私って、嫌なやつだなあってよく思う。
わざと、そっぽを向いてしまう。
わざと、不機嫌な顔をする。
本当は、そんな顔をしたいんじゃない。
だけど、周りにも自分にも嘘をついてばかりだ。
教室の隅っこと、教室の真ん中は、とっても遠い。
隅っこにいると、真ん中にいる人からは見えない。
私がいるのは、いつも隅っこ。
寂しくなんかない、と自分に嘘をつくたびに、ピンと背中からトゲが出る。
みんなと仲良くなんかしたくない、と思うたびに、またトゲが増えていく。
そうしてだんだん、ヤマアラシみたいにトゲトゲになっていく。
すると、顔までトゲトゲしてくる。
だから、いつも私は不機嫌そうな顔をしている。
本当は、勇気がないだけ。
さみしいって、つぶやく勇気がないだけ。
思いきって、さみしいって誰かに言ってみたのに、
「あっち行け」って言われるのが怖いだけ。
• • •
夏川くんはいい人で、当然のように友達がたくさんいた。
夏川くんと他の誰かが校庭で遊んでいる時、私は夏川くんに近づかないようにしている。
夏川くんは、私がひとりぼっちでいるのを見たら、必ず声をかけてくるから。
たとえば、体育館の裏の草むした場所ーー膝の高さまで雑草が伸びていて、それを踏みながら歩くと、歩くたびにサワサワと心地よい音がして、青くさいにおいがしたーーを散歩していた時、夏川くんが校庭から私を見つけて駆け寄ってきた。
ーー海音! 一人で何してんの?
校庭に取り残された夏川くんの友達はこちらを眺めていた。どういう表情なのか分からないが、とりあえず穏やかではなさそうな表情をしている。
夏川くんはそんなことにはかまいもせず、私を誘ってくる。サッカーを一緒にしないか、と。
ーー仲のいいやつだけですれば?
ーーいいじゃん。混ざっちゃえば、関係ないよ。
その言葉にのせられて、サッカーに混じったが、プレイ中に友達の一人が夏川くんとケンカをした。何がケンカの発端だったのか分からないが、
「あんなやつ、誘うからだぞ」
と言っているのが聞こえた。
あんなやつって誰のこと?
そう思ってた時、私を囲む夏川くんの友達が、みんな、するどい視線で私を見ているのに気がついた。
そうか、夏川くんがケンカをしたのは、私のせいなのか、と思った。
昼休み。
教室は静かだ。
校庭のにぎやかさがとても遠く感じられる。
校庭に夏川くんの姿は見えなかったが、たぶん、探せばどこかにいるだろう。
だけど、あえて探さなかった。
ワアワアとか、キャアキャアとか、たくさんの生徒の声が入り混じって、にぎやかな声のかたまりみたいになって校庭に響いているのを、ぼんやり聞いていた。
その声はお日さまみたいに明るい。
私は、それを窓辺で聞いていた。
一人きりで、しんと静かな教室の隅で。
一人の時、教室は少し薄暗く感じる。
蛍光灯の明るさは授業中と同じはずなのに、どうしてだろう。
そうやって一人でぼんやりしていると、空想ばかりしてしまう。
今、教室の隅にいるのは本当の自分じゃない。これは、仮の姿で、本当の自分は校庭の真ん中にいる。
そんな空想だ。
もう一人の自分の姿を、あれこれ想像するのは楽しい。
もう一人の自分は、男の子だったらいいな。
今よりもっと勉強ができて、足ももっと速くて、サッカーも上手。
すらっと背が高いし、かっこよくて、みんなの人気者で……。
気がついたら、夏川くんのいいところばかりを並べ上げていた。
そんな自分に驚いて、校庭から目をそらした。
その時、教室のドアがガラリと開いた。
「いた、いた。おまえ、こんなところで一人で何やってんだよ」
そう話しかけてきたのは夏川くんだった。
「昼休み、終わっちまうぜ。早く出てこいよ」
私は、夏川くんに背中を向けたまま、
「うるさいな。なんでいちいち誘ってくるの?」
と言った。
絶対に振り向かないと決めていた。
窓枠をつかんだ手に力をこめて、
「そういうの、迷惑だから」
と言った。
夏川くんはそれを聞いて、少しの間、黙り込んだ。
手によりいっそうギュッと力を込める。
今、夏川くんはどんな顔をしているのだろう。振り向いて確かめたくなった。
だけど、振り向かなかった。
しばらくして、夏川くんがちょっと沈んだ声で、
「そっか。誘ってごめん」
と言った。
それから、教室のドアがガラガラとしまる音がした。
私は窓の外を眺めながら歯を食いしばった。
夏川くんと自分を隔てたドアの音が、いつまでも耳に残っていた。
私は窓枠の上に顔を伏せた。
やっぱり、違う自分になれたら良かったのに、と思った。
いろんなことが飛び抜けてできなくてもいいけど、クラスにフツーになじめる生徒になれたら良かったのに。
そしたら、夏川くんと一緒に校庭に飛び出していけたのに。
しばらくの間、窓枠にのせた腕にぐっと顔を押しつけていた。
勝手に目頭が熱くなってくるので、涙がこぼれないように力を込めていないといけなかった。
すると、背後でギシッと物音がした。
教室には自分以外は誰もいないはずだった。
だけど、耳をすますと、やっぱり誰かが教室のドアにもたれかかっているみたいにギシギシとドアがきしむ音がした。
私は目の下を赤くして振り返った。
すると、そこには夏川くんがいた。
「なんでそこに……」
「ずっとここにいたよ。出たふりをして、ドアを閉めただけ」
そう言ってから、窓際に近づいてくる。そして、私のすぐ近くに立って、
「嘘つき」
と言った。
「泣くぐらい、さみしいくせに」
なんでって、胸の中でつぶやいた。
なんで、見抜かれているんだろう。必死に隠していたのに。夏川くんのために、隠していたのに。
夏川くんが私の頭の上にポンと手を置いた。
温かくてしっかりした手のひらの感触が頭に伝わる。
その手の下で、ひとすじ、涙をこぼした。
夏川くんは窓の外の遠くに目をやって、泣いている顔を見ないでいてくれた。
頭にのせられた手は、私を守ってくれているみたいに感じた。
手の影の下で、涙がひとすじ、またひとすじと、頬をつたった。
続く~
私は、よく窓の外を眺める。
授業中とか、
身体測定のために廊下に一列に並んでいる時とか、
体育館で校長先生の話を聞いている時とかに。
窓はなんとなく好きだ。
絵みたいに景色を四角く切り取ってくれる。
私は窓を眺めながら、その風景にいろんな空想を付け足す。
例えば、巨大な樹の根が街を丸ごと飲み込んでしまっている様を想像したり、
校舎と同じくらいの背丈がある一つ目の巨人が、山の向こうにぬっと現れたかと思うと、どんどん近づいてきて教室の窓から中をのぞきこんでくるのを思い描いてみたり。
街が海の底に沈み、水がひたひたと空の高さまで満ち、
教室の窓の外を、クジラやジンベイザメやマンタが泳いでいくのを空想してみたり。
そんな風景のそばで、生徒たちは平然と授業を受けている。
まるで、学校の中と外は切り離された世界だって思ってるみたいに。
ノートの隅に、空想したものを落書きして、時々先生に叱られる。
だけど、描くのをやめても、一度空想した世界は、頭の中に生き生きと住み続ける。
だから、私の頭の中にはたくさんの世界が卵みたいになって、植え付けられている。
時々勝手に卵の中から生まれてきて頭の中でいろんな景色を展開させたり、また卵に戻っていったり、いくつもの世界が気ままにそこで暮らしている。
いつだったか、親にそんなふうに感じることを話したことがある。
私にしたら、それはごく普通のことだった。小さい頃から、ずっとそんなふうだったから。
他の人の頭の中にも、きっとたくさんの世界が住んでいるんだて思っていた。
だけど、両親はそろって気味が悪いものを見るような顔をして私を見た。
自分の親から、そんなふうな顔で見られたのは初めてだった。
私はびっくりしたし、すごく傷つきもした。
人と違っているんだって気がついて恥ずかしくもなった。
それ以来、私はその話を誰にもしていない。時々、その世界の切れ端が、ノートの隅に描かれるだけだ。
• • •
「ゴッホって知ってる?」
夏川くんがそんな話を突然始めたのは、下校中のことだった。
一緒に帰ろうと夏川くんから誘われたので、夏川くんと並んで、学校の北校舎の裏をぶらぶらと歩いていた。
学校の門は、東西に二つある。
昇降口を出て、そのまま真っ直ぐ進めば西門に出る。
校舎裏や校庭を回って反対側に出れば東門がある。
私と夏川くんの家は学校より東の方角にあったので、北校舎裏をグルリと回った。
別に、西門は玄関のすぐ目の前なんだから、西門から出て、学校の周りをグルリと東側に回ったっていいんだけれど、
学校の中をぶらぶら散策して帰った方がずっとおもしろかった。
それで、校舎裏を回ることになった。
放課後の学校は、なぜだか魅力的だ。
夕日が西の空へ沈んでいくと、
空は真っ赤に染まったり、オレンジ色に燃えたり、金色に輝いたり、いろんな色に染まった。
そんな空の下で、校舎はだんだんと影に沈んでいくみたいに、暗がりに包まれていく。
北校舎の裏は、特に薄暗い。ひとけもなく静かで、学校といって思い浮かぶ、にぎやかなイメージとはかけ離れている。
そのひっそりとした感じが、私はとても好きだった。
それから、北校舎裏の地面。
北校舎裏の地面の土は、いつ触ってもひんやりと湿っていて、触り心地が良かった。
塀の近くにはビワの木が等間隔に植えられていて、夏になると黄色い実をたわわに実らせるそうだ。
今は四月なので、緑色の葉っぱしかついていない。
ビワが生えているあたりも、やっぱり、土はいつも湿っていて、茶色い落ち葉が積もっていた。
木の枝や靴先で落ち葉を払うと、ダンゴムシやうねうね動く名前の知らない虫が姿を見せた。
「ゴッホってさ、すごく変なやつなんだ」
夏川くんは、地面の石ころを蹴飛ばしながら言った。
私は、靴先で積もった落ち葉をつつきながら歩いていた。
突然すみかを荒らされた虫たちは、土の上で右往左往していた。
「変って、どんなふうに?」
私は、美術室に飾られた、ゴッホの「ヒマワリ」のレプリカを思い出しながら尋ねた。
「俺さ、この前、ゴッホの伝記を読んだんだけどさ……」
私たちのクラスでは、毎週水曜日のホームルームの時間に、読書をするというきまりがある。
この前の水曜日、夏川くんは真剣な顔をしてゴッホの伝記を読んでいた。
「ゴッホって、すごい画家だってことくらいしかそれまで知らなかったんだけど、なんかさ、すごい人だから、立派な人生を生きていたのかと思ったら、全然そうじゃないんだ。
ものすごく生き方が不器用で、
変わり者で、人ともぶつかってばかりいて、生きてる間はほとんど絵も売れなくてさ……」
それから、夏川くんはちょっとかがんで、足元にあった小石を一個拾いあげた。
「苦労ばっかりしてたみたいだけど、俺、それを知ってからの方が、ゴッホの絵に興味がわいたんだ」
そう言って、小石を空にかざす。
小石は琥珀みたいに、黄色みがかっていて少し透けていた。
夕陽を反射してキラキラと光る。
そうやってちゃんと眺めてみなければ気づかなかったけれど、すごくきれいだった。
「変わってるって、ある意味才能だよな。海音もさ、変人の才能があると思うよ」
「何それ? けなしてんの?」
夏川くんは驚いた顔をする。
「逆だよ。ほめてるんだよ」
そして、遠くをめがけて小石を投げた。
「ゴッホだからゴッホの絵が描けたんだし、
ゴッホの人生はゴッホにしか歩めなかったんだ。
だから、そういうことだよ」
どういうことだろう。
私は、目をパチクリさせながら、夏川くんが小石を投げた方を眺めた。
そこには藍色と紫の中間の色をした東の空があって、一番星が輝いていた。
「ただ、一個だけ残念に思うことがあるんだけど……、それはさ、ゴッホの生き方がさみしそうだったことかな」
さみしそうな画家かーー。
夏川くんの言葉は、やけに印象的に響いた。
「じゃあな」
夏川くんが私の家の前で手を振る。
夏川くんの家の方が学校に近いのに、私の家まで周り道をして見送ってくれたのだった。
私は一人でパタンと玄関のドアを閉じる。
それから、ドアにもたれて、少しぼんやりとした。
ゴッホの生き方をさみしそうだったと言った夏川くんの言葉が、ずっと頭の中でループしていた。
• • •
その日、夕食のあと、父親のパソコンでゴッホの絵やゴッホが歩んだ人生について調べてみた。
ネット上に、ゴッホが描いた絵の画像がたくさんあがっていた。
私は絵を一つ一つ眺めた。
どの絵にもインパクトがあったけれど、中でも「星月夜」というタイトルの絵にすごく惹かれた。
青い空と、こうこうと光る星と月。
空を貫く大きな糸杉と、
青い夜の闇に沈む民家と教会を描いた絵だ。
空はうねうねと生き物のようにうねり、
星も月も光りながら躍動しているみたいに見えた。
美しいような、
胸がザワザワと不安で落ちつかなくなるような、
不思議な絵だった。
見ていると、空がうねりながら迫ってくるみたいに見えた。
その空は、ゴッホが歩んだ人生そのものなんじゃないかと私は思った。
孤独とか、
苦悩とか、
理想とか、
現実とか、
ゴッホの抱えてきたものが大きなエネルギーになってうねりながらそこに描かれていた。
ゴッホは一八八一年から絵を描き始め、
一九九〇年に三十七歳の若さで死んだらしい。
そのたった九年の間に描いた絵の数に驚いた。
約八六〇点。
その絵をずらりと並べたら、どんな眺めになるだろう。
ゴッホは生き方がまっすぐだった。
絵にとことん情熱をかけたし、理想の高い人だった。
魂を削るみたいに、生活費をきりつめて絵を描いた。
だけど、生きている間に評価された絵はほとんどなかった。
今となっては、ゴッホの名を知らない人の方が珍しいくらい、有名な画家になったのに、ゴッホ自身はそれを知らない。
「ただ、一個だけ残念に思うことがあるんだけど……」
放課後の北校舎裏で、夏川くんが口にした言葉を思い出す。
「それはさ、ゴッホの生き方がさみしそうだったことかな」
ゴッホの生き方は不器用で風変わりすぎて、ゴッホの人生に寄り添ってくれる人はなかなかいなかった。
孤独に黙々と絵を描き続けるゴッホの背中を私は想像した。
ゴッホに、励ましあえる仲間がいたら良かったのに。
一緒に絵を眺めてくれる、妻や子供がいたら良かったのに。
そう思いながら眺めた「星月夜」の青い空は、とても寂しそうな空に見えた。
続く~
四月の終わり頃。
教室の窓の外に見える校庭の木々の葉が青々としている。私は、それを見るともなしに眺めていた。
「海音、海音……」
夏川くんが肘で私をつっついてくる。
「ぼんやりしてないで、ちゃんと話を聞けよ」
小声で私をいさめる。
私は窓の外を眺めるのをやめて正面を向いた。
今、同じ班の人同士で、机をくっつけあって話し合いをしている最中だった。
「えっと……、だから、私は……」
立花さんが、うつむいてもじもじしながら話をしていた。
立花さんはいつも声が小さい。
先生に当てられた時も、恥ずかしそうに小声でボソボソしゃべるので、何を言っているのかさっぱり聞こえない。
「未来に向かっていくような、そんなイメージの絵はどうかなって思って……」
今、立花さんが一生懸命にしゃべっているのは、二十日後にひかえた体育祭に関係することだ。
この学校では、各クラスごとに目標を決め、それを大きなフラグに書いて運動場のフェンスに吊るすようになっている。
フラグには、目標となる言葉だけでなく、絵を添えることが多い。
今、その絵のデザインを決めるために、班に分かれて意見を出し合っているところだった。
それぞれの班で意見をまとめたのちに、クラス全体で討論して最終決定するようになっていた。
「あの……、恥ずかしいから、そんなに一生懸命に聞かなくていいからね……」
立花さんは恥ずかしそうにしながら一生懸命に話をしていた。
だけど、あんまりにも話が要領を得ないので、途中からほとんど耳に入ってこなかった。
意識がどんどん目の前の話し合いとは違うことへ移っていく。
こういう時、私はぼーっとしているように周りからは見えるだろう。
だけど、頭の中はにぎやかだし、忙しかった。
私は空想遊びが好きだった。
頭の中で無限に空想が広がっていく。
今、私の空想の中では、校庭に降りてきた巨大な飛行艇から、二本足で立ったブタが大量の荷物を運び出しているところだった。
わらわらと何千匹ものブタが一列になってリレー方式で校庭にダンボール箱を積み上げていく。
そんな光景をノートの隅に描いていると、知らない間に熱中してしまっていた。
夏川くんが肘で私の左の脇腹をこづいてきた。私は、絵の続きが描きたくて、気づかないふりをした。
すると、私の右隣に座っていた月森くんが、
「おもしろい絵だな。ていうか、絵、うまくない?」
と、ノートをのぞきこんできた。
月森くんも、立花さんの話に飽きていたようだった。
だいたい、話し合いのテーマからして、つまらないんだから仕方ない。
こんな話、真剣に話し合うこと自体が時間の無駄だ。
さっさと結論を出してしまえばいいのに、と思っていた。
「私の話、伝わりにくくてごめんね……。
なんか、自分でも何が言いたいのか分からなくなっちゃった」
立花さんが困った顔をして同じ班のみんなを見回した。
とりわけ、私の方を見ていた。
「要点はさ、こういうことなんじゃないの」
私は、鉛筆をノートの上におくと、立花さんがダラダラと話していたことの要点をまとめて話して聞かせた。
簡潔にまとまった私の話に、班のみんなが感心した顔をする。
「立花さんの話は、結論にたどり着くまでが長すぎるよ。
さっきの話も、後半の話はほとんどいらないよ」
さっきまで感心していた班のみんなが、急に青ざめた。
しん、とみんなが沈黙する。
「ご、ごめんなさい……」
立花さんが、私の正面で涙ぐんでいた。
また、やってしまった、と私は思った。
冷静に分析したことを伝えただけだったけれど、どうもまずいことを言ったらしい。
「あ~、もうおまえは……」
夏川くんが苦い顔をして私を見ていた。
班のみんなから、非難するような視線が突き刺さる。
私は今さらながら後悔した。
だけど、発した言葉をなかったことにはできない。
あーあ、と頭の中でつぶやく。
あーあ、あーあ……。
私はこういう失敗を今までだって何度もしている。
そのたびに頭の中でつぶやいてきた。
あーあ、まただ。
だけど、その反省も、次の日には頭からふき飛んでいる。
だから繰り返す。
繰り返すたびにやってられないと思うけれど、たぶん、まわりの人はもっとやってられないって思っている。
だから、やっぱりこうつぶやくしかない。
あーあ……。
肩をすくめて左隣を見ると、夏川くんが頬を膨らませて、肘で私をついた。
私は飼い主に叱られた犬のように、シュンとした。
• • •
「立花さんは話すのが苦手なんだと思う。
だけど、一生懸命話をしてくれてたんだから、聞く方も一生懸命聞いてあげた方が良かったと思うよ」
夏川くんが隣で私にそう言う。
「だってさ、立花さん自身が言ってたじゃない。一生懸命聞かなくていいって」
ゲームのコントローラーをいじりながら、私はそう言った。
私は、夏川くんの家に初めて招かれて、夏川くんの部屋でテレビゲームをしていた。
対戦ゲームだ。
夏川くんはゲームがうまい。
というか、夏川くんはなんだって人より少しうまい。
勉強だって、徒競走だって、サッカーだって、バスケットボールだって……。
私と夏川くんは何もかも真逆だ。
私はだいたいのことが人より不器用だ。
人の話を聞くのだって、夏川くんは得意だけど、私は苦手だ。
「言われた言葉を、そのまんま受けとっちゃダメだよ」
夏川くんは、そう言いながら、指をすばやく動かして大技を決める。
私はピンチに追い込まれた。
「海音は、頭がいいんだと思うよ。
勉強だってさ、テストで発揮できないだけで、本当はできるんだと思う。
立花さんの話もちょっと聞いただけで要点をまとめられたじゃないか。それは、海音の長所だと思うんだ。
だけどさ、苦手なこともあるよね。
例えばさ、人の立場にたって考えたりするのは得意じゃないよね」
テレビの画面では、私の操作しているキャラクターが壁際に追い込まれて猛烈なキックを食らっていた。
HPがとうとうゼロになる。
「あ! あーあ、やられちゃった」
私はコントローラーを放り出して、後ろ向きに倒れた。
「俺の連勝だな」
夏川くんがニヤリと笑う。
「つまんない。もうやめた」
私がそっぽを向いて寝そべっていると、夏川くんが背中を指でつついてくる。
「すねんなよ。ハンデつけてやるよ」
「そんなんで勝っても面白くないよ」
私はムッスリとした顔で横を向いた。ようやく、夏川くんが私の異変に気づく。
「何だよ、本当にすねてんのかよ」
夏川くんが顔をのぞきこもうとしてきたから、私はカーペットの上にあったクッションを抱き抱えて、それに顔をうずめた。
「いいよね、夏川くんはなんでも得意で……」
クッションに顔をくっつけたままだったから、声がくぐもっていた。
「私、本当は分かってる。
空気とか察するのが苦手だって。
立花さんのことだって、
言われなくたって、私が悪かったって分かってる」
「海音……」
夏川くんが肩のあたりに触れてくる。私はその手を振り払った。
「もういいってば」
夏川くんには分からないんだろうと思った。
私が意外と今日の学校での出来事を引きずっていること。
本当はこんな自分でいたくないって思っていること。
「注意したり、優しくしたり、中途半端なことしないでよ。もうほっといてよ」
「海音」
夏川くんがいさめるような声で私を呼んだ。
私は別に、夏川くんに怒りたいわけじゃなかった。
本当は自分に対して怒りたかった。
だけど、私のうちからあふれだした怒りは、コントロールを失って夏川くんに向かっていった。
「夏川くんなんか大嫌い!」
夏川くんも、とうとう声音に怒りをにじませた。
「何でそんなに怒ってんだよ」
「怒りのスイッチを押したのは夏川くんでしょ!」
二人は立ち上がって睨みあう格好になった。
「おまえのスイッチがどこにあるかなんて知らねーよ! いちいち怒鳴るなよ!」
「怒りっぽくってごめんね! こんな私が嫌なら友達やめたら?!」
「はあ? めんどうくせーこと言うなよ!」
「どうせ、めんどくさいよ! 嫌いなら、嫌いってはっきり言ってよ!」
クッションを投げつけようとする私の手首を夏川くんがつかんだ。
私は夏川くんの手の力強さに驚く。
腕を引こうとしても、押し返そうとしてもびくともしなかった。
悔しくて、もう一方の手で夏川くんの胸を叩こうとすると、両手首をつかまれた。
それでも暴れようとすると、夏川くんは両手首をつかんだまま体重をかけてきた。
押し返そうとしたが、私はあっけなくソファの上に押し倒された。
「なんでそんなにかみついてくるんだよ。
普通に話をしろよ!」
夏川くんは、押し倒した私の顔を見下ろしていた。私は夏川くんをにらみあげて、
「だって、怒らすようなこと、言うから!」
と怒鳴った。
「言ってない!」
「めんどくさいって言った。
それに、人の立場に立って考えるのが苦手だって言った!」
「それがなんなんだよ!
苦手なことなんて誰だってあるだろ!
俺にだってあるよ!」
夏川くんが大きく声を張り上げた。
なおも、勢いよく言葉を続ける。
「苦手なことを指摘されたから怒ってんのか?
何で、そんなことでうじうじしてるんだよ!
苦手なことだって失敗することだって、あってもいいだろ!
失敗するたび、毎回、毎回、どうしたら良かったか考えりゃいいじゃん。
俺が付き合ってやるよ、とことん!」
私はハッとした。
真剣な表情をした夏川くんの顔がそこにはあった。
頭の中のかすみが晴れていく。
怒りも、スーッとひいていく。
入る隙間もないくらい自分の感情でいっぱいだった心に、初めて夏川くんの言葉が届いた。
私は腕から力を抜いた。
知らない間に息が上がっていた。
夏川くんが私の両手首から手を離す。
私はソファーに仰向けになったまま、夏川くんの顔ごしに見える天井を眺めていた。そうしながら、夏川くんの言葉をゆっくりとかみしめ、ゆっくりと飲み込んでいった。
俺が付き合ってやるよ、とことん。
夏川くんはそう言った。
夏川くんが私の上から体をどけると、ソファーの脚元に座り込んだ。
「おまえって、ほえたりかみついたり、犬みたいだよな。
まあ、別にそれでもいいんだけどさ……」
夏川くんがため息をついて、乱れた髪をかき上げた。
二人とも髪がぐしゃぐしゃになっていた。
「でもさ、俺、一個だけ海音に直してほしいところがあるんだ。
困ってる時に困ってるって言わないで、かわりにすねて怒るとこだよ。
それじゃさ、俺、おまえを助けられないじゃん」
私は自分の瞳が大きく揺れるのを感じた。
ほんの少し、天井がぼやける。
目頭が熱くなる。
「ごめん……」
腕で目をおおってつぶやいた私のそばで、夏川くんが微笑んだ気配がした。
続く~
私は私の家が好きではない。
両親の仲が悪いからだ。
私の父は銀行員で、二年ぐらいの間隔で転勤を繰り返している。
両親は、単身赴任というものを好まない。
〝家族は一緒にいるべきだ〟みたいな、こだわりがあるのかもしれない。
父親が転勤するたびに家族みんなで引っ越すのだった。
そして、引越すたびに生活が真新しくなる。
それに慣れた頃にはまた転勤だ。
両親はそんな日々に疲れているみたいだ。
毎日余裕がなさそうで、ちょっとしたことでケンカばかりしている。
二人そろってそんなふうなので、自分たちのことでいっぱいいっぱいだ。
私のことまで気にかける余裕がない。
だから、私はいじめを受けても両親には黙っていた。
たぶん、私のことは両親より〝晴空〟の方がよっぽど知っている。
晴空。
夏川くんの名前だ。
晴れて、澄み渡った空。
夏川くんの笑顔を連想させる名だと思った。
晴空。
今、私はゲームをプレイしていた。
コントローラーを操作しながら、隣にいる晴空の息遣いや指の動き、晴空の発する空気を感じていた。
晴空と私は、今日ケンカをした。
でも、そのあとすぐに仲直りをした。
仲直りしたあとは、二人の間にある何か(空気みたいなもの? よく分からないけれど)がグッと縮まった気がした。
晴空。
彼をそう呼んでみたかった。何気ないような、自然な雰囲気で。
私は心の中でその名前をつぶやく。
だけど、心の中でつぶやいたつもりが、声に出してしまっていたらしい。
晴空が私に振り返った。
そして、照れ臭そうに頬を赤くして、
「なんだよ」
と、言った。
なんだか胸がむずむずした。
私も照れ臭くて、
「なんにも言ってないよ」
と言った。
「言っただろ」
と晴空が私を見つめて笑う。
「もうほら、画面見てないと負けちゃうよ」
「目をつぶってても、海音相手なら勝てるよ」
そう言って二人でクスクス笑った。
そんなやりとりの全部が、こそばゆかった。
• • •
晴空のお父さんが家に帰ってきて、車で私を家まで送ってくれた。
晴空のお父さんは、病院で介護士をしている。お母さんはお父さんと同じ病院で看護師長をしていた。
職場結婚らしい。
結婚前は同じ部署だったが、今は別々の部署に配属になっているそうだ。
父方のおじいちゃん、おばあちゃんは別居。
母方のおじいちゃんは四年前に心不全で亡くなっている。亡くなった時、八十二歳だった。
おばあちゃんは現在八十歳で晴空と同居している。アルツハイマー型認知症で、デイサービスとショートステイを利用しているそうだ。
デイサービスっていうのは、認知症なんかの理由でお世話がいる高齢者を、昼間の間、お世話してくれる場所らしい。
それから、ショートステイっていうのは、施設で何日かお泊まりをさせてくれるサービスのことだそうだ。
おばあちゃんは、ここニ週間はショートステイを利用していて家にいないらしい。
おばあちゃんが家にいる時は、お母さんとお父さんで分担して介護を行なっている。
家事も夫婦で協力しあって切り回している。
時には、晴空もおばあちゃんの世話や家事を手伝うことがあるそうだ。
あと、晴空にはもう一人家族がいる。
二歳年上の姉だ。同居はしていない。
発達障害を持っていて、中学生の頃にはそれが理由でいじめられていた。今はアメリカに住んでいて、アメリカの学校に通っている。そこでは発達障害への理解が日本より進んでいて、毎日楽しくすごしているらしい。
いろんな事情を抱えていたんだなと思った。
いつもニコニコしてるから、全然そんなふうに感じなかった。
こういう時になんて言えばいいか分からなくて、
「いろいろと苦労してきたんだね」
と私は言った。
私は後部座席に座っていて、隣には晴空がいた。晴空は頭の後ろで手を組んでこう言った。
「苦労?
そうなのかな?
そんなふうに思ったことはなかったな。
確かにばあちゃんの世話で忙しいなと思ったことはあるけど、苦労してるとは思ってないよ。
たぶん、父さんもそう言うと思うよ」
晴空のお父さんが車のハンドルを操作しながら、バックミラー越しに後部座席へ笑いかけてくる。
優しそうなお父さんだと思った。
「我が家にとったら、我が家の日常が普通だしね。
姉ちゃんの発達障害も、姉ちゃんの個性くらいにしか思ってないよ。
おばあちゃんも同じ家にいて、当たり前に一緒に暮らしてきたから、おばあちゃんの世話も生活の一部だって思ってる」
晴空はフロントガラスの向こうを眺めながら、そんなふうに話していた。
「それに、母さんも父さんも、生活の中で無理はしてないと思うよ。
ばあちゃんのお世話は、デイサービスやショートステイのおかげでだいぶ楽になったし。
それにさ、世話する方が大変そうな顔してたら、世話される方も楽しく生きられないよ」
晴空のお父さんがそれを聞いて、
「分かったようなことを言ってるな」
と言って笑っていた。
「まあ、でも、父さんは別の意味で苦労してるかな。
母さんの尻にしかれてるからね」
お父さんがコラッと冗談っぽく怒る。
「晴空のお母さんって、どんな人?」
そう尋ねると、
「優しいよ」
と晴空が答えた。
「それに強い。肝っ玉母ちゃんって感じ。それから、怒るとものすごく……」
この先はお父さんと声を合わせて言った。
「怖い!」
そして二人でおかしそうに笑っていた。
晴空は、今日の私とのケンカのことなんて、もうすっかり忘れたみたいに、いつもの朗らかな顔をしていた。
車は私の家ーーまたいつ転勤になるか分からないので借家だーーにどんどん近づいていく。
もう、あと一つ信号を超えたら、すぐに私の家の屋根が見えるだろう。
家が近づくほど、辺りの景色が寂しく見えた。空は昼間の明るさを失って、徐々に夕方が近づいてくる。
子供たちが数人塊になって歩いているのが見えた。
「またな」
と言い合って、手を振り合っている。
子どもたちの「またな」という声と、まぶしいような笑顔が、残像になって心に残った。
「あのさ……」
私がつぶやくと晴空がこちらに振り返った。
車の中は空気の密度が濃い。
教室よりずっと狭いからかもしれない。
隣り合っていると照れ臭い。私は視線をそらして窓の外を眺めた。
「今日は、晴空に怒っちゃったけど、その……」
そこから先の声は、聞こえるか聞こえないかくらいの、ギリギリの声量になった。
「ごめんね。それから、苦手なことにもちゃんと向き合わせてくれてありがと……」
何にも返事がないので、晴空の方におそるおそる振り返った。
すると、晴空はポカンとした顔をしていた。それから、急に吹き出した。
「なんで笑うの?」
頬を赤くして怒ると、晴空はおかしそうな顔をして、
「ひねくれてるんだか、素直なんだか、よく分からねーやつだなと思って」
と言った。
なんと答えたらいいのか分からなくて無言でいると、晴空がニヤニヤしながら私の顔をのぞきこんできた。
「ついでに言うけど、おまえ、口ではひねくれたこと言ってても、
本心が顔にめちゃくちゃ出るタイプだから、
全然隠せてないからな」
私はびっくりして、目を大きくした。
「嘘だ」
「本当。いつも、顔にはっきり『強がってる』って書いてある」
カーッと顔がほてるのが自分で分かった。きっと耳まで真っ赤だったと思う。私は手で顔をおおった。
「表情はめちゃくちゃ素直なくせに。
俺、多分、おまえが考えてること、八割くらいわかるよ」
穴があったら入りたいという言葉は、こういう時に使うのだろうと私は思った。
いっそ生き埋めにされたかった。
「明日からはお面をつけて学校に行くから」
私が顔を手で覆ったまま言うと、晴空は、
「バカだな」
と言って、楽しそうに声をたてて笑った。
私は指の隙間からそんな晴空を眺めた。
その瞬間、胸をくすぐられるような不思議な感情を覚えた。
晴空がそばで楽しそうに笑っている。
それを眺めている今この瞬間が、宝箱をあけた時みたいに、特別なものに感じられた。
晴空の向こうに夕方の空と街並みが見えていた。
空はまだ、明るいオレンジ色をしていたが、街はだんだんと薄闇に沈んでいく。
明るさと暗さが入り混じっていて、幻想的な景色に見えた。
「私、変わってるから……」
空を眺めて、私はひとりごとみたいにつぶやいた。
「晴空が初めて。こんなふうに仲良くなれたのは」
「じゃあさ……」
と晴空が言った。
「今までできなかったこと、全部しよう。
二人で一緒に」
うん、とつぶやいた顔に西日が差して、まぶしかった。
私は目を細めた。
それは、多分、夕日のせいだったと思う。
続く~
黒板にチョークの字が並ぶ。
そのうちの一つに、委員長が大きく丸をつけた。
「それでは、フラグには〝翼〟の絵を添えることに決定します。
未来に向かって羽ばたいていくような、夢のある絵にしたいと思います」
教室のあちこちから、パラパラと拍手が聞こえた。
真剣に委員長の話を聞いている人もいれば、興味なさそうな顔をしている人も、居眠りしている人もいた。
私はこの前の話し合いの時みたいにノートに落書きをしたりはしないものの、
正直なところ、この話し合いを自分とは関係のないことのように思っていた。
だって、こういう話し合いでは、
〝クラスの団結〟とか、
〝絆〟とか、
そういう明るくてふわふわした言葉がポンポンと飛び出す。
私はまだここに転校してから一カ月しか経っていないし、みんなとなじんでもいない。
だから、そういった言葉はすべて自分の脇をすり抜けて、ふわふわ教室をただよっているみたいに感じた。
黒板に書かれた〝仲間〟の文字を見ながら、私は小学四年生の頃のことを思い出していた。
転校して早々、遠足があって動物園に行った。いろんな動物を見て回る時も、お弁当を食べる時も、一人でポツンと過ごしていた。
期待をすると余計にさみしい。
仲間とか、絆とか、団結とか、最初から自分とは関係ないものと思っていた方がいい……。
机に頬杖をついて、できるだけつまんなそうな顔を作って黒板を眺めていた。
その時、誰かが私の背中を指でつついてきた。
振り返ると、斜め後ろの席にいた月森くんが、私にヒソヒソと話しかけてきた。
「つまんなそうにしてるな」
「つまんないもの」
「はっきりしてるな。馬鹿正直っつーかさ」
月森くんが笑った。
月森くんとは同じ班だったので、フラグの絵について班で話し合いがあった日に、少し会話をした。
その日以降、月森くんは私に時々話しかけてくるようになった。
昨日なんかは、こんなことを彼から言われた。
ーーおまえってさ、変わってるけど、どんなやつか分かったら、わりと面白いやつだよな。
月森くんは、今日も時々授業中なんかに冗談を言ってきては、楽しそうにしていた。
ただ、私には彼が言っていることが冗談か本気かわからないので、「それって冗談?」といちいち聞かないといけない。
「なあ、俺、思ったんだけどさ……」
「何?」
「お前が描けば?」
「何の話?」
「フラグの絵だよ。
海音が描けば?
おまえ、間違いなく、クラスで一番絵がうまいと思うよ。
推薦してやるよ」
私は「ええっ⁉︎」と叫んで思わず立ち上がった。
椅子が派手な音を立ててひっくり返った。
「騒がないでください」
委員長が、メガネを光らせて真面目な顔で注意してくる。
「なあ、委員長、提案があるんだけさ……」
月森くんが手を上げて大きな声を出す。
「ちょ、ちょっと待ってよ……」
私は慌てて月森くんの言葉をさえぎった。
「私、絵が得意だなんて思ったこともないし、先生からほめられたことも一度もないよ」
私は今まで、いろんな学校に通ったし、担任になった先生にもいろいろな人がいた。
だけど、私の絵をほめてくれた先生は、その中に一人もいなかった。
それどころか、
「なんで言われたものを描かないの?」
などと、よく叱られていた。
「そっか。ほめられたことがなかったんだ。
宝のもちぐされだな」
と月森くんが言った。
「俺は、おまえが絵うまいの、クラスのみんなに知ってもらいたいんだけどなあ。
班での話合いの時、おまえの絵を見てびっくりしたもん。
細密画みたいなやつを、下書きなしでサラサラ描いてたじゃん。
すごいなと思ったよ」
その時、私の隣の席の男子も、ガタガタと椅子ごと体を私の方に寄せて、
「実は、俺も南さんは絵がうまいなって思ってた」
と言った。
後ろの席の女子もこう言う。
「私も。美術の時間に隣に座ってたけど、細かいところまで凝っててびっくりした」
クラスのあちこちで、ヒソヒソしゃべる声がする。
ーー別に、他に立候補者もいないし、南さんでいいんじゃない?
ーー南って絵うまいの?
ーー私、南さんがノートに絵を描いてるの見たことあるよ。確かにうまかった。
ーー南さんって、しゃべったことないけど……。
ーーちょっととっつきにくいよね。でも、絵はうまいらしいよ。
ーー誰でもいい。
ーー上手な人が描けばいいんじゃない?
ーー別に南さんでいいと思う。
ーー反対はしないよね。
ヒソヒソささやきあう声を聞いて、委員長が、
「賛成者が多いようですが、他に立候補者はいませんか?」
と聞いた。
クラスがしんと静まりかえる。
「それでは、南さんに描いてもらうということでいいでしょうか」
委員長がそう言った時、教室の隅で話し合いを見守っていた担任教師が、
「ちょっと待ってくれるかな」
と口を挟んだ。
担任教師は教壇に上がると、苦い顔をして、
「南自身はやってみたいのか? あんまり興味がなさそうな顔をしてたけど……」
と言った。
「なんか、圧を感じる言い方だな」
と月森くんがボソッとつぶやく。
「興味がないわけじゃないけど……」
と私は言った。
絵は好きだし、好きなことを褒められるのも、任されるのもうれしい。
だけど、私は不安だった。
これまで何度も人との関わりで失敗してきた。
クラスの代表で絵を描くことなんて、私にできるんだろうか?
失敗したくなかったら、クラスの人と極力関わらない方がいいんじゃないだろうか。
「人とコミュニケーションとれないようなやつに、任せない方がいいだろ」
そんな声が聞こえて、私はハッと声がした方を見た。
私をいじめていた男子の顔が、そこにあった。
彼は、自宅謹慎になって以降、暴力をふるわなくなったが、時々こんなふうに意地の悪いことを言うことがあった。
教室がまたザワザワとざわめく。
私は、どうしたらいいかのか分からなくて、教室の真ん中に突っ立ったままでいた。
「えっと……、その……」
言葉がうまく出てこない。
先生や、いじめっ子や、それ以外の生徒らや……、いろんな人の思いが教室にうずまいている気がした。まるで霧みたいに教室にもやがか勝っている。
だけど、自分がそれをうまくくみ取る自信がないので、何と答えるのが正解なのか分からずにいた。
言葉をしぼりだそうと手にギュッと力を込めては、何も言い出せずに手を緩め、またギュッと握りしめることを繰り返していた。
「海音」
教室の後ろの方の席に座っていた晴空が、そう呼びかけてきた。
私はその声を聞いた時に、自分のまわりでうずまいている霧のようなものがスッと晴れたような気持ちがした。
私は晴空の席の方へ目を向けた。
晴空は、いつもの穏やかな顔をしていた。
晴空はいつでも温度が変わらない。
いつも、ほんのりあったかい顔をしている。
私はただそれを見るだけで肩の力が抜けた。
「まずは、おまえの気持ちを聞かせてよ」
晴空がそう言った瞬間、教室は晴空と私だけの空間になったみたいに感じた。
まわりの生徒の存在も音も消えてしまった。
しんと静まり返った教室で、私と晴空は机をいくつかはさんで見つめあっていた。
「……私、やってみたい。だけど、トラブルを起こさないか不安なの」
晴空は、分かった、とうなずいた。
「やってみたいなら、やってみたらいいよ。
不安なことは、みんなで話し合いながら解決しようよ」
私はなんだかすごくホッとした。
人との関わりを避けなくたっていいんだ。
ちゃんとクラスの中で役割をもてるんだと思った。
「じゃあ、決まりだな」
と月森くんが言って、拍手をした。つられるように、教室中から拍手が起こった。
私は戸惑いながら辺りを見回した。
拍手に包まれたのは初めてのことだった。
照れくさくて顔から火が出そうだった。
教室の真ん中でオロオロとうろたえていた。
だけど、晴空が遠くの席から笑いかけてくるのが見えて、私はまたスッと胸が落ちつくのを感じた。
くすぐったい気持ちを感じながらも、晴空に笑みを返した。
続く~
休み時間のチャイムがなって、教室がザワザワとにぎやかになった。斜め後ろで椅子をひいて席から立ち上がる音がする。月森くんが私の方へ歩いてきて、ポンと肩に手を乗せた。
「がんばれよ」
私は席に座ったまま、もの問いたげな顔をして月森くんの顔を見上げた。
「ん? 何?」
月森くんは、私の顔にぐっと顔を寄せて見つめ返してくる。
私は人と目を合わすのが苦手なので、慌てて視線をそらさないといけなかった。
「ええと……、最近よく声をかけてくれるから、なんでかなと思って……」
「ああ、そのことね」
月森くんは無理やり私の視界に入ろうとするみたいに、私の机に腰をかけた。
「おまえは、なんでだと思う?」
月森くんが私の顔をのぞきこむ。
「さあ……?」
私が視線をそらすと、そらした方向から月森くんが顔をのぞきこんできた。逆方向に顔をそらしても、またのぞきこむ。なかなかしつこくて、何度顔をそらせても同じことだった。
私は目がまいそうになった。
「もう! やめてよ!」
私が怒ると、月森くんはクツクツおかしそうに笑いだした。
「ごめん、ごめん、マジで怒るなよ」
と月森くんが謝ってきた。
「話を戻すけど、なんで俺が最近おまえに話しかけるようになったかって言うとさ……、
海音が転校してきた時、なんか壁を感じたんだ。
いつも面白くなさそうな顔をして一人でいてさ。
だけどさ、一度話しかけてみたら、思ってたより普通に話ができたからさ、
なんだ、もっと早く話しかけてみたら良かったなと思ってさ。
たぶん、壁を作ってたのはお互い様だったんだと思う」
月森くんがニッと笑う。
「やっぱり、人ってちゃんと会話してみないと分かんないよな」
その時、
「そうよね!」
と、大きな声を出して二人の間に突然乱入してきた女の子がいた。
表情がクルクルとよく動く、勝ち気そうな女の子だった。
女の子は、月森くんと私の間に腕を伸ばして、バンッと音をたてて机をたたくと、
「やっぱり、会話してみないとね!」
と言った。
「えっと……、誰?」
とまどっている私に、女の子は不満そうな顔をする。
「えー、まだ名前、覚えてくれてないの? 同じクラスの一条花蓮!」
一条さんは、私の手をとると、はずむような元気な口調でこう言った。
「私はねっ、本当のことを言うと、あなたに興味はあったの。
だけど、一人でムスッとしてることが多いから、話しかけにくくて。
話しかけるきっかけを探してたの。
やっと話しかけられて良かった!
これからは、私ともおしゃべりしてよねっ」
一条さんが私の手を両手で包んでにこっと笑った。
「おまえは割り込んでくんなよ」
と、悠人が一条さんを押しのけようとする。
「なんでよ、私も混ぜてよ!」
月森くんと一条さんが言い合いを始めると、同じクラスの生徒たちがザワザワと周りに集まり始めた。
「何? 何?」
「何の話で騒いでんの?」
急にあたりが騒がしくなった。
みんなが口々にしゃべり、笑い合う。
言葉と視線が入り乱れていた。
急にたくさんの人に囲まれて、うれしいというより目が回りそうだった。
その話の輪の外で、ポツンと窓際にたたずんでいる人がいた。
それは、立花さんだった。
今日、立花さんは日直だったので、黒板の文字を黒板消しできれいに消したあと、手についたチョークの粉を窓の外ではたいていた。
そのあと、立花さんはチラリと私たちの方に顔を向けてから、再び窓の外を眺め、そこにポツン立っていた。
うつむき加減の後ろ姿が、さみしそうに見えた。
「ごめん、ちょっと、私抜けるね」
私は話の輪から抜け出すと、立花さんに駆け寄った。
私はまだ、この前の班での話し合いの時のことを、謝れていなかった。
「立花さん」
声をかけると、立花さんが不安そうな顔をして振り返った。
「何?」
私は話しかけておきながら、タイミングが唐突すぎたことに気がついた。
「えっと……」
なんで切り出せばいいだろう。
両手を握りしめ、精一杯言葉をしぼり出した。
「変なタイミングだけど、この前はごめん……」
立花さんは、それを聞いて目を丸くしてパチパチと瞬きをした。
変な間ができた。
やっぱり唐突すぎたかもしれない。
私はそのあと何と言葉を続けたらいいのか分からなくて、二人してパチパチ瞬きしながら戸惑い顔で見つめあっていた。
その時、私の肩に悠人が後ろから腕をからめてきた。
「もー、おまえ、何、急に話から抜けてんだよ」
「そうよ、私たちと話してたんでしょっ!」
一条さんがぷりぷりしていた。
私たち三人を取りまいていた人たちもそばにやってきて、三人のやりとりを見ておかしそうに笑った。
立花さんも、クスリとつられるように笑った。
私が、ハッとして立花さんを見ると、立花さんは私に視線を合わせて微笑んだ。
かすみ草がほろほろっと咲きこぼれるみたいな笑みだった。
月森くんや、一条さんや、立花さんの、
声と笑みに包まれるようにして私は窓際に立っていた。
窓からは、
日差しがうらうらと照りこんでいる。
その時、ふっと目の前の景色が今までとは違って見えた。
よそよそしく感じていた教室の壁や机や伝言板の掲示物が、少し近しいものに感じられた。
その景色の中に、晴空がいた。
晴空は席についたまま、窓の外を眺めていた。
私が晴空を見つめていると、晴空も私の方に視線を向けた。
そして、良かったな、というふうに微笑んだ。
遠くから、そっと見守ってくれているような笑顔だった。
• • •
晴空の覚え書き。
1、苦手なものって、誰にでもあるだろうけど、晴空の苦手なものを探すのは難しい。
虫も、ヘビも、ホラー映画も、テストも運動もなんでもこいだ。
2、怖いものも見つからない。
機嫌が悪いときの先生も、大きな声でどなる大人も、いじめっ子も、どんなものを前にしても、穏やかな顔をしている。
3、 苦手な人もいないみたい。
自分の自慢話ばかりする人、すぐ怒る人、すぐにいじける人……、どんな人とも穏やかに話ができる。
4、 そんなわけで、晴空は同じクラスの誰とでも仲良くできる。
午後の授業中、少し退屈していたので、ノートの端に晴空のことについて書き出してみた。
晴空は不思議だ。
晴空はどんなものにもすんなりとなじめるし、どんな人ともたいていうまくやれる。
(月森くんはそんな晴空のことを、
「超人的にいいやつなのか、ずば抜けて計算高いのかどっちかだ」
と言っていた)
教室や校庭で友達に囲まれている晴空は、いつも穏やかな顔をしている。
そして、よく笑っている。
だけど……。
私は鉛筆を動かす手を止める。
晴空は、私の前では穏やかでない時もある。怒ることもある。
みんなの前にいる晴空は隙がない。完璧。
だけど、私といる時は、もう少し人間くさい。
私といると、晴空は気持ちが乱されるみたい。
今日の昼休みだって、教室で晴空とケンカをした。フラフと同じサイズの紙に下書きをしていた時のことだった。
派手に口論をして、クラス中の人をびっくりさせた。
最後は晴空が怒ったまま教室を飛び出していった。
教室に取り残されたあと、急に後悔の念が湧いてきて、机にふせてため息をついた。
すると、そんな私の背中をちょいちょいと指でつついてくる人がいた。
振り返ると、斜め後ろの席から月森くんがこちらを見ていた。
「派手なケンカしたな」
そう言ってからかうように笑う。
「おまえ、よくあれほど晴空を怒らせたな。
クラスのみんなの前で晴空があんな顔を見せるのって初めてじゃないかな」
月森くんは楽しんでいるような口調だった。
「人ごとだと思って……」
と私はつぶやく。
晴空に言わせてみれば、月森くんは「人をからかうのが趣味」で、「楽しいことにしか興味がないやつ」だそうだ。
おまけに、「みんなとワイワイ楽しくやりたい時にだけ話に加わってきて、都合が悪くなるといつの間にか姿を消しているようなやつ」だという。
「晴空とケンカするつもりじゃなかったのに……」
そうつぶやいた私は、転覆した船みたいな気持ちだった。
がっくりと肩を落とし、うつむいて自分の膝を見つめる。
「まあ、落ち込むなよ。だけど、晴空も人間だったんだな。怒んないやつなのかと思ってた」
「私にはわりと怒るよ」
「へえ」と月森くんが大げさに驚いた顔をした。
「そんなに驚くこと?」
「そりゃ、そうだよ。
俺、晴空のことは小一から知ってるけどさ、あいつが怒るのって本当に珍しいことだぞ。
相当しつこくからめば話は別だけどさ」
そう言ってから、月森くんは大きく胸をそらした。
「まあ、この学校で、晴空を怒らせられるのは俺ぐらいじゃない?
俺は人をからかうことにかけてはプロ級だから」
私はあきれた顔をする。
「いばるようなことじゃないよ」
月森くんがへへへと笑ってから、こう言った。
「ともかくさ、あいつは怒んないやつだってことだよ」
私はしばらく黙り込んだ。
確かにそうだ。
月森くんは例外として、確かに晴空はクラスのみんなに対して怒らない。
私と二人でいる時より、クラスのみんなといる時の方がずっと優しい。
それって、つまり……、と私は心の中でつぶやく。
「晴空は、クラスのみんなと比べたら、私のことがあんまり好きじゃないのかな」
鉄の塊を飲み込んでしまったみたいに、胸のあたりが重苦しかった。
私の暗い横顔を眺めていた月森くんが、ふっと笑って、
「バカだな」
と言った。
私は目を丸くして月森くんを見た。
「その逆だろ」
私がキョトンとしていると、月森くんは机の上に身を乗り出してきて、ニヤニヤしながら私の顔をじっと見つめてきた。
「そうか、おまえだったのか」
「私が、何?」
「ずっと探してたけど、見つからなかった晴空の弱点。おまえだったんだな」
首をかしげる私を、月森くんは楽しそうに見つめていた。
「まあ、あとで晴空と仲直りしてやれよ。その方が俺も楽しいから」
そう言って、月森くんは頭の後ろで手を組んで椅子の背もたれにもたれた。
ちょうどその時、チャイムが鳴った。晴空がもうすぐ教室に帰ってくる。
私は、一つ、深呼吸をした。
続く~
みんなの覚え書き。
1、暗黙のルールがある。
(そして、みんな、それをいつ習ったのか知らないけれど、知っている)
2、急に話に割り込んだり、話から急に抜けるとびっくりされる。
3、いろんなことに興味がある。
(私は絵を描くことくらいしか、好きなことがない。
クラスのみんなが話しているような、ファッションとか、音楽の話題とかに興味をもてない。
いろんなことに、ちゃんと触れてみようとするけど、ちっとも面白みがわからない)
4、私は、変だと思うことがあったら、ちゃんと追究したいと思う。
でも、「なんで?」って聞きすぎると、みんなは困ってしまうらしい。
5、みんなは何か作業をしていても、周りのことをちゃんと気にしつつ作業をしている。
(私は絵を描き出したら、まわりの様子が意識からとんでしまう。会話の途中だって、授業中だってそう)
7、体育で新しいことを習ったとき、みんなは私より早く覚える。
習字道具とか、家庭科の道具とか、新しい道具もすぐに使いこなす。
(みんなが器用というより、私が不器用なのかもしれない)
最近、クラスのみんなのことについてよく考える。
私とみんなはいろんな点で違う。
私は、自分とは違うみんなを、ちゃんと知りたいと思っている。
そして、みんなと違う私自身のことも知りたいと思っている。
だから、私は時々こうやってノートに気がついたことを書き出す。
それが何につながるのかは分からないけれど。
• • •
今日、放課後にフラグの製作をした。
フラグは縦一・三メートル、横ニメートルくらいの大きさがあった。
布を板に貼り付けてピンと伸ばして、その板を教室の廊下側の壁に立て掛けて描いた。
左端に大きく縦書きで〝未来へ〟の文字。
右端には三年一組の文字。
空いたスペースに、紙に下書きした絵を写していく。
私が絵を描くのを、同じクラスの生徒がそばから眺めていた。
「船?」
「飛行船だろ? だって、空飛んでるぜ」
「未来の乗り物みたい」
「すげーな、細かいとこまで凝ってる」
月森くんと、その友達が並んで交互にしゃべっていた。
私は褒められてちょっと困った顔をした。
私は、けっして自分の絵がうまいとは思わなかった。描きたいイメージに、手が追いつかない。
それに絵の知識も技術も未熟だった。絵を描くのは好きだけれど、描き方を習ったことはなかった。
だけどーー。
私は、新たな線を描き足しながら、こう思った。
私の絵は未熟だけれど、それでも、私は私の絵が好きだった。
私の絵は、ちゃんと息づいていた。
絵に命を感じるのは、私の中に描きたいものがはっきりと存在しているからだと思う。
私の中にいるそれらのものは、無視できないくらい胸の中で生きていたし、血だって流れていた。色鮮やかな感情も持っていた。
ペンを取れば、それは目の前に浮かび上がってくる。
泉から水が湧き出すみたいに、とめどなく、どんどん、どんどんとあふれ出してくる。
私は、それを夢中で追いかけているだけだった。
絵を描くために、机は教室の後ろに寄せられていた。
その一つに晴空が腰を乗せて、私のノートーーみんなの覚え書きを書いたものーーを読んでいた。
その姿をちらりと見てから、また絵を描く。
手先に気持ちが集中していく。
そのうち、頭と手以外の体のパーツがあることを忘れそうになるくらい絵に没頭していた。
「ねー、聞いてる?」
私の横で、一条さんがちょっと不機嫌そうな声を出した。
私は絵に夢中になりすぎて、一条さんに話しかけられていることに気がついていなかった。
「ごめん、何?」
「やっぱり聞いてなかった。もういいや」
一条さんが肩をすくめた。
「まあ、絵を描いてる時に話しかけたら邪魔だよな。帰ろうぜ」
月森くんがそう言って鞄を背負った。
まわりを囲んでいた人たちも、各々、鞄を手にして教室を出ていく。
立花さんが、私と帰っていくみんなを見比べて、困ったような顔をしてから、バイバイ、と無言で私に手を振って教室を出た。
教室が急にしんとした。
それまでまわりの音が聞こえていなかったくせに、本当に静かになると、静けさをさみしく感じた。
小さくため息をつく。
みんなから話しかけてもらえるようにはなったけれど、みんなと今一つ距離が縮まらない。
一緒にいても〝みんな〟と〝私〟って感じ。
胸がスンとする。
誰か、このさみしさを共感してくれるだろうか。
一つになれないという感じ。
みんなと私の不思議な違いは、これからどう向き合っていけばいいんだろう。
絵を描く手を止めて、しばらく、みんなが出ていったドアを見つめていた。
その背中に、晴空が話しかけてきた。
「なあ、海音」
私は振り返った。
「海音はさ、このノートに書いてあるようなこと、親に相談してみたことってある?」
答えようかどうしようかためらってから、
「ないよ」
と答えた。
「学校でどんなふうに過ごしてるのか話したこともないし、聞かれたこともない」
「なんで?」
私は、手元を見つめて、小さくため息をついた。
「両親、仲悪いんだ。ケンカばっかり。
私のことどころじゃないって感じ」
そう言って、またペンを握り直す。
絵の主題である翼を描き込んでいく。
「そうだったんだ。そういや、海音ってあんまり家の話をしないよな」
「話したって仕方ないもの。たぶん、これからもケンカを繰り返すと思う。そのうち、離婚するんじゃないかな」
「あっさり言うね」
「毎日ケンカしてるのを見るの、疲れたし。
そんなにケンカするなら別れたらって思う」
そう言った時、自分の言葉に違和感を覚えた。
私、本当にそう思ってるのかな。
疑問が心に湧いた。
突然、ペンがどちらに行きたがっているのか分からなくなった。
頭の中から、ふっとイメージが消える。
完全に、ペンが大きな布の上で迷子になってしまった。
ぴたりと手を止めたまま、絵を見つめていた。その時、晴空がすぐ隣に立って絵を見下ろした。
「それ、想像で作った乗り物?
すげーな、ファンタジーアニメに出てきそう」
絵の中には、空を飛ぶ機体の姿があった。
飛行船の下にたくさんのワイヤーで船がぶら下げられている。飛行船も船も、アンティークな雰囲気のもので、船からは木製の翼が生えていた。
機体は空に大きな翼を広げ、悠々と空を飛んでいく。
「これね、変形するの。翼と飛行船部分を外したら海も渡れるんだよ」
説明してるのを聞いて、晴空が、
「なんか、生き生きしてるな」
と言った。
「おもしろいな。俺、この船に乗ってみたいよ」
「乗ってるんだよ」
私はそう言って翼を指差した。
そこに〝3ー1〟と書いてある。
「三年一組の生徒みんな、この船に乗ってるんだ。
みんなで未来に向かってる絵なの」
頭の中では、船の窓がクローズアップされた様子が思い浮かぶ。
船体に並んだ丸い窓の内側には、三年一組の生徒みんなの顔がのぞいていて、みんな空を眺めて笑っていた。
「いい絵だな」
と晴空は言った。
私は晴空に褒められて、より自分の絵が好きになった。
そして、絵の中の船に本当に乗ってみたいな、と思った。
晴空と二人で並んで、窓から空を眺めてみたい。船の下に見える雲を見下ろしてみたい。
そう思いながら、窓辺に二つの小さな影を描き足した。
「それにしても、細かいとこまでよく描いてるな」
晴空が手元をのぞきこんでくる。そして、あっとつぶやいた。
「この窓さ、よく見たら、人影がいない?」
晴空が窓を指さして言った。
「これ、このクラスの誰かだよね?
誰と誰?」
顔が急激にほてるのを感じた。鏡で見てみたら、真っ赤だったかもしれない。
私はさっき描き足した影を手でおおった。
「人なんて描いてないよ」
「なんか描いてたじゃん、隠すなよ」
晴空は私の手をどけようとする。
「何にも隠してないよ」
「だったら、その手を外せよ」
「どうせ見たって顔まで描きこんでないから」
「やっぱり人なんじゃん!」
「もうしつこいな。作業の邪魔だよ、あっち行っててよ」
絵のそばにしゃがみこんで、私と晴空は肩をつかんで押し合いを始めた。
そのうちに、体勢を崩して私はひっくり返りそうになった。
グラッと体が揺れた。次の瞬間には、晴空も巻き込んでコントみたいに床の上に転がっていた。
「もう、晴空のせいだからね」
転がったまま天井を見上げて文句を言うと、晴空は転がったままクスクスと笑い出した。
「何がおかしいんだか……」
唇を尖らせる私の隣で、晴空は楽しそうな顔をしていた。
そんな顔に少し戸惑って、窓の外を見ると、夕焼け空が見えた。
あかね色に染まった雲が、風で流れていく。
気がついたら、窓から差し込む夕日で、教室も赤く染まっていた。
夕焼け空の中に、晴空と二人で浮かんでいるみたいだった。
「真っ赤だね」
と私が言うと、
「きれいだな」
と、晴空が言った。
私はこうやって晴空と二人で夕焼け空を見上げていることを不思議に思った。
去年までは、私はひとりぼっちだった。
去年住んでいた街の、ひっそりとした夕方の団地を思い浮かべた。
団地の向こうに見えていた夕空も、静かでひっそりとした空だった。
いつも一人で眺めていた景色。
「なあ……」
晴空が隣で体を起こす。
寝転がっていた私の顔を眺めると、優しい声でこう言った。
「さっきのノートの話だけどさ、学校でなんか困ったことがあったらさ、隣に来いよ。
困ってることを話した方が楽になるなら話したらいいし、
それすらしんどかったら何にもしゃべんなくてもいいし」
私はしばらく晴空の顔を見つめたまま、黙っていた。
教室を満たす空気は、静かだった。
斜めに差し込む夕陽と、
床に映る窓枠の影。
「どうしてそんなふうに言ってくれるの?
そうしたら私は楽になるけど、晴空はそれで楽しいの?」
私は窓枠の影を眺めた。
うん、という答えを期待していなかった。
だけど、晴空が微笑む気配がして、晴空の顔に視線を戻した。
晴空の顔は夕陽にまばゆく照らされていた。
「楽しいから一緒にいるんじゃないんだよ。
もっと他に理由があるんだ」
「他の理由?」
晴空が、ちょっと困ったように笑う。
「窓の人影が誰か教えてくれたら、答えてやってもいいけどな」
そう言って寝転がっている私の頭に、そっと手で触れた。
そして、何かを伝えようとするように、優しく私の頭をなでた。
晴空の手のひらの感触を感じながら目を閉じると、まぶたの裏に柔らかな夕日の光がさした。
夕焼け空に包まれたみたいだった。手を伸ばすとあかね色の雲に触れそうだった。
ふわふわする、と私は思った。
続く~
夕方の公園で、晴空とブランコに腰掛けて、幼い頃の話をしていた。
母は専業主婦だったが、家事にはこだわりがあったので、いつも決まった手順で時間をかけて家事をしていた。いつも忙しそうで、添い寝などしてくれた記憶もない。
だけど、片手で数えられるくらいの回数だが、眠る前に私を抱いて歌を歌ってくれたことがある。
その歌は、子守唄ではなかった。
題名はわからないが、童謡だと思う。
母はその歌を、家事の合間にも時々歌っていた。
そう言えば、ここ数年は母がその歌を歌うのを聞いていない。小学校高学年になってからは、学校から帰るとほとんど自分の部屋にこもっているからかもしれない。
私はその歌の題名を知らないし、歌詞もところどころしか覚えていない。
でも、どういうわけか、ふとした時にその童謡を思い出すことがあった。そのたびに、なんて名前の歌なんだろうと考えた。しかし、どうやって題名を調べたらいいのか分からなくて、ずっと謎のままになっていた。
「ちょっと歌ってみろよ」
と晴空が言った。
私は覚えているところだけ歌ってみた。
ーーふけゆく 秋の夜 旅の空の
わびしき想いに 一人悩むーー
夕焼け空の下で童謡を歌うと、心細い気持ちになる。
「知ってるよ、その歌」
と、晴空は言った。
「〝旅愁〟だろ? 俺の母さんも、よく子守唄がわりに歌ってくれたんだ。
全然子守唄っぽくないけど、なんでその唄だったんだろうな」
私は、驚いた。
私たちは、別々の場所で生まれて、別々に育ったけれど、同じ歌を子守唄がわりに聞いて育ったのだ。
私は、出会う前から晴空とつながっていたように感じた。
公園は私たち以外には誰もいなくて静かだった。
私たちは、夕空の下でブランコを揺らして旅愁を歌った。
私の声は心細げに響いた。
晴空は微笑むように柔らかに歌う。
私と晴空の声が重なり合い、夕方の空気ーー色鮮やかでそれでいて静かーーに、溶けるように広がっていく。
遠くの山の端が金色に燃えている。
小学三年生の頃にいた学校は、田舎にあって、学校の近くに小さな山や小川があった。
夕方になると、山も川も赤く染まってきれいだった。
だけど、思い出すと、胸にすきま風がふくみたいにさみしくなる。やっぱり、あの場所でも私はいつも一人だった。
「体育祭まで、あと二週間くらいだな」
と、晴空がブランコを小さく揺らしながら言った。
「中学最後の体育祭だね」
今まで、いい思い出は一つもなかった。
仲間とか、団結とか、にぎやかさとか、体育祭って素敵だ。だけど、体育祭が盛り上がるほど、さみしかった。
ーーでも、今年は……。
胸に浮かんだ言葉の続きを、ブランコをこぎながら、口に出してみた。
「いい思い出、作れるといいな」
私はブランコをゆらゆらと揺らした。
揺れるたびに、空に放りだされそうに感じた。
ブランコは波みたいだ。
ゆらゆらと揺れ、心も揺れ、夕焼け空も揺れていた。
夕焼け空は感情豊かだ。
赤に、オレンジに、紫に、いろんな色が波のように広がっている。
「そうだな」
そう答えてから、晴空はブランコから飛び降りた。そして、私に振り返った。
「なあ、ちょっと付き合ってくれないか」
「何に?」
「リレーの練習」
赤く染まる公園のグラウンドを私は走る。いらなくなったプリントを筒状に丸めたものを、バトンがわりに持って。
走った先で晴空が待っていて、丸めたプリントを受けとって走り出す。
晴空は、リレーの選手だった。
リレーは体育祭のラストをしめくくる種目で、晴空はアンカーを務める。
バトンを渡したあと、肩で息をしながら、走る晴空の後ろ姿を眺めた。
身長の伸び盛りの、少年らしい体をしならせ、力強く土を蹴って走っていく。
もう、二人で何回グラウンドを回っただろう。私はもうヘトヘトだったのに、晴空はまだ余裕のある表情をしていた、
額の汗を手の甲で拭いながら、
「なんだよ、もう疲れたのか?」
と聞いてきた。
「私が女の子って忘れてない? 晴空の体力に合わせられるわけないじゃん」
そう言って、地面の上に仰向けに横たわった。
「なあ、そう言わずに、あと一周だけ走ろうよ。今度は二人並んで」
「え~、もう本当に限界なんだってば」
「おまえのペースに合わせるからさ」
そう言って、私の手を引っ張って立たせる。私はあきらめたみたいにため息をついた。
二人分の、大きさが違うスニーカーが夕日に染まった砂の上を駆けていく。
砂の上には、昼間誰かが書いた落書きが残っていて、〝ずっと一緒にいようね〟と書いてあった。
「なあ……」
走りながら、晴空が話しかけてくる。
「おまえさ、誰か俺以外のやつにも、自分のことを相談してみないか?」
ハアハアと荒く息をしながら、私は聞き返す。
「自分のことって、あのノートに書いてたこと?」
「そう」
「嫌だよ。なんでそんなことをしなきゃいけないの?」
立ち止まり、不機嫌な顔をして見せた。
晴空も、立ち止まって振り返った。
「姉ちゃんもさ、おまえと一緒でちょっと人と違うからさ、学校でうまくいかなくて悩んでたんだ。
だから、保健室の先生とか、スクールカウンセラーとか、いろんな人に相談してたよ。
今もアメリカの学校で担当のスクールカウンセラーがいるんだ。
いろいろアドバイスもらって、自分の個性とどう向き合えばいいか分かるようになったって言ってた。
だから、海音もさ……」
「絶対に嫌!」
晴空が言い切る前に、キッパリと拒否した。
「晴空だから、相談できるんだよ。
なんで信用もしてない人に、自分の弱みをさらさなきゃいけないの?」
そう言って、ムッスリと黙り込んだ。
晴空が困ったようにため息をつく。
「じゃあ、考えてもらっておくだけでいいよ。海音の気持ちが変わったら、相談に行こう」
私はしぶしぶうなずいた。
• • •
公園をあとにして、並んで路地裏を歩く。
道は狭くて、二人並んだらもう道幅いっぱいだった。
日はすでに沈んでいた。
家の塀に囲まれた路地裏は薄暗かった。
先週の土曜日、晴空とこの路地裏でキャッチボールをした。なんだか小学生にもどったみたいな気分だった。
私は運動が苦手だったので、キャッチボールなんて気がすすまなかったけれど、やってみると不思議と楽しかった。
下手とか上手とか関係なく、体を動かすことが気持ちいいと思えた。
思い返すと、幼い頃は、運動が苦手かどうかなんて関係なく、単純に体を動かす喜びを知っていた。ひたすら延々と、小学校や公園の遊具で遊んでいた。
晴空は、幼い頃は知っていたその感覚を体に呼び覚ましてくれた。
ただ楽しくて、楽しくて、体が夢中になって動いていた。
キャッチボールをしたあと、路地裏を山手へ進んだ先にある小さな川で遊んだ。
木の枝に糸をつけてたくあんを結んでおくと、カニが釣れるんだと晴空が言って、やって見せてくれた。
本当に言った通り、小さなカニが釣れた。
カニはハサミでたくあんをしっかり挟んでいた。
晴空がカニを川にはなしてやろうとしたら、指をはさまれそうになって二人で笑った。
楽しい思い出ばかり思い出しながら、浮かない顔をしていた。
歩きながら話しかけてくる晴空にも、気のない返事ばかりをしていた。
晴空が立ち止まって、
「なあ」
と声をかけてくる。
「怒ってんの?」
目をそらし、ちょっと黙ってからこう答えた。
「だって……、他の人に相談しろなんて言うから……」
晴空が肩をすくめる。
「相談できる相手は、少ないより多い方がいいじゃん」
「それはそうだけど……」
二人は立ち止まり、路地裏で向かい合った。
私はうつむいて晴空の足元あたりを見ていた。街灯の明かりがチカチカと点灯して、二人の影も瞬く。
「なんか……、突き放された感じがしたから……」
うつむいたまま、頬を膨らませてボソッとつぶやいた。
その様子を見て晴空がふきだした。
「なんだよ、そのほっぺた」
頬を指でつまんでくる。カニみたいに、ギュッと。
「もう、痛いって! やめてよ!」
頬をつまむ手を振り払う。
晴空が星空みたいに明るく笑った。
気がつけば、空は紺色になっていて、ちらちらと星が瞬いていた。
晴空がまた、歩き出す。私も半歩後ろに続いて歩いた。
「おまえを見てたらさ、昔飼ってた犬を思い出したよ」
「犬?」
「うん、そいつ、捨て犬だったんだ。俺がひろってきてさ。
飼い始めはすごく警戒心が強かったのに、しばらくしたらめちゃくちゃなついてきて……。
どこに行く時もついてこようとするから大変だったよ」
私は自分に犬の耳と尻尾が生えて、キャンキャンと晴空について回る様を想像した。
「やめてよ、犬と一緒にしないでよ!」
ふくれっつらをすると、晴空が振り返って私を見て、またおかしそうに笑った。
「もういいよ」
私は晴空を追い越して早足で歩く。
冷たい春の夜空が目の前にあった。
月も星も悲しいくらいに綺麗。
それぞれひとりぼっちで輝いていた。
私は空を見上げて足をゆるめた。
「晴空はいつも友達に囲まれてるから、伝わらないかもしれないけど……、
私、ちょっとしたことで不安になるんだ。
晴空と仲良くなれたのに、また一人になるんじゃないかって思って……」
背後で、「なんだ、そんなことか」とつぶやくのが聞こえた。
「そんなことって!」
怒った顔をして振り返ると、晴空が私をちゃんと真っ直ぐに見て微笑むのが見えた。
「そんなこと、心配しなくていいよ。
一人にはしないから」
晴空の頭上で星が明るく瞬く。
晴空は星のように陰りのない声で言った。
「なあ、海音。
もしおまえがさ、俺以外の人には頼りたくないって言うんなら、俺はそれでもかまわないんだよ。むしろ、俺だけに頼ってくれるのは嬉しいよ。
だけど、俺はおまえをさ、あんまり依存させたくないんだ。
なんでか分かる?」
私は首を傾げた。
「おまえに、ちゃんと自分で自分を幸せにする力を持ってほしいからだよ」
流れ星が一つ、路地裏の向こうへ弧を描いて飛んでいく。
星は凛と胸をはって、一人きりで輝いていた。
「いろんな人に相談してみようって提案したのはさ、突き放したわけじゃないよ。
海音に、悩みを解決する手段をいっぱい持っていてもらいたいと思ったんだ。
俺は、ただ、海音に幸せになってもらいたいんだよ」
星空の下、晴空は自分の足で立っていた。
私も、自分の足で、しっかりと自分を支えていた。
ああ、そっかーー。
私は胸の中でつぶやいた。
晴空は私に一人で歩いてほしいんだ。
そして、一人で歩くっていうことは、ひとりぼっちっていうことじゃないんだ。
心の中に沈澱していた不安やさみしさが、夜空に溶けていく。
春の夜空はつんと冷たくて、だけど、そこに浮かぶ星たちは、となり同士、微笑みあうように瞬いていた。
• • •
その夜。
お風呂からでたころに、晴空から電話がかかってきた。
携帯電話を耳に当て、晴空の話に相槌をうっていたが、なんの用事なんだか分からないような電話だった。
最近悠人がしたイタズラの話ーー悠人が友達の家に遊びに行った時にこっそり歯磨き粉にねりわさびを入れて、翌日友達からブチきれられたことーーとか、
一条さんと立花さんは性格は真逆だけど、幼稚園時代からの幼馴染で、とっても仲良しであることとか、
どう考えても明日話したっていいようなことばかりだった。
夜遅くに電話をしている声を聞きつけて、部屋にお母さんが入って来た。
「もう、時間も遅いから、そのへんで切りなさい」
と、わざと大きな声を出す。
それが電話の向こうにまで聞こえていたようで、晴空が、
「じゃあ、もう遅いから……」
と話を終わらそうとした。
「うん、また明日」
私は電話を切ろうとした。
その時、晴空が、
「あ、待って」
と言った。
「何?」
晴空は、電話の向こうで少し黙ってから、
「……やっぱり、なんでもないよ」
と言った。
「そっか……、じゃあ、またね」
そう言って電話を切ると、携帯電話を勉強机の上に置いた。パジャマ姿で勉強机に頬杖をついて、しばらくぼんやりとした。
そして、何の電話だったんだろう、と考えていた。
晴空は何かを伝えたかったんじゃないだろうか。
路地裏で伝えきれなかった何かを。
私は路地裏でのやりとりを思い返す。
ーー俺は、ただ、海音に幸せになってもらいたいんだよ。
熱がこもった言葉だった。
晴空は、どうして、私のことをそんなに真剣に考えてくれるんだろう。
私は机の上に転がっている消しゴムを拾うと、鼻に近づけた。におい付きの消しゴムで、桜のような甘い香りがした。甘い香りをかぐと、晴空からかけられた言葉を次々と思い出した。
ーーそんなこと、心配しなくていいよ。一人にはしないから。
ーーなんでか分かる? おまえに、ちゃんと自分で自分を幸せにする力を持ってほしいからだよ。
晴空は優しい。
晴空はきっと底抜けのお人よしで、私の幸せを心から願ってくれている。
それなら、私は晴空に胸を張れるような人生を歩まなくてはいけない。
でも、胸を張れるような人生ってどんなものだろう。
自分の〝目標〟とか、自分の〝夢〟とか、それはいつどうやって見つけるんだろう。
私は、机の引き出しを開いてノートを取り出すと、思いつくままに言葉を書き出してみた。
自分の心をシャベルで掘るように、深く深く掘り起こしていけば、その中に〝夢〟や〝目標〟が見つかるかもしれない。
だけど、ノートに並んだ言葉は、〝夢〟や〝目標〟ではなく、晴空からもらった言葉ばかりだった。
ーー学校でなんか困ったことがあったらさ、隣に来いよ。
ーー楽しいから一緒にいるんじゃないんだよ。
もっと他に理由があるんだ。
ーー心配しなくていいよ。一人にはしないから。
私はそれらの言葉をじっと眺めてみる。
それらの言葉は、路地裏で見た流れ星みたいに輝いていた。
私は両手を器のようにして、何かをすくうような仕草をした。
キラキラ光るたくさんの言葉を、私は手のひらにすくいあげた。
そして、それをそっと胸に押し当てた。
すると、あたたかさを胸に感じた。
晴空からもらった言葉が、種のように私の胸に宿った。
そんな気がしたのだった。
• • •
その夜、夢を見た。
校庭から、大きな植物が生えていた。
それは、塔のように太い茎を空に向かってにょきにょきと伸ばし、大きな赤い花を咲かせていた。
運動場がすっぽり影に覆われるくらい、大きな花だった。
青い空に、殴り込んでいくみたいなくっきりした赤い色。
それは、〝夢〟が咲いたような鮮やかな色だった。
続く~
次の日の夕方、晴空と近所の川沿いの道を歩いて家に帰った。
その道は、晴空と〝モモ〟がよく一緒に散歩した道だそうだ。
モモは、晴空がかつて飼っていた犬で、おそらく雑種だったけれど、豆柴に似た外観をしていたらしい。
晴空は、モモのことを今でも愛しているのだろう。モモのことを話す晴空の口調には、優しさと愛情と死に別れた悲しみが満ちていた。
晴空がモモを拾ったのは、小一の冬で、それから、モモは晴空の家族になった。一緒に遊んで、一緒に眠って、一緒に成長を重ねた。
晴空が小五の時、おじいちゃんが病院で亡くなった。慢性心不全の末期だった。晴空は両親と一緒に病院へ呼ばれ、おじいちゃんとお別れをした。
それから家に帰ると、モモが玄関にやってきて、晴空を見上げてしっぽをふった。
普段は晴空が帰ってくると嬉しそうに飛びついてくるのに、その日は小首を傾げて晴空を見上げていた。
晴空がしゃがんで頭をなでてやると、モモはキューキュー鳴きながら晴空の顔をなめた。なぐさめるみたいに、何回も。
ーー暗い顔をしているから、心配してくれているんだ。
晴空はそう思った。
言葉は通じなくても、晴空の気持ちがモモにはちゃんと伝わるようだった。
それからも、モモは晴空の一番近くにいた。毎日、毎日、たくさんの時間を共に過ごした。一年前に、モモが病死するまでは。
死の数日前から、モモは歩けなくなった。だんだんと弱っていくのを、晴空はただ見ているしかなかった。
苦しいだろうと思った。死ぬことは怖いだろうとも思った。
晴空にできることは、そばにいてやることだけだった。
晴空がなでると、モモはどんなに苦しくてもわずかにしっぽを持ち上げてふった。
晴空はモモをみとった。最期の時までそばにいて、ちゃんと見送った。
モモはたくさんのことを教えてくれた。
愛すること。
愛されること。
悲しい時にそばに誰かが寄り添ってくれたら、心が強くなること。
晴空は思った。
これから先、自分の存在を必要とする人が現れたら、モモのようにそばに寄り添ってあげようとーー。
晴空からモモの話を聞きながら、川面を眺めた。
風がすみれ色に染まった川面を渡っていく。
波打つ川面が夕日を反射して光って見えた。
この川沿いの道を、これまで何度も晴空と歩いたことがある。
真っ直ぐに伸びる見晴らしのよい道を、どっちが早く駆け抜けられるか、ふざけて競争したことも、川原におりて小石で水切りをして遊んだこともあった。
晴空は楽しそうに笑っていたけれど、もしかしたら、この場所を一緒に散歩したモモを思い出してさみしく感じていたのかもしれない。
私はとなりを歩く晴空の横顔を眺めた。
すると、晴空は私の方を向いていつもみたいに笑った。だけど、その笑顔に、いつもとは少し違う表情が読みとれて……。
ーーああ、なんだろう。何かしてあげたくて、でも何も思いつかなくて……。
となりを歩く晴空に、私はそっと距離をつめた。
歩くごとに私の手と晴空の手が揺れて、手の甲が軽く触れ合った。
私は手をそっと晴空の手に重ねた。
晴空が驚いた様子で、私に顔を向けた。
私は気恥ずかしくて目を合わさずにいたが、キュッと手を握り返されるのを感じた。
私も手にキュッと力をこめた。
空は、すみれ色のような藤色のような、あいまいな色をしていた。
地面に伸びる二人の影が、仲良く手をつないで揺れていた。
• • •
「雨の音」
そう言って絵を描く手を止めて、教室の窓に振り返った。
私はその時、いつものように、フラグを貼り付けた板を教室の壁に立て掛けて、絵の続きを描いていた。
振り向いた先に、窓にもたれかかる晴空の姿があった。教室にその時いたのは晴空と私だけだった。他の生徒は下校していた。
窓の外に、五月の柔らかな雨が降っている。
校舎のそばに立つイチョウの緑色の葉を、しとしとと濡らしていた。
雨のせいか、まだそんなに遅くないのに外が暗く見えた。
「そろそろ、終わりにして片付けるよ」
私が言うと、
「いいよ。気がすむまでやれよ。待ってるから」
と晴空が言った。
今日は、絵に色をつける作業をしていた。
筆とパレットを持って、縦の長さが自分の身長とほとんど変わらない大きな絵と格闘していた。
色をつけながら、背景が少し寂しいなと感じていた。船の後方のスペースが空いているから、そこに何か描き足したかったが、いい案が浮かばなかった。
私が絵を描いている間、晴空は本を読んだり、宿題をしたり、私が絵に向かっているのをただ眺めたりしていた。
描き終わるまでそばで待たれていても、不思議と気づまりではなかった。
むしろ、そこに晴空がいると感じながら絵を描くことが心地よかった。
もともと、人付き合いが苦手な私が、こんなふうに感じるなんて、不思議なことだった。
だけど、確かに心地よかった。
教室に晴空の気配が溶けていく。
自分の気配もそこに混ざり合う。
教室を、しとしとと雨の音が濡らす。
絵に色を添えるたびに、私の胸はむずむずとした。
自分の気持ちが絵の中で色づこうとしている。
そんなふうに感じた。
いつの間にか晴空が隣に立っていて、感心するような顔で絵を眺めていた。
「おまえの頭の中には、どんな景色が広がってるんだろうな」
とまぶしそうな声でつぶやく。
「一緒に並んだら、おまえが見てるものが見えるかな」
と、すぐ隣に立って、同じ高さに顔を並べて絵を眺める。
「近いよ……」
と、肘でついて遠ざける。
「何? 照れてんの?」
と晴空がニヤッとする。
「照れてない」
ツンとして言う。晴空がおかしそうに笑った。
それから、ふと、笑うのをやめて、真面目な口調でこう尋ねてきた。
「海音はさ、俺がおまえのどこを好きか知ってる?」
私はドキリとした。
「さあ……」
視線をそらして、動揺していないふりをした。
「ちっとも分かんない」
「だろうな」
晴空は笑みを含んだ声でつぶやいた。
「変なの……」
さっきの質問は、どういう意味だろう。
どうして、わざわざ聞くんだろう。
そして、私はどうしてこんなにドキドキしているんだろう。
私の横顔を晴空が眺めている。
視線がこそばゆい。
晴空は、私を見つめながら、
「なあ……」
と話しかけてきた。
「何?」
「今度さ、美術館に行ってみないか?」
私は目を丸くした。晴空に外出に誘われたのは初めてだった。
でも、どうして美術館なんだろう。
晴空が絵が好きだなんて話は聞いたことがない。
私も美術館に行きたいなどと言ったことはない。
「私、絵は好きだけど、美術館に行きたいって思ったことはなかったけど……。
図書館に画集もあるし、ネットでも見られるし」
「本物を見るのは違うと思うよ」
「そういうものなのかな?」
私は考えこむ。
初めてやることには、いつも少し不安を感じた。
それに、人混みも苦手だった。
だから、今まで美術館に出かけてまで、絵を見ようと思ったことがなかった。
「私、本物を見たことがないから分からないけど……」
「行ったことないの? 美術館とか、ギャラリーとか……」
意外そうな顔をして、晴空がこちらを見た。
「ないよ」
「じゃあ、なおさら行こうよ」
なあなあ、行こうよ、とじゃれつく犬みたいな声を出す。少しあざとさを感じるしゃべり方だった。
「やだってば」
納得していないことをするのは嫌いだった。嫌だ、嫌だとつっぱねた。
なのに、晴空はまったく引く様子がない。
ますます、楽しそうな顔で誘ってくる。
根負けした私は、
「分かった……」
としぶしぶ答えた。
「本当は、まだ納得できてないんだからね」
「分かってるって。でも、行ってくれるんだろ。約束だからな」
晴空がニッと口端を持ち上げた。
その顔を眺めて、ちょっと困ったように眉尻を下げる。
結局、いつもこうだ。
私が不機嫌な顔をして見せても、晴空の方が一枚うわてで、うまく丸め込まれてしまう。
数日前、公園でもめた話についても、結局は晴空の提案どおりになってしまった。
「私、やだからね。晴空以外の人に相談なんかしたくないから」
そう言って何度も断ったが、晴空はまったくめげない。最終的には晴空の言葉にうまくのせられて保健室に足を運んでいた。
保健室の先生は時々質問をはさみながら丁寧に悩みを聞いてくれた。
そして、今度、保健室の先生からスクールカウンセラーを紹介されることになった。
「スクールカウンセラーはね、心理相談にのってくれる人よ。人づきあいについてのアドバイスも得意だから、じっくり話をしてみてね」
保健室の先生は、メガネの奥の目を細くして私に言った。
「きっと、あなたの人生にとって、スクールカウンセラーとの出会いが重要な意味をもつようになると思うわ」
保健室の先生の背後にある窓からは、昼間の日差しが柔らかく差し込んでいた。太陽は、私の行く道を指し示すように、空の高みで輝いていた。
「晴空ってずるいよね」
帰りの道中、傘を忘れていた私は、晴空の傘に入れてもらっていた。
「何が?」
と、晴空がとぼける。
「私がどんなにごねても、晴空の思った通りになっちゃうから」
晴空は、ふふっと笑うと、
「おまえは我が強いんだけど、俺の話はちゃんと聞いてくれるからな」
と言った。そう言って、私の頭をポンポンとなでた。
「なあ、話変わるけど、美術館に行く日、いつにする? 俺、今度の土曜日がいいんだけど」
「なんで?」
「その日は、ちょっと特別な日だから」
晴空の声がすぐ隣で聞こえる。高さの違う肩が傘の下で並んでいた。
「何の日?」
と私が聞くと、
「まだ教えない」
と、秘密めいた言葉をつぶやいた。
そして、晴空はこれまで見たことがないような笑みを浮かべた。
親密さと大人びた雰囲気が入り混じる笑みだった。
キスをする直前に浮かべるような、特別な笑みに見えた。
視線を交わしているだけなのに、私はとてもドキドキとした。
しとしとと、柔らかな雨がふる。雨の音が傘ごと二人を包みこんでいた。
続く~