかも、その彼女が実は貴族だったというのだ。

(なんて、観客受けしそうなストーリー)

 我ながら完璧だとマリアンヌは思う。
 これなら、誰もイーリアスを貶めたりしないだろう。

 さらに、ツィートン伯爵家は港に船を持つ。商家のターナ伯爵家との結びつきはお互いメリットがある。双方の家も反対はしないだろう。

「でも、私、嘘なんて……上手くやれる自信がありません」
「別に演じる必要なんてないわ。この布を持って、鎖骨下に書いたほくろを見せるだけ。それだけで惚れた男とずっと一緒にいられるの」

 マリアンヌはイーリアスの肩をポンと叩く。

「一緒にいたいんでしょ? だったら腹を括りなさい。与えられるのを待つだけの女に幸せは転がり込んでこないのよ」

 その笑顔は、舞台の上でスポットライトを浴びているかのように華やかだ。
 力強く、人の心を惹きつける。

「イーリアス、俺とてツィートン伯爵を騙すことに心苦しさは感じるけれど、引き受けてくれないだろうか」
「リカルド様、でも……」
「ツィートン伯爵が未だに私を探してくれていたなら、こんな話をしたりしないわ。彼等の中では私はもう死んでいるのでしょう」

 それも仕方がないこと。マリアンヌは恨むつもりなんてさらさらない。

「死んだ娘が現れて、良縁を運んでくれるのだから彼等にしてみてもそう悪くない話だと思うわ。少なくとも私が名乗り出るよりずっと喜ばれるんじゃないかしら」

 犯罪に手を染めた過去、マリアンヌを恐喝する男もいる。正直にマリアンヌが娘と名乗り出たところで、喜んで受け入れて貰えるか微妙なところ。

 イーリアスは長く逡巡したけれど、リカルドの「愛している」の言葉に決意を決め、最後には頷いた。 

(じゃ、次はトラバンス子爵家とターナ伯爵家についてね)

 これについては嫡男のジークハルトに任せようと、マリアンヌは紅茶を持ったまま背もたれにもたれ、傍観することに。

「リカルド殿、我が家との婚約解消についてお願いしたいことがございます」
「言ってくれ。なんでも呑もう」 
「婚約破棄はターナ伯爵家から申し出てください。その際、慰謝料の代わりとして、トラバンス子爵家との羊毛の取引をこれからも続けることを約束してください」

 貴族の結婚とはややこしい。子爵家から婚約解消を打診できない上に、そもそもが家の繋がりを求めての婚約なのだ。
 しかし、反対に言えば、ターナ伯爵家から言うことは可能だし、家の繋がりが保てるなら婚約解消も比較的スムーズに話が進む。

「分かった。父には俺から説明し、必ず説得する」

 その言葉を聞いてマリアンヌはホッとした。
 彼女にできるのはここまで。

 これからリカルドは、両親を説得してエスティーナとの婚約解消とイーリアスとの結婚を認めて貰わなくてはいけない。
 エスティーナも、婚約が解消されトラバンス子爵家に実害が及ばなくなったとしても、ロニーとの仲が認められたわけではない。両親との話し合いは避けて通れないだろう。

(そこは当人が頑張るところね)

 第三者ができるのは、せいぜい外堀を埋めるところまで。欲しいものがあるなら、あとは自力で頑張るべきだと思う。

 もし、マリアンヌの書いたシナリオ通り行けば、全てがハッピーエンドだ。


「じゃ、そろそろ私は行くわ。お膳立てはしたからあとは貴方達で上手くやって」
「マリアンヌさん、ありがとうございます。私、何てお礼を言っていいか」

 イーリアスが涙を浮かべ、マリアンヌに深く頭を下げる。思いもよらないところで色々起こり、混乱しているだろうけれど、その瞳には既に決意が現れていた。

「気にしないで。私が貴族って柄じゃないだけだから」

 マリアンヌが席を立つと、ジークハルトも馬車まで送ると言って後に続いた。二人はその短い道のりをゆっくりと歩く。

 語る言葉はここに来るまでに全て口にしている。
 マリアンヌの顔は晴れ晴れしていた。

(これでいい)

 ジークハルトと一緒に生きる人生を考えなかったわけではない。伯爵令嬢となり、子爵婦人となって共に暮らす、そう考えるだけで胸は高鳴り歓喜が全身を巡った。

 でも、心の奥が冷静に呟く。それでいいのかと。

 二度と舞台に立てない人生。ライトを浴び、幾つもの人生を生き、拍手を浴びる。それは、マリアンヌを闇の底から引き上げてくれたかけがえのない場所でもある。

(ジークハルトと一緒になれば幸せだと思う。でも、舞台に立てないことを後悔する日が必ずやってくる)

 それが嫌だった。ジークハルトを選んだことを後悔したくなかった。それなら、人生で最高の思い出として永遠に胸に刻んだほうが良い。

 だから、マリアンヌは舞台を選んだ。

 観客の歓声を受け充実した日々。 
 でも、きっと心にはポカリと空洞がある。
 空を見上げ、ジークハルトは今どうしているかな、幸せな家庭を作っているはずと想像するだろう。
 その時、胸はきっと切なく暖かくなるはずだ。
 
(私は、少し泣きそうな顔で笑っているだろうな)

 大好きだった人の幸せを遠くから願い、ジークハルトとの思い出で胸に抱いて生きる。それがマリアンヌの選んだ生き方だった。

 ジークハルトと過ごしたかけがえのない一年。
 そして、例え一夜だけだとしても、その温もりを近くに感じることができた。充分すぎる宝物だ。

「ジークハルト、貴方と過ごした日々は私の宝物よ。ずっと、ずっとこの胸にしまって、そして時々思い出して私は幸せを反芻するの」
「マリアンヌ、俺は……」

 ジークハルトの言葉はマリアンヌの唇で途切れた。
 その温もり、柔らかさを忘れまいと二人は長く口づけを交わした。

 離れた時、潤んだお互いの瞳に自分の姿だけが映っていた。

「ありがとう、ジークハルト」
「愛している、マリアンヌ」
「私もよ」

 マリアンヌは最高の笑顔を浮かべ馬車に乗り込んだ。それが二人の別れとなった。