私は私の家が好きではない。
両親の仲が悪いからだ。
私の父は銀行員で、二年ぐらいの間隔で転勤を繰り返している。
両親は、単身赴任というものを好まない。
〝家族は一緒にいるべきだ〟みたいな、こだわりがあるのかもしれない。
父親が転勤するたびに家族みんなで引っ越すのだった。
そして、引越すたびに生活が真新しくなる。
それに慣れた頃にはまた転勤だ。
両親はそんな日々に疲れているみたいだ。
毎日余裕がなさそうで、ちょっとしたことでケンカばかりしている。
二人そろってそんなふうなので、自分たちのことでいっぱいいっぱいだ。
私のことまで気にかける余裕がない。
だから、私はいじめを受けても両親には黙っていた。
たぶん、私のことは両親より〝晴空〟の方がよっぽど知っている。
晴空。
夏川くんの名前だ。
晴れて、澄み渡った空。
夏川くんの笑顔を連想させる名だと思った。
晴空。
今、私はゲームをプレイしていた。
コントローラーを操作しながら、隣にいる晴空の息遣いや指の動き、晴空の発する空気を感じていた。
晴空と私は、今日ケンカをした。
でも、そのあとすぐに仲直りをした。
仲直りしたあとは、二人の間にある何か(空気みたいなもの? よく分からないけれど)がグッと縮まった気がした。
晴空。
彼をそう呼んでみたかった。何気ないような、自然な雰囲気で。
私は心の中でその名前をつぶやく。
だけど、心の中でつぶやいたつもりが、声に出してしまっていたらしい。
晴空が私に振り返った。
そして、照れ臭そうに頬を赤くして、
「なんだよ」
と、言った。
なんだか胸がむずむずした。
私も照れ臭くて、
「なんにも言ってないよ」
と言った。
「言っただろ」
と晴空が私を見つめて笑う。
「もうほら、画面見てないと負けちゃうよ」
「目をつぶってても、海音相手なら勝てるよ」
そう言って二人でクスクス笑った。
そんなやりとりの全部が、こそばゆかった。
• • •
晴空のお父さんが家に帰ってきて、車で私を家まで送ってくれた。
晴空のお父さんは、病院で介護士をしている。お母さんはお父さんと同じ病院で看護師長をしていた。
職場結婚らしい。
結婚前は同じ部署だったが、今は別々の部署に配属になっているそうだ。
父方のおじいちゃん、おばあちゃんは別居。
母方のおじいちゃんは四年前に心不全で亡くなっている。亡くなった時、八十二歳だった。
おばあちゃんは現在八十歳で晴空と同居している。アルツハイマー型認知症で、デイサービスとショートステイを利用しているそうだ。
デイサービスっていうのは、認知症なんかの理由でお世話がいる高齢者を、昼間の間、お世話してくれる場所らしい。
それから、ショートステイっていうのは、施設で何日かお泊まりをさせてくれるサービスのことだそうだ。
おばあちゃんは、ここニ週間はショートステイを利用していて家にいないらしい。
おばあちゃんが家にいる時は、お母さんとお父さんで分担して介護を行なっている。
家事も夫婦で協力しあって切り回している。
時には、晴空もおばあちゃんの世話や家事を手伝うことがあるそうだ。
あと、晴空にはもう一人家族がいる。
二歳年上の姉だ。同居はしていない。
発達障害を持っていて、中学生の頃にはそれが理由でいじめられていた。今はアメリカに住んでいて、アメリカの学校に通っている。そこでは発達障害への理解が日本より進んでいて、毎日楽しくすごしているらしい。
いろんな事情を抱えていたんだなと思った。
いつもニコニコしてるから、全然そんなふうに感じなかった。
こういう時になんて言えばいいか分からなくて、
「いろいろと苦労してきたんだね」
と私は言った。
私は後部座席に座っていて、隣には晴空がいた。晴空は頭の後ろで手を組んでこう言った。
「苦労?
そうなのかな?
そんなふうに思ったことはなかったな。
確かにばあちゃんの世話で忙しいなと思ったことはあるけど、苦労してるとは思ってないよ。
たぶん、父さんもそう言うと思うよ」
晴空のお父さんが車のハンドルを操作しながら、バックミラー越しに後部座席へ笑いかけてくる。
優しそうなお父さんだと思った。
「我が家にとったら、我が家の日常が普通だしね。
姉ちゃんの発達障害も、姉ちゃんの個性くらいにしか思ってないよ。
おばあちゃんも同じ家にいて、当たり前に一緒に暮らしてきたから、おばあちゃんの世話も生活の一部だって思ってる」
晴空はフロントガラスの向こうを眺めながら、そんなふうに話していた。
「それに、母さんも父さんも、生活の中で無理はしてないと思うよ。
ばあちゃんのお世話は、デイサービスやショートステイのおかげでだいぶ楽になったし。
それにさ、世話する方が大変そうな顔してたら、世話される方も楽しく生きられないよ」
晴空のお父さんがそれを聞いて、
「分かったようなことを言ってるな」
と言って笑っていた。
「まあ、でも、父さんは別の意味で苦労してるかな。
母さんの尻にしかれてるからね」
お父さんがコラッと冗談っぽく怒る。
「晴空のお母さんって、どんな人?」
そう尋ねると、
「優しいよ」
と晴空が答えた。
「それに強い。肝っ玉母ちゃんって感じ。それから、怒るとものすごく……」
この先はお父さんと声を合わせて言った。
「怖い!」
そして二人でおかしそうに笑っていた。
晴空は、今日の私とのケンカのことなんて、もうすっかり忘れたみたいに、いつもの朗らかな顔をしていた。
車は私の家ーーまたいつ転勤になるか分からないので借家だーーにどんどん近づいていく。
もう、あと一つ信号を超えたら、すぐに私の家の屋根が見えるだろう。
家が近づくほど、辺りの景色が寂しく見えた。空は昼間の明るさを失って、徐々に夕方が近づいてくる。
子供たちが数人塊になって歩いているのが見えた。
「またな」
と言い合って、手を振り合っている。
子どもたちの「またな」という声と、まぶしいような笑顔が、残像になって心に残った。
「あのさ……」
私がつぶやくと晴空がこちらに振り返った。
車の中は空気の密度が濃い。
教室よりずっと狭いからかもしれない。
隣り合っていると照れ臭い。私は視線をそらして窓の外を眺めた。
「今日は、晴空に怒っちゃったけど、その……」
そこから先の声は、聞こえるか聞こえないかくらいの、ギリギリの声量になった。
「ごめんね。それから、苦手なことにもちゃんと向き合わせてくれてありがと……」
何にも返事がないので、晴空の方におそるおそる振り返った。
すると、晴空はポカンとした顔をしていた。それから、急に吹き出した。
「なんで笑うの?」
頬を赤くして怒ると、晴空はおかしそうな顔をして、
「ひねくれてるんだか、素直なんだか、よく分からねーやつだなと思って」
と言った。
なんと答えたらいいのか分からなくて無言でいると、晴空がニヤニヤしながら私の顔をのぞきこんできた。
「ついでに言うけど、おまえ、口ではひねくれたこと言ってても、
本心が顔にめちゃくちゃ出るタイプだから、
全然隠せてないからな」
私はびっくりして、目を大きくした。
「嘘だ」
「本当。いつも、顔にはっきり『強がってる』って書いてある」
カーッと顔がほてるのが自分で分かった。きっと耳まで真っ赤だったと思う。私は手で顔をおおった。
「表情はめちゃくちゃ素直なくせに。
俺、多分、おまえが考えてること、八割くらいわかるよ」
穴があったら入りたいという言葉は、こういう時に使うのだろうと私は思った。
いっそ生き埋めにされたかった。
「明日からはお面をつけて学校に行くから」
私が顔を手で覆ったまま言うと、晴空は、
「バカだな」
と言って、楽しそうに声をたてて笑った。
私は指の隙間からそんな晴空を眺めた。
その瞬間、胸をくすぐられるような不思議な感情を覚えた。
晴空がそばで楽しそうに笑っている。
それを眺めている今この瞬間が、宝箱をあけた時みたいに、特別なものに感じられた。
晴空の向こうに夕方の空と街並みが見えていた。
空はまだ、明るいオレンジ色をしていたが、街はだんだんと薄闇に沈んでいく。
明るさと暗さが入り混じっていて、幻想的な景色に見えた。
「私、変わってるから……」
空を眺めて、私はひとりごとみたいにつぶやいた。
「晴空が初めて。こんなふうに仲良くなれたのは」
「じゃあさ……」
と晴空が言った。
「今までできなかったこと、全部しよう。
二人で一緒に」
うん、とつぶやいた顔に西日が差して、まぶしかった。
私は目を細めた。
それは、多分、夕日のせいだったと思う。
続く~
両親の仲が悪いからだ。
私の父は銀行員で、二年ぐらいの間隔で転勤を繰り返している。
両親は、単身赴任というものを好まない。
〝家族は一緒にいるべきだ〟みたいな、こだわりがあるのかもしれない。
父親が転勤するたびに家族みんなで引っ越すのだった。
そして、引越すたびに生活が真新しくなる。
それに慣れた頃にはまた転勤だ。
両親はそんな日々に疲れているみたいだ。
毎日余裕がなさそうで、ちょっとしたことでケンカばかりしている。
二人そろってそんなふうなので、自分たちのことでいっぱいいっぱいだ。
私のことまで気にかける余裕がない。
だから、私はいじめを受けても両親には黙っていた。
たぶん、私のことは両親より〝晴空〟の方がよっぽど知っている。
晴空。
夏川くんの名前だ。
晴れて、澄み渡った空。
夏川くんの笑顔を連想させる名だと思った。
晴空。
今、私はゲームをプレイしていた。
コントローラーを操作しながら、隣にいる晴空の息遣いや指の動き、晴空の発する空気を感じていた。
晴空と私は、今日ケンカをした。
でも、そのあとすぐに仲直りをした。
仲直りしたあとは、二人の間にある何か(空気みたいなもの? よく分からないけれど)がグッと縮まった気がした。
晴空。
彼をそう呼んでみたかった。何気ないような、自然な雰囲気で。
私は心の中でその名前をつぶやく。
だけど、心の中でつぶやいたつもりが、声に出してしまっていたらしい。
晴空が私に振り返った。
そして、照れ臭そうに頬を赤くして、
「なんだよ」
と、言った。
なんだか胸がむずむずした。
私も照れ臭くて、
「なんにも言ってないよ」
と言った。
「言っただろ」
と晴空が私を見つめて笑う。
「もうほら、画面見てないと負けちゃうよ」
「目をつぶってても、海音相手なら勝てるよ」
そう言って二人でクスクス笑った。
そんなやりとりの全部が、こそばゆかった。
• • •
晴空のお父さんが家に帰ってきて、車で私を家まで送ってくれた。
晴空のお父さんは、病院で介護士をしている。お母さんはお父さんと同じ病院で看護師長をしていた。
職場結婚らしい。
結婚前は同じ部署だったが、今は別々の部署に配属になっているそうだ。
父方のおじいちゃん、おばあちゃんは別居。
母方のおじいちゃんは四年前に心不全で亡くなっている。亡くなった時、八十二歳だった。
おばあちゃんは現在八十歳で晴空と同居している。アルツハイマー型認知症で、デイサービスとショートステイを利用しているそうだ。
デイサービスっていうのは、認知症なんかの理由でお世話がいる高齢者を、昼間の間、お世話してくれる場所らしい。
それから、ショートステイっていうのは、施設で何日かお泊まりをさせてくれるサービスのことだそうだ。
おばあちゃんは、ここニ週間はショートステイを利用していて家にいないらしい。
おばあちゃんが家にいる時は、お母さんとお父さんで分担して介護を行なっている。
家事も夫婦で協力しあって切り回している。
時には、晴空もおばあちゃんの世話や家事を手伝うことがあるそうだ。
あと、晴空にはもう一人家族がいる。
二歳年上の姉だ。同居はしていない。
発達障害を持っていて、中学生の頃にはそれが理由でいじめられていた。今はアメリカに住んでいて、アメリカの学校に通っている。そこでは発達障害への理解が日本より進んでいて、毎日楽しくすごしているらしい。
いろんな事情を抱えていたんだなと思った。
いつもニコニコしてるから、全然そんなふうに感じなかった。
こういう時になんて言えばいいか分からなくて、
「いろいろと苦労してきたんだね」
と私は言った。
私は後部座席に座っていて、隣には晴空がいた。晴空は頭の後ろで手を組んでこう言った。
「苦労?
そうなのかな?
そんなふうに思ったことはなかったな。
確かにばあちゃんの世話で忙しいなと思ったことはあるけど、苦労してるとは思ってないよ。
たぶん、父さんもそう言うと思うよ」
晴空のお父さんが車のハンドルを操作しながら、バックミラー越しに後部座席へ笑いかけてくる。
優しそうなお父さんだと思った。
「我が家にとったら、我が家の日常が普通だしね。
姉ちゃんの発達障害も、姉ちゃんの個性くらいにしか思ってないよ。
おばあちゃんも同じ家にいて、当たり前に一緒に暮らしてきたから、おばあちゃんの世話も生活の一部だって思ってる」
晴空はフロントガラスの向こうを眺めながら、そんなふうに話していた。
「それに、母さんも父さんも、生活の中で無理はしてないと思うよ。
ばあちゃんのお世話は、デイサービスやショートステイのおかげでだいぶ楽になったし。
それにさ、世話する方が大変そうな顔してたら、世話される方も楽しく生きられないよ」
晴空のお父さんがそれを聞いて、
「分かったようなことを言ってるな」
と言って笑っていた。
「まあ、でも、父さんは別の意味で苦労してるかな。
母さんの尻にしかれてるからね」
お父さんがコラッと冗談っぽく怒る。
「晴空のお母さんって、どんな人?」
そう尋ねると、
「優しいよ」
と晴空が答えた。
「それに強い。肝っ玉母ちゃんって感じ。それから、怒るとものすごく……」
この先はお父さんと声を合わせて言った。
「怖い!」
そして二人でおかしそうに笑っていた。
晴空は、今日の私とのケンカのことなんて、もうすっかり忘れたみたいに、いつもの朗らかな顔をしていた。
車は私の家ーーまたいつ転勤になるか分からないので借家だーーにどんどん近づいていく。
もう、あと一つ信号を超えたら、すぐに私の家の屋根が見えるだろう。
家が近づくほど、辺りの景色が寂しく見えた。空は昼間の明るさを失って、徐々に夕方が近づいてくる。
子供たちが数人塊になって歩いているのが見えた。
「またな」
と言い合って、手を振り合っている。
子どもたちの「またな」という声と、まぶしいような笑顔が、残像になって心に残った。
「あのさ……」
私がつぶやくと晴空がこちらに振り返った。
車の中は空気の密度が濃い。
教室よりずっと狭いからかもしれない。
隣り合っていると照れ臭い。私は視線をそらして窓の外を眺めた。
「今日は、晴空に怒っちゃったけど、その……」
そこから先の声は、聞こえるか聞こえないかくらいの、ギリギリの声量になった。
「ごめんね。それから、苦手なことにもちゃんと向き合わせてくれてありがと……」
何にも返事がないので、晴空の方におそるおそる振り返った。
すると、晴空はポカンとした顔をしていた。それから、急に吹き出した。
「なんで笑うの?」
頬を赤くして怒ると、晴空はおかしそうな顔をして、
「ひねくれてるんだか、素直なんだか、よく分からねーやつだなと思って」
と言った。
なんと答えたらいいのか分からなくて無言でいると、晴空がニヤニヤしながら私の顔をのぞきこんできた。
「ついでに言うけど、おまえ、口ではひねくれたこと言ってても、
本心が顔にめちゃくちゃ出るタイプだから、
全然隠せてないからな」
私はびっくりして、目を大きくした。
「嘘だ」
「本当。いつも、顔にはっきり『強がってる』って書いてある」
カーッと顔がほてるのが自分で分かった。きっと耳まで真っ赤だったと思う。私は手で顔をおおった。
「表情はめちゃくちゃ素直なくせに。
俺、多分、おまえが考えてること、八割くらいわかるよ」
穴があったら入りたいという言葉は、こういう時に使うのだろうと私は思った。
いっそ生き埋めにされたかった。
「明日からはお面をつけて学校に行くから」
私が顔を手で覆ったまま言うと、晴空は、
「バカだな」
と言って、楽しそうに声をたてて笑った。
私は指の隙間からそんな晴空を眺めた。
その瞬間、胸をくすぐられるような不思議な感情を覚えた。
晴空がそばで楽しそうに笑っている。
それを眺めている今この瞬間が、宝箱をあけた時みたいに、特別なものに感じられた。
晴空の向こうに夕方の空と街並みが見えていた。
空はまだ、明るいオレンジ色をしていたが、街はだんだんと薄闇に沈んでいく。
明るさと暗さが入り混じっていて、幻想的な景色に見えた。
「私、変わってるから……」
空を眺めて、私はひとりごとみたいにつぶやいた。
「晴空が初めて。こんなふうに仲良くなれたのは」
「じゃあさ……」
と晴空が言った。
「今までできなかったこと、全部しよう。
二人で一緒に」
うん、とつぶやいた顔に西日が差して、まぶしかった。
私は目を細めた。
それは、多分、夕日のせいだったと思う。
続く~